君の名前
「じゃあ、またね」
君はそう言って、バイクに跨がった。
「暗いから気を付けて」
バイクとスクーターの中間、普通より小さめの、小回りがきく君の愛車。バイクにいまいち興味が湧かないからよくわからないけど、君の細腕でも運べることはわかる、小型の銀色の塊。
「大丈夫」
ヘルメット越しにふふ、と笑い、ひらりと手を振る。
夏の夜、テールランプの残像を尾にして、君は闇にふわりと溶けた。
ケータイが鳴ったのは、風呂から出て濡れた髪をタオルで拭いながら茶を呷っていた時だった。ワンルームの部屋に、それははっきりと無機質に響いた。
片手にタオルを、もう片手にゴブレットを持ったまま、ローテーブルの上に放り出してあったケータイに近づく。汗だか水だかわからない雫をタオルで拭き取り、サブ画面を覗き込んだ。ガラスの上で振動する四角いそれは、見覚えのない番号を写し出していた。
夏の日が長いと入っても外はすでに闇に沈み、夜も更けている。こんな時間に見知らぬケータイにかけてくる非常識な奴は、どんな奴なのだろう。非常識さに少しイラつきながら黒い塊を持ち上げ、荒く通話ボタンを押した。
「もしもし?」
おもわず、声に感情が漏れ出てしまった。
《もしもし、こちら第一病院ですがコバヤシアキさんでしょうか?》
「あ、はい……何か?」
逼迫した声に、後ろから聞こえる緊迫した大声に、思ってもみなかった所からの電話に、声が裏返る。
《タカシナミズキさんという方はご存じですか?》
闇に溶けた、バイクの後ろ姿が脳裏に甦る。
「はい……あの……?」
胸が騒いだ。
さっき見送ったあの小柄な後ろ姿。どうかしたのだろうか。
《タカシナさんが事故でこちらに運ばれまして、失礼ですがケータイを調べさせていただいて、あなたにご連絡差し上げました。それで……》
頭が、見えない巨人に平手打ちされて。耳の奥から強く耳鳴りがして、先はよく聞こえなかった。
「じ、こ……?」
喉が、張りつく。地面が揺れてるみたいに、ぐらぐらした。
《はい……手術中でして、ご家族は明日にならないと着けないということで、一番近い方にご連絡差し上げたのですが……》
機械の穴から漏れ出る声に、真っ白になってしまった頭を精一杯動かして、声を絞りだした。
「……か、ら……今から、行きます……っ」
普段の自分からは考えられないような、かすれて消えそうな声が出た。頭の中が真っ白になったけど、行かなければというその思いだけが体を支配していた。
震える指でケータイの電源ボタンを押し、塊になってしまったような息をゆっくり吐き出す。
タカシナが……高科が、事故? 嘘だろう?
手が、指が、肩が、勝手に震えていた。地面はまだ揺れている。
「行かなきゃ……」
唐突に思い出す。
病院にいるって言っていた。家族が遠くに住んでいるのは知ってる。高科の知り合いの中で俺が一番近い場所に住んでいるのも、知っている。だったら俺が、高科のところに行かなきゃ。
地面はまだ揺れていたけれど、無理矢理立ち上がった。手近なジーンズとTシャツに着替え、財布とケータイをねじ込んで、鍵を掴んで外に出た。震える体と焦る心に何度もやり損ねながらも、なんとか鍵穴に鍵を差して回した。
頭の大部分はぐちゃぐちゃに混乱していたのに、ほんの一部だけがやけに冷えていて、そこが俺の手を足を動かしていた。
足は自然と早くなり、俺は大通りに出た。
道を一本出るだけで、明るい街頭やネオンが光り、沢山の人が歩いていた。車も沢山走っていて、手を挙げるとそう待たずしてタクシーが寄ってくる。自動で開く扉を手で抉じ開けるようにして飛び乗って、
「第一病院、急いでください!」
叫ぶように行き先を告げた。
タクシーは音もなく走りだし、俺は落ち着かなくてケータイを握り締めた。必要以上に力が入っていると気付いたのは、ケータイを握り締める手の爪が白くなって小刻みに震えていたからだった。
高科。
高科。
お願いだから、夢であってくれ。事故なんか間違いだったって、笑い飛ばしてくれ。
なぁ、高科。
かすっちゃった、とか笑いながら言ってくれよ? そんなに急いで来なくてもよかったのに、って。
なぁ、高科。
ケータイを握った拳を祈るように額に当てた。どうしても震える体を抑えたくて、強く強く唇を噛む。
後ろに飛んでいくタクシーの窓の外の景色は、幸せと平和が満ちてきらきらして見えた。
救急外来のランプが眩しいくらいに点いている所に停めてもらい、財布から札を一枚引っ張りだして、転げ落ちるようにタクシーを降りた。
もつれそうになる足を心で叱咤しながら動かし、暗闇の中を明かりを求めて走った。人影の揺らめくナースステーションを遠くに見つけて、走る足に更に力が入った。
「あのっすみませんっ、高科は……タカシナミズキはどこにっ」
やわらかな明かりの中で発光するように真っ白なナース服が妙に眩しかった。
「コバヤシ様ですか?」
「はいっ! 高科はっ?」
「緊急手術は終わって、現在病室にみえます。病室は五〇八です」
居場所を聞くと同時に足が勝手に走りだした。看護師さんが後ろで何か叫んでいたが、もう耳に入らなかった。
エレベーターを見付け、表示板の下のボタンを連打する。五〇八という数字が頭で点滅して、エレベーターを待つ間でさえもまどろっこしかった。唇を噛み、隣に見えた階段へ体を翻し、段を跳び抜かしながら走った。
高科。
大丈夫だよな?
緊急手術をしたと言っていた。
でも、もう大丈夫なんだよな?
なぁ、高科。
俺の心が痛いと叫んでいた。ただひたすら、高科を呼び続けていた。
「五〇八……五〇八……っ」
息をきらしながら、静寂と夜闇に沈む廊下を走る。
五〇八。その表示をひたすら探して彷徨った。荒々しい足音が反響して廊下の奥に吸い込まれていく。
五〇八と書かれた赤い数字を見付け、足を止める。
息と唾を、渇いた喉に押し込んだ。夜の病院というのは驚くほど静かで、少しの物音でさえやけに響く。
ひんやりとした長い把手に手をかけ、何故だか俺は躊躇った。高科を呼ぶために息を軽く吸ってから、ゆっくり扉を開けた。
「高科」
病室の中、際立たせるように一ヶ所だけライトが点いていた。
光の輪のなか、肌を埋め尽くすように巻かれた包帯と、四方にのびる様々な色をしたたくさんの管。口と鼻を覆うように緑色のプラスチックが固定されていて。病室は、黄緑の光が描く波線から出る電子音と、膨らんだ風船から空気が抜けるような音が、規則的に響いていて。
そのなかでひとり、高科が眠っていた。
地面が、世界が、大きく揺れた。
「高科……うそ、だろ……?」
自分でもぞっとするような声が、喉から湧き出た。
そして俺は、目が高科に縫い付けられたまま、その場にゆっくり崩れ落ちた。認めたくない現実が、そこに用意されていた。
どれくらい、病室に入れないでいたのだろうか。
見回りの看護師さんに声をかけられて、俺はようやく高科から目を離すことができた。病室に入らなければ、これを夢にできる気がどこかでしていたんだ。ああ、悪夢だったのか、と欠伸をして、朝を迎えれる気がしていた。
だから、入れなかった。
俺の横をすりぬけて病室に入る看護師さんに、その叶わない夢は簡単に打ち砕かれた。
「タカシナさんの、彼氏さんですか?」
懐中電灯を持ったまま、看護師さんは口を開いた。闇に広がるやさしい声に引き摺られるように、俺は病室に足を踏みだした。
「……いえ……友人、です……」
先程みたいなぞっとする響きではなくなったけど、それでも嗄れた声が出た。
近付く程に鮮明になる、高科の小さな姿。
なぁ、高科。俺、こんなの、見たくなかったよ。
看護師さんは腕時計を点滴に近付けて、雫が落ちる速度を測っている。
「こんな夜中に駆け付けてくれたから、てっきりそうかと思っちゃいましたよ。こちらに椅子がありますから、彼女の隣にどうぞ」
パイプ椅子をベッドの隣に用意してくれた看護師さんに、ぎこちなく頭を下げる。錆びたみたいに体が滑らかに動かない。
高科の肌は真っ白な包帯に埋め尽くされていて、所々隙間から見える肌には、絵の具で塗ったみたいな青紫の痣やかすり傷が見受けられる。もともと色素の薄い高科の肌は普段より青白くなっていて、包帯と同化するような肌に痣や傷が鮮やかに目立つ。頭にも包帯が巻かれていて、染めたばかりの栗色の髪が枕の上に散る。胸から下は汚れのない白いシーツの下に隠れているが、その細い肢体はきっと包帯でぐるぐるに巻かれているのだろう。シーツの上に乗った細い腕が、痛々しかった。
「……飲酒運転の車が、停まってるタカシナさんに突っ込んできたんですって。それほどスピードは出ていなかったけど、バイクと車じゃ明らかにバイクのが不利だから……」
看護師さんがぽつり、ぽつりと話す言葉に、頭がゆるやかに麻痺していく。目の前のことが、現実でないような錯覚。丁度、テレビのドラマを観ているような。
看護師さんは、何度もこういう患者を見ているのだろう。だから、こんなに落ち着いた口調なのだろう。ナレーションを聞いているような、ドラマの台詞を聞いているような、そんな錯覚。
ベッドの隣のパイプ椅子に腰掛けて、俺は映画やドラマを観ている気分になっていた。目の前に高科が横たわっているのに、現実味がまるでない。
「彼女、もう麻酔が切れているはずなんですが、まだ目醒めないんです。ひどく頭を打ったみたいだから、明日詳しい検査をしないとわからないけれど……」
横から音もなく手を伸ばし、高科の手に触れる。こんなに細い腕で夜勤や看病が勤まるものだ、と場違いな考えが頭をよぎる。
「手を握って、名前を呼んであげてください。彼女は今、彼方と此方の間で、ひとりで戦ってるんです」
ドラマで聞いたような台詞を、看護師さんは真剣な顔をして言う。
さり気なく持ち上げられた左手が、高科の手を包むようにさせられる。触れた肌はいつもよりもずっと冷たくて。かすり傷が、滑らかな肌に凹凸を作り出して。なにより、普段眠りの浅い高科が反応しないのが、一番俺の胸を抉った。
苦しくて、痛くて、俺は唇を強く噛んだ。
看護師さんはいつのまにかいなくなって、病室は俺と高科のふたりだけになっていた。窓の向こうも、窓のなかも、真っ暗だった。俺は両手で高科の手を握りそれを額に当てて、ただひたすらに祈っていた。
電子音と風船の音は相変わらず規則正しく時を刻むし、俺の肩は小さく震え続けている。
「……高科」
高科の目蓋は閉じられたまま。
「高科」
音も、規則的なまま。
「……高科……」
淀んだ暗闇は、明ける気配がない。
「なぁ……高科……」
起きてくれよ。まだ朝は遠いけど。
「……っ」
強く、強く手を握る。唇を噛み締める。ぷつん、と表面が切れた感覚がして、生暖かい鉄の味がした。
泣きたいのに、涙は一粒も出なかった。こういうとき、泣けたら少しは楽になれるのだろうか。
鉄の味のする唇に、それでもなお深く歯の跡を刻みつける。唇から滲む血の味に、何故だか昔を思い出した。
高校の、何の変哲もない休み時間。くだらない話をしては、笑っていた。夏にはみんなで海水浴に出かけて。見慣れた相手の見慣れない姿に、なんだか目のやり場に困ったり。ふとした仕草に、妙に胸が騒いだり。部活の試合に応援に行って、勝って大喜びした。
その風景の中に、高科はいつもいて。仲が良いグループの一員として、俺たちはずっと一緒にいた。中学は同じだったけど、クラスが違うから顔を見たことある程度だった。高校で一緒のクラスになって、意気投合して。もっと早く仲良くなってたら楽しかったのに、って笑いあった。
大学生になってもグループの仲は良いままで、酒を飲めるようになってからは月に一度、誰かの家で飲み会をしていた。そんな、なんの変哲もない平和で幸せな毎日。
高科は、その中に大きな変化を介入させた。生死の境を彷徨う程に、大きなものを。
どうして、高科なんだろう。もう少し高科と別れるのが遅かったら、こんなことにはならなかったのかな。
どうして、こんなことになったんだろう。
どうして、戦ってるのは高科なんだろう。
俺じゃ、高科以外の奴じゃだめなのかな。
別れる、あの瞬間。少しだけ、もう一言でも話していたら未来は変わっただろうか。高科は、包帯に巻かれなくて済んだだろうか。こんな痛い想い、知らなくてよかっただろうか。自分の無力さに、何も出来ない歯痒さに、唇を噛みしめなくてよかっただろうか。
目を閉じて、瞼の奥の見えない誰かにそう問うていた。時間が停まったみたいな病室の隅っこで、何も出来ないまま。
今の俺は、時計の針を戻す魔法があったなら真っ先に飛び付いただろう。こんなにも切に時間が戻せたら、ということを願ったのは初めてだった。時間が戻せるのなら、神様でも悪魔でもなんでもいい、戻してくれ。対価なら、何でもくれてやる。体でもなんでも好きなところを持っていけばいい。
でも、そうだな。
高科に何もしてやれないこの両手なら、喜んで差し出すよ。これくらいで時計の針が戻るなら、お安い御用だ。大事なひと一人、守れないようなこんな両手。なにもしてやれないような、無力な両手。そんなもの、あってもなくても意味がない。
なぁ、そうだろう?
時間が過ぎるのは、驚くほど遅かった。眠ることも泣くことも、守ることも痛みを引き受けることも何一つ出来ない俺は、ただひたすら高科の手を握り続けていた。俺に出来る、唯一のことだったから。唇はまだ痛い。でも、噛まずにはいられない。歯がめり込もうが、皮が切れて血が出ようが、かまわずに唇を噛んでいた。そうしながら高科の心の音に耳を澄ませ、かすかなサインも見落とさないように感覚を研ぎ澄ます。俺が手を握りなおした時に動いた指先に、過剰に反応してしまったり。それが気のせいだったと気付けば落胆した。
それはなんだか恋をしているみたいに落ち着かなくて。ああ、高科もこんな気持ちでいたのかと、そう思った。
知っていたんだ。高科が俺をどう思っているのか、本当はわかっていたんだ。
けど、高科との“友達”という関係はあまりにも居心地が良くて。俺は、気付いていないフリをした。知らないことにした。高科の気持ちは、考えないまま。高科は、かわらず笑っていてくれた。だから安心して友達を続けていた。浅はかだった俺は、残酷な選択をしていることに気付かなかった。
あの笑顔の奥で、高科はどれだけ傷ついていたのだろう。俺はどれほど高科を傷つけていたのだろう。わからないけど、きっと沢山傷つけた。
思い出すと、胸が痛む思い出がある。グループ内の男子達に唆されて、一度だけ、今までで一番残酷なことをした。
呼んだんだ。高科の名前を。
近くの海岸で海水浴を終えて、花火を買いに行くときだった。ジャンケンに負けて、近くのコンビニに行くことになって。
呼んだんだ。瑞季、行こ、って。そうして、手を差し出した。
やってみると案外大したことのない、小さなことだった。それだけのことだった。初めて呼んだ高科の名前はなんだかこそばゆくて、違う人を呼んでいるみたいだった。
少し離れたところにいた高科は、驚いたように顔を上げて、俺を見つめた。夕日が瞳をきらきらさせて、つるりとした肌を赤く染める。ビー玉みたいに輝く瞳の奥に、俺が小さく映っていた。
俺はもう一度、瑞季、と呼んだ。差し出した手を持ち上げ、促す。
高科はゆっくりと俺の傍に来て、差し出した掌の上に手を重ねた。重ねたやわらかく小さな掌は、俺の手の中で小刻みに震えていた。その震えを拭い去るように、ぎゅうと強く握った。
行くよ、と言いながら手を引っ張って隣に立たせ。子供みたいに、繋いだ手を前後に大きく振った。高科は急な出来事に体がついていかないみたいで、振られた腕につられて肩から体を揺らした。
何の花火買おっかな、と即興のリズムに乗せて歌うように口ずさみ。ゆうら、ゆうら、とリズムにあわせて大きく腕を振る。足取りは重くもないし、軽くもない。俺は海水浴でみんなで遊んだ延長線上のこととしてやっていた。何の意味も考えず、ただ手を繋いだだけ。友達が言ってたことを、何も考えずにやっただけ。
なぁ、高科。高科はどう思った?
いつも誰が相手でも名字しか呼ばない俺が、名前を呼んで。手を差し出したりなんかして。
高科はいつもみたいにのってこなくて、少し先のコンビニに入るまで俯いて黙りこくっていた。汗を凍らせるほど冷房の効いた店内に入るとき、高科の手がするりと掌の中から消えた。俺たちは入り口の近くにある花火売場で、一番沢山種類も量も入っている大きなパックを買った。ついでに、パピコもひとつ。
汗が吹き出るような蒸し暑い店先で袋を開き、2本入ってるチューブを半分こした。高科はようやく顔を上げてくれるようになって、そこにすかさず蓋を開けたチューブをくわえさせた。冷たっ、と言う高科を軽く笑って、俺も口にチューブを突っ込んだ。冷たくて固くていやに甘くて、それでいて甘さの奥で少しだけ苦かった。
俺はまた高科の手を取り、堤防の上を歩いて海岸を目指した。今度はアイスを食べていたから、互いに無言のままだった。アイスを持つ手はひどく冷たくて、反対側の繋いだ手は少し汗ばんで。潮騒と朱い光が乱反射する熱い空気の中を、俺たちは歩いた。みんなが見える少し手前でアイスを口から抜いた。
瑞季、と冷えた口の中で高科の名前を転がす。
なぁに、と少し間をあけて答えが返ってきた。
何でもない、と返したら高科は、何それ、と少し怒った口調で。でも高科の顔は笑っていた。俺はアイスをまたくわえて、口を閉じた。海岸で動く色とりどりのみんなが見えてきた。
ねぇ、暁くん、と今度は高科が呼んできて。
んー、とアイスをくわえたまま答えた。
繋いだ掌に穴があいた。足を停めて高科の方を向くと、こわいくらいに静かな声で、小さな一言。
私、勘違いしちゃうよ。
俺を見上げる困った笑い顔が、今にも泣きだしそうで。赤い光に染められた高科は、とても小さかった。
その時に、初めて気付いたんだ。高科が、俺をどんな風に思ってたか。俺は鈍感だけど、バカじゃない。気付いた。気付かされた。
そうして、俺は俺のやったことを後悔した。掌にも心にも、穴があいた。
友達は知っていたんだ。だから、名前を呼んで、手を繋いでみろと唆したんだ。俺が高科の気持ちを知らなかったから。ちょっと二人の仲を取り持つような、そんな軽い考えだったんだろう。
困らせちゃって、ごめんね。
高科はそう言い残して、先に砂浜に駆けていった。俺は一人、堤防の上に取り残されて。掌には穴が開いたままだった。
その後は普通に花火をして、はしゃいで、みんなで帰った。高科はいつもの高科で。みんな、いつものみんなだった。いつもと違ったのは、俺と高科がなんとなく近寄らなかったこと。唆した友達が微妙な空気を察して、いつも聞いてくるのに何も聞いてこなかったこと。俺が、驚きと衝撃で反応が鈍っていたこと。それだけ。
その後から、俺は高科の気持ちを知らないフリを始めた。高科はその後も変わらない態度で接してくれた。だけど、高科の名前を呼んだのは、それが最初で最後になった。今日、久しぶりに高科の名前を口にした。高科に向けてではないけれど、あの時の記憶が二度と高科の名前を呼んではいけない気にしていたんだ。
包帯の隙間から覗く高科の肌に、指をすべらす。指の腹に傷でささくれだった皮が引っ掛かる。
あの時の記憶の中の高科と、今目の前で横たわっている高科があまりにもずれていて。同一人物だと思えなかった。
「……高科……」
吐き出す息に乗せるように呟いた言葉は、真っ白な包帯に吸い込まれて消えた。
「……ごめん……」
あの夏の日言えなかった言葉が今、溢れるように口から零れた。
俺が悪かったのに、高科は優しくて。
気付けなくて、ごめん。謝らせて、ごめん。何も言えなくて、ごめん。知らないフリをして、無かった事にして、ごめん。
沢山の『ごめん』がひとつの『ごめん』になって、口から生まれた。
今更だってわかってる。高科が聞いていないのもわかってる。でも、言いたくて。今言わなきゃ、この先永遠に言えないような気がしたんだ。俺は、高科の気持ちから逃げてしまった臆病者だから。でも、高科が聞いていない今なら。困らせない今なら。
呼んでもいいかな?
「……ミズ、キ……」
知ってたよ。高科の名前が、とてもいい名前だってこと。
「瑞季……」
初めて聞いたとき、綺麗な名前だな、って思った。
「瑞季」
あの夏の日に初めて呼んで、もっと呼んでいたいと思ったんだ。舌の上で転がるその名前は、とても美しかった。
「なぁ、瑞季」
俺が呼んだら、届くだろうか。たとえ君が此方から彼方に行こうとしていたとしても。君に好かれていた、俺の声なら。
「起きてくれよ、瑞季」
何度だって呼んでやる。目が覚めるまで、耳にたこが出来るくらい。飽きるほど呼んでやる。俺は諦めが悪いから、祈りをこめて何度も名前を呼ぶよ。だから、目を覚ましてくれよ。
なぁ、瑞季。
もうすぐ夜が明ける。ほら、空が白んできた。
朝焼けなんてすぐに終わってしまうから。
そうしたら、瑞季が一番大好きな空の色が見える。目を開けて、見てみなよ。
きっと、今日も空は青いまま、瑞季を待っている。
Rapid-Fire 企画第二回(文末課題文:「今日も空は青い」を使用する)参加作品