激震
病院の周囲は林になっていて、南側は街まで下りの斜面が続く。
老婆を伴ってはとても無理だけれど、ここを東南側に突っ切れば、
家までそんなに距離はない、はず。
降り積もった枯葉は滑り、その下の土は柔らかい。
何度も足を取られながら、木の幹を、枝を掴み、ひたすらに斜面を駆け下りた。
木立の向こうの道路を、パトカーや役所の車が避難を呼びかけながら通り過ぎていく。
みつかったら、まずい。
というか、ここにいること自体、まずい。
一刻も早く家に帰り、病院に戻る時間がなさそうだったら、近くの区民館に行こう。
もしかして、もう、ガスがここに来てしまっているのかも。
胸を満たす不安を打ち消しながら、必死で駈けた。
日本で避難警報が出されるようになってから、約二か月が過ぎた。
地球は、取り返しがつかないくらい病んでしまっているのかもしれない。
吸えば精神を崩壊させ、時には命に係わるという、
有毒なガスが噴出するようになっていた。
とある国でこのガスが初めて確認されたのは、今から五年ほど前。
マスコミは被害の様子を競うように伝えた。
モザイク処理された画面に、廃墟のような街をふらふら歩く人影が映し出された。
「怪物を見た。でっかい怪物が火を噴いて、街を焼き払ったんだ。
この世の終わりだ」
怪物が、怪物が、と、明らかに正気じゃない風に繰り返す様子なども。
しかし、このガスは一定期間経てば無害になって消えてしまうそうで、
警報が解除されるまで外気を遮断できる指定施設でやり過ごすだけでいい。
日本でも公的な施設を筆頭に密閉処置を施す工事がなされ、指定施設は各地に増えた。
誰もがその工事をどこか不安げに、また、どこかで大げさなと蔑むように見ていた。
二か月前に、日本でもガスの発生が確認されるまでは。
規制解除までは、だいたい、二十分から長くても一時間。
(息を止めてはいられないだろうなあ)
能天気にそう考え、試しに全力で走り続けて荒く弾む息を止めようとして咽る。
ふと気が付くと、走る車は一台もなくなっている。人ひとりいない。鳥までも。
ごうん。
遠く、地面が鳴る。
(これって、本気でまずくね?)
けれど、今さら引き返せない。ナツ。小さくつぶやいて、古い老婆の家を目指す。
基本的に日中、彼は仕事で不在、家にいるのは、ばあちゃんとナツと子供達だけ。
きっと、いつものように心配した近所の人が声を掛けてくれているはずだ。
それに、道にでさえすれば、誰かがナツ達を保護してくれる。
不安に折れそうな自分に言い聞かせながら走り続ける。
と、いきなり体が浮いた。
地面から弾き飛ばされて、路肩に叩きつけられる。
痛む腕を抑えて何とか体を起こすと、視界がぐらりと揺れた。
眩暈かと思えば、電線が縄跳びのように大きく波打っている。地面が、揺れている。
大きな揺れが収まり、やっと立ち上がって街を見回して愕然とする。
家が数件、崩壊していた。
弾かれるように駆け出す。ナツ、ナツ。
再び、ガガガガという地響きと共に路面がうねり、足がもつれる。
塀が崩れ、降り積もった雪が落ちるように屋根瓦が落ちてきた。
そのガシャガシャと続く音と、窓ガラスが弾ける破裂音に身を竦めながら走り続ける。
(何が起こっているんだ?)
突き上げるような振動によろけて膝をつく。振動が収まれば、また駆け出した。
角を曲がり、目の前の光景に、意識が一瞬とんだ。
老婆と自分が暮らしていた家は、ナツが子供といるはずだった家は、
瓦礫の山になっていた。
「ナツ!」
叫びながら、あたりをつけて瓦礫を退かした。
ほどなく、それは見つかった。膝から力なく崩れ落ちる。
ナツは、薄く目を開けたまま息絶えていた。
その体を引き出そうと持ち上げると、体の下に子供が。
小さな頭をそっと持ち上げようとすると、べたりとして、滑る。
触れた自らの手が、ぐっしょりと濡れて、紅い。
一見して、だめだ、とわかった。
最後の光景が過る。出かける自分とばあちゃんを、
子供と一緒に見送ってくれていたのに。
呆然と項垂れていると、ふと、鼻にかかったようなくぐもった声が聞こえた。
聞き違いじゃない。
必死に、折れた角材や瓦を放り投げると、指が裂けて鋭い痛みが走る。
いた。生きている。ナツの、もう一人の子供。双子の片割れ。
瓦礫から引き出したタオルでその小さな四肢を包んで抱え、来た道を戻った。
子供を抱えては、無理はできない。病院までの斜面を駈け上がる時間はない。
瓦礫の散らばる道を、区民館へ向かうべく海側に向かって折れた。
はあ、はあ、と、自分の呼吸が響く。
坂の上から見下ろす形で、住宅街が広がり、その先は海。そこに、それはいた。
「なんだよ、これ。冗談だろ」
海から身を起こしたそれは、啼いた。
空色を帯びた白銀の鱗に覆われた体躯は、目算で十階建てのビルくらいの大きさがある。
その顔の両脇に付く、蒼く透け、鋭く扇状に広がるものは、ヒレだろうか。
キャアァァアアァァァアン。
大気を裂くような咆哮を放つ口に、強暴そうな牙が並ぶ。
竜? まさか。自分は、いつの間にかガスを吸ってしまっていたのかもしれない。
と、いう事は、あれは幻だ。
でも。
じわりと、涙が滲む程の、うなじの産毛が逆立つような恐怖に、たまらず背を向けて走り出した。
とにかく、逃げなきゃ。
瓦礫を踏み、飛び越し、山側へ向かって駈けた。