初秋
リュックを背負った男の子が、山道を弾むように歩いていた。
穏やかに晴れて、木漏れ日が薄暗い森の中にキラキラと降り注ぐ。
「あんまり急ぐと、疲れるぞ」
背後から父が呼ぶ声が聞こえるが、
うきうきと先を急ぎたがる足がいう事を聞かない。
土と水の匂い。樹皮の、葉の匂い。
それらが肺に満ち、駆け出したい衝動を抑えるのがやっとだった。
チリチリ、タッタッタと、自分を追ってくる音に振り返る。
リュックに付けたキーホルダーの鈴を鳴らしながら駈けてくる五歳の弟と、
笑顔を浮かべながら大股でその後ろを歩く父の姿が見えた。
「お兄ちゃん、待ってよ」
「バカ、走るな。転ぶだろ」
そう言いながら手を差し出すと、小さな手を繋いでくる。
風がさらさらと木立を過ぎる。もう何度目かの深呼吸をした。
山頂近くの小川で水遊びをし、お弁当を食べて帰る。
父の計画を聞いてから、うれしくてしょうがなかった。
まだ、登山は始まったばかり。
「お父さん、あの石、紐がついているね」
歌いながらしばらく歩いた後、弟がそう言って立ち止まった。
指差し、見上げる先には、しめ縄が巻かれた大岩があった。
「なんだっけなあ、小さい頃、お父さんのおばあちゃんに聞いた気がするけど。
ああ、ここに書いてある。
えっとな、昔、このあたりに大ムカデがいて、
偉いお坊さんがやっつけて、この岩を置いて封印、
ムカデを閉じ込めているんだって」
父が大岩の下に立てられた看板を読んでそう話してくれた。
ムカデ、って、運動会のムカデ競争の、
絵本で、全部の足に靴を履くのが大変で約束に遅れたと書いてあった、
あのムカデだろうか。
偉いお坊さんに閉じ込められるわけだから、悪い奴だったのだろう。
絵本のムカデは、おっとりと、とぼけた顔をして描かれていた。
少年は、本物のムカデを見た事はなかったが、
小さめのミミズくらいの大きさだろうと思った。
大ムカデなら、ヘビくらい? 一メートルくらいはあるだろうか。
お父さんのおばあちゃんが、昔話というくらい、ずっとずっと昔から、
この大きな岩の下に押し潰されて閉じ込められているという。
弟は、怖いね、といって肩をすくめてみせたけれど、
なんとなく、可哀想だと思った。
「ねえ、お父さん、ムカデって何をしたの?」
「さあ? それは書いてないな。
でも、ムカデなんだから、なにか悪い事なんだろ。
さ、急がないとお昼になっちゃう」
そういって弟の手を引いて歩き出した。
後を追おうとすると、誰かに呼び止められた気がした。
(みたい?)
薄暗い木立の向こうを見ると、山道から数歩ほど離れた場所に、
草に埋もれた、細いしめ縄がつけられた小さな祠があった。
(きれいな、いし、みたい?)
草むらに分け入り、屈んで祠を覗き込むと、しめ縄が邪魔でよく見えないが、
その奥に、黒く光る、ドッジボールの球くらいの丸い石が見えた。
少年は、引き寄せられるようにおずおずと、小さな手を伸ばした。