アリスが冷たい
婚約者アリスを愛する底抜けに明るい伯爵家の当主と、冷静で嘘をつかない執事と、その家に忍び込んだこそ泥の短編です。昔にサイトのウェブ拍手に掲載していて自分でも忘れていましたが、あまりもひっそりしたところに置いてあったのでこちらに。
「最近、アリスが冷たいんだ」
その家系図をさかのぼるところ、建国当初の名の在る廷臣にまでさかのぼることができる由緒正しきダージリン家の伯爵である、若き当主は肘掛け椅子の背もたれに軽くもたれて憂鬱なため息をついた。
柔らかな茶色の髪に、生まれてこの方何不自由ない育ちを感じさせるなめらかな頬をした青年だ。肘掛椅子においた掌は厚く、細く垂れ下がった瞳は、きゅっと目元をよせるだけで笑みのようにも見える。総じて人が良さそうな若殿だが、今はその頬もかすかに歪み口から漏れるのはため息ばかりだ。
主人の憂いに答えるように、脇に控えた執事が、優雅に腰を折った。細身に長身、涼しげな顔立ちもあわせて旧家の使用人としてかくあるべしとの見本のような姿だ。きちりとダークと白に色分けした糊付けのタキシードを着た完璧ないでたちを保っている。伏せた目元で胸に斜めに手を添えてつつましく執事は口を開いた。
「僭越ながら申し上げますと、アリス嬢のご主人さまにたいする態度は競馬に例えますと各馬いっせいにスタートを切るよりさらに前のゲートインの時点――いえ、競走馬が出馬を決めた時点に戻る当初まで明々白々にきっぱりと北極熊も凍死するレヴェルの冷たさであったと思います」
「そうか。少し冷たいんだね」
当主はため息を吐いた。
「話しかけても返事もしてくれやしない」
「統計学的に申し上げますと、アリス嬢のご主人さまにたいする返答率は人前でも1%、百度話しかけてようやく一度答える確率で、これが二人きりの場合は0,1%。千度話しかけてようやく一度返答がいただけるという確率であり、空から放たれる雷を家の中にいて受ける確率の方がやや高いかと思われます」
「そうか。少しすくないね」
当主はため息を吐いた。
「それに私を見もしない」
「観測上申し上げますと、アリス嬢のご主人様にたいする視線の配りはぐるっと広間を見回す場合においてもご主人さまがお立ちになられる地点にさしかかると突然はるか天井へと移動される不可思議な曲線を描いてご主人さまがお立ちになられる地点をすぎるとまた地上へと舞い戻り広間を見回すという軌跡をたどっておりました。アリス嬢の視線はご主人様をモブとして目に入れることすら回避するという徹底ぶりを見せておりました」
「そうか。少し見られていないね」
当主はため息を吐いた。
「またちらっとも笑いやしないんだ」
「私の乏しい記憶におきましても、アリス嬢が旦那さまにお笑いになったことはお二人がお出会いになった3年前よりさかのぼり、さらにアリス嬢の誕生、旦那さまの誕生も飛び越して、ダーウィンなるものの俗説に従いますと我々人類が猿であった頃そのさらに手前の四足歩行の生物、さらにさかのぼり海へと返り波間の中に漂うプランクトンほどの大きさで息づいていた古代にいたるまで、唯の、一度も、ございません」
執事の前で主人は沈黙した。沈黙したが、やがて一定時間たつと必ず同じことを歌いだす仕掛け時計のように、また口をひらいた。
「最近、アリスが冷たいんだ」
執事が再び答えようとしたとき、不意に何事かに気づいたように横を向く。
「失礼。ご主人様。何者かが来訪したようです」
来訪、と聞き返した主人の声は、次の瞬間、喜色を帯びる。
「アリスか!」
「いえ。アリス嬢が、自らの意思でこの家を訪問されたことはかつて一度もなくこの屋敷が建っているというだけでこの地区全体に絶対馬車を入れないようにしていると人前で公言されていたことは私が把握する限りでも両手の指に収まらない回数ありそれだけをとってもアリス嬢がこの家を訪問することは皆無ですが、たとえそれを置いたとしても」
扉を向いた執事の瞳が冷たく光った。
「アリス嬢が、裏口から忍び込むことはまず、ありえません」
その家系図をさかのぼるところ、建国当初の廷臣にまでさかのぼることができる由緒正しきダージリン家の邸宅は、広々とした敷地と50を数える室数を有する巨大さとそして初代からさかのぼる威厳と歴史を備えている。ありていに言えば、広くてでかいが古い。
大層な硝子張りの天井が続く回廊を、こそこそと歩く人影もまた、そのことをいたく実感しているようだ。教会内部を思わせるようながらんとした空間に、他に人の気配はない。
明かりこそ天窓から差し込んで不自由がないが、人間がいないことで出来る影はしつこく細部に固まっているようだ。大雑把な掃除こそはなされているようだが、多くの使用人を動員させての綿密なメンテナンスは長らくされていなかったようだ――。
人影はそう思ったように端をちらりと見てうなずいた。人影の視線は他にも、壁や棚にしつらえられた装飾品に視線を配っているが、未練を残しつつもそこからはすぐ離れていく。回廊の中には、等身大の彫刻や壁にしっかりと固定された装飾品しか存在していない。
回廊に見切りをつけたらしく、小走りになって――けれど足音はたたずに――人影が回廊の終わりの扉に手をかけた。天窓からの明かりがなくなり、やや薄暗くなったが先には回廊に比べれば細くなった廊下が続いている。後ろ手に扉をしめかけた瞬間。
「――動くな」
人影がとまった。まるでその言葉に従ったように、ぎくり、と肩を飛び上がらせることもなく。ただ一拍あけた後、そっと振り向きかけた。
「振り向くな」
二度目の制止にその動きもとまる。背後から響いたのは、高く澄んだ声だ。エコーがかかっているので、やや遠くから放っているかもしれない。ふと、ぐるぐる、と何かの生き物が唸る音が聞こえる。ガウッと声だけで噛み付きそうな吼え声と共に。観念するには十分な。
「血統書つきの猟犬だ。命一つで獲物を八つ裂きにする」
「参った」
人影はあっさり手をあげた。
「他に言うことは、」
「言うこと?」
軽く聞き返して少しの沈黙の後。
「――おお、高貴なお方様。このほうはケチで哀れなこそ泥です。まだ何も盗んでおりません。どうか、命だけはお助けを」
哀れっぽくうめいてみるが、振り向かない背から放たれた声には言葉ほどの切実さはこめられていない。ふざけている、というわけでもないが、どんな事態に直面してもそこに一抹の茶化しをいれずにはすませられないような。
「その場にうつぶせに横たわれ。顔をあげるな」
肩をすくめて、人影は指示に従った。
「言葉どおり、たいした賊でもなさそうだ。猟犬と番犬の違いもわからぬのだから」
その言葉が最後だった。無防備にさらした首元に一撃をくわえられて人影は動かなくなった。
執事は膝をついて、掌の中の小さな小瓶を縛り上げられた相手の口の中に流し込んだ。それから白いナプキンで念入りに手をぬぐって白手袋を装着し主人の斜め後ろの定位置へと戻る。嚥下した辺りから小さな呻きをあげていた相手はほどなくして顔をあげた。
何かの汚れでだまになった薄汚れた髪と、髪とあまり変わらぬ土埃と汚れに彩られた服。シャツとジャケットが同じ土色をしているのは、初めからではあるまい。転がしているだけで汚れたカーペットを執事は心底厭わしく眺め、主人は縛りあげられた相手そのものに興味深々だというように射抜いている。
やがて相手は咳きこんだ。巻き散らされる唾に、さらに顔をしかめた執事の前で、顔をあげて咳き込みながら笑った。
「――いやあ。しびれる味ですね。これが話に聞く、お貴族さまの気付け用の上等なウィスキーって奴ですか」
「馬車にさす油だ」
うげ、と呟いて、長く伸びた前髪の向こうからのぞく瞳が、執事を見上げた。目元には皺もなく肌には張りがある。見た目が与える印象より、若いようだった。
「何者だ」
「お答えできるほど自分というものを持った試しがないもので。あえていうなら、浮浪者とでも」
家がない<ホームレス>? 主人が首をかしげて繰り返し、執事はとりあわずに続けた。
「その身分も今の貴様には過ぎたものだ。盗人め」
「それは仮の姿でして。人生の大半は浮浪者だから、本質はそこです」
減らず口を欠かさぬ相手に、執事は冷淡に告げた。
「なぜ、この屋敷を狙った?」
「人がいないと聞いたもんだから。目の数が少なけりゃ少ないほど、見つかりにくいってもんじゃないですか?」
「なるほど!」
不意に大きな声が場を打ち、執事と浮浪者の視線が集まった。その先にははたと手をうった主人がいる。
「君は家がない<ホームレス>。つまり君はここに、家を手に入れにきたんだ!」
「い、いや」
自信満々に宣言した当主らしき相手に、はじめて面食らったように、視線がちらりと執事を見る。仮面のような無表情にぶつかって、戸惑いのままきらきら目を輝かせている主人に向いた。
「その、お屋敷はちょっと盗みようがないってもんで、まあ、ポケットに入る程度の装飾品とか金品を失敬できないってもんかな、って、思ったもんなんですけど……」
「君は欲がないなあ」
「そ、そうですかね?」
「ポケットに入る程度の大きさでは、家のかわりにはならないぞ。せめて犬小屋を持っていきなさい」
浮浪者は無言で執事にまた顔を向けるが、相手は断固として視線をあわそうとしない。仕方なく向けた先で、当主は小首をかしげた。
「私の提案は、まずかっただろうか。犬小屋の方がまだ、雨風をしのげると思ったのだが」
「ああ――まあ。その通り、だと思います。でも俺が持っていっちまったら、今度は犬たちが雨風をしのげなくて困るんじゃないすかね」
すると当主の茶色い瞳が丸く広がっていっそうしげしげと眺めた。
「君は優しいなあ」
「――ご主人様」
冷ややかな声が停滞する空気を裂いた。
「幸い話は終わりました。聞き出したいことも聞き出せたところで、この者は退散させましよう」
「でも彼は家がないんだよ」
「これからはありますとも。立派な家が。管理人つきに、三食つき。強固で何があっても壊れず、彼の仲間もいっぱいおります。そこが彼の終生のホームとなりましょう」
「先には楽しい縛り首が待った、ね」
ぼそっと呟いた声は執事の鋭い一瞥をくらって、肩をすくめる。
「それは素敵だ。私も住みたいくらいだ」
「ご主人様には、少し似つかわしくないかと。一定の資格を持ったものしか入れない場所ですし」
「そうか」残念そうに呟いたが、自分の中で消化したようだ。「仕方ないな。そこに行ってしまうと、アリスが私はどこにいるかわからなくなってしまうだろうし」
「アリス?」
ふと呟いた浮浪者の声にばっと当主がこちらを向いた。
「君はアリスを知っているのか!?」
「い、や。先ほどご主人さんが仰ったことを繰り返しただけですが」
「そうだとも。アリスは有名人だからなあ」
「……」
「みなが彼女を讃えたよ。社交界の淑女たちが楽園を彩る花々なら、アリスはその上にかかる虹だと。白皙の頬に、白銀の巻き毛が包む様は神秘の光をまとう天使のよう、彼女の瞳は6月の雨が凝固したアメジスト。重みのない軽やかさは天女の身のこなし、その話し方笑い声は小鳥のさえずりにも似て声は妙なる清涼の流れ――君には教えてあげよう。アリスは私の婚約者なんだ」
「そりゃ……おめでとうございます」
天井にかかるシャンデリア辺りをうっとりと眺めていた伯爵は、きょとんと顔を戻した。
「おめでとう?」
「はい……おめでとうございます。素敵な婚約者さんを持ってお幸せでしょう」
言った後に浮浪者が首をかしげた。腰掛けた当主らしき男が、ぶるぶる、ぶるぶると、と震えだしたからだ。
「ああ! 出会ったばかりなのに、私とアリスを祝福してくれるなんて……! 君はなんていい人なんだろう! ――そう思わないかい、メイユ!」
「ご主人様の仰るとおりです」氷を食むような声音で執事が言う。
「ああ、もっと話したいなあ君と。……そうだ!君の新しいホームは君にふさわしいところだろうけれど、どうだろう。しばらくここに滞在して私の話し相手になってくれないか」
ぽかんと見上げた浮浪者だが、無意識に視線を走らせた執事の顔に初めてよぎった狼狽が理解を生んだ。執事が何か口を挟もうとする一瞬早く、首肯する。
「いいっすよ。喜んでお引き受けいたしましょう」
「本当かい!? 嬉しいな! メイユ! さっそく準備を――」
「お待ちください、ご主人様」焦るかと思ったが、執事はつと冷静な態度で目を向けた。「今のは彼の階級における特別な隠語です。「いいっすよ」は彼の階級において「大変ありがたいですが、急がなければならないので、辞退させていただきます」という意味です」
「なんと、残念だ」
「ちげえっ! 嘘ですよ!」
「嘘? メイユは嘘などつかない」
純粋な目を向けられて、浮浪者はうっと詰まった。しれっと嘘をつく執事は、主人の言葉を当たり前とばかりにすまし顔だ。浮浪者はせわしなく首を横に振って
「そ、その隠語は最近変わったんですよ! 「謹んでお話をお受けさせていただきますよ!」になったんです」
「そうだったのか。最近変化したならメイユがわからないのも無理はないな」
「お待ちください。ご主人様。先ほど、彼は首を横にふられたでしょう。あれは彼の階級における隠語を含んだ素振りなのです。首を横に振りながらものを言うのは彼の階級において「今言っていることは建前であり、どうぞあなた様に良識がおありでしたら申し出を撤回していただきたい」という意味なのです」
「はい、その素振りも変化しましたー!」
「浮浪者という人種は大変シャイで今日知り合ったばかりの相手の家に滞在することなど民族の風習として受け入れられないと聞いております」
「はい、その風習も変化しましたー!」
ふと執事が片手をあげて横を見た。
「少々お待ちください。誰かが訪問したようです」
かつかつと扉に向かってわずかな隙間を残して廊下に消えた姿のかわりに「ええー!」「なんと!」「それはお気の毒なー!」「わかりました!」という声が立て続けに聞こえてきて、唖然と立ち尽くす浮浪者と主人の部屋に、執事は顔を戻した。
「大変です、ご主人様。彼の妹から急使がまいりました。お父上が危篤なのでどうぞ兄を至急わたくしのもとにかえしてくださいとの切なる訴えでございました」
「がんばるなあんたも!」
即興劇までかました相手に思わず本音が出る。が、それもつかのま、勢いこんで伯爵を向く。
「それは浮浪者間のジョークです。超元気なんで一週間くらい帰ってこないでいいよ、という意味なんですよ。伯爵さま」
「今日だけはジョークじゃない! と彼の妹が申しております!」
「なんでこの場でやりとりができんだよ!」
めまぐるしい応酬に言葉を挟む余地もなく、二人の間をくるくる首をまわしていた伯爵だが、痺れをきらした浮浪者が突然叫んだ言葉には震えた。
「アリスさま!」
顕著な反応を示した主人に、執事の顔色も変わる。
「伯爵さま! ここに滞在して、素晴らしい婚約者のアリスさまのお話をぜひともお聞きしたいです!」
一拍おいて伯爵は執事に顔を向けた。敗北を悟っているようはじめて青みがさした顔で見返す執事に向かい
「彼には滞在してもらおう」
にっこり笑った。
「メイユともすっかり打ち解けたようだし」
「そのときの社交界でのアリスの立ち振る舞いは伝説になっているよ。リンバーグ家のサロンのことでだが、そこの老婦人が最中にご気分を悪くされてね。それでも気丈な方でね、お客様に失礼があってはならないと最後までホスト役を努めようとしたらしいんだ。お客さま方はそのことを悟っているけれども、老婦人の意気も悟っているのでなんとも口を挟めない。はらはらと心配げに見守るだけだ。最近、流行とお聞きしましたが、心を培う方法をご存知皆様と。とても静かな音楽を皆で座って目を閉じて聞いているのだと。ソファをあてて、座った夫人はだいぶ気力を取り戻されていてね。もちろん面目も大いに保つことができた。ふふふ。私のアリスは美しいだけではなく、機知にも飛んでいたのだよ」
雪のように白いテーブルに、磨きぬかれた銀器が置かれている。三段に積み重なった皿の上に数種類のケーキと、ジャムやサワークリームが添えられたスコーンと、ハムとレタスが挟まれた小さなサンドイッチがそれぞれの階を彩っている。窓側の席に腰掛けて、主人の舌はなめらかに踊っている。
向かい合った相手は熱心に相槌をうっている。よくよく冷静に聞いてみると、「へえ」「どうして」「なるほど」「素晴らしい女性ですね」と決まったそれを使いまわしているだけなのだが、身を乗り出してタイミングにあわせていうと、実にもっともらしく耳に響く。たまのスパイスに伯爵が気に入っているらしい言い回しを繰り返すのも上手い。
「そうなんだ、アリスは素晴らしい!」
いい聞き手を得て、名器を手に入れた奏者のように張り切り頬を紅潮させて語っていた伯爵だが急にしゅんとした。
「完璧な淑女というものがもしいたら、それがアリスだった。ただね。彼女は今、とても機嫌を損ねているのだ」
「そりゃ、どうしてですか?」
「わからない。私に何か落ち度があったのかもしれない。前からクールなところはある彼女だったけれど、今はかなり徹底していてね。毎日だ。いつ会っても冷たくて。返事もしなければ私をちらっとも見もしない。そんな態度にあうたびに、私は悲しくて仕方ないんだ」
「なるほど」
「心底想っている相手が冷たいと、どんな瞬間も地獄にいるようだね。アリスが冷たいんだ。私はそれがとても悲しい」
「女心はわからないですけど――」鼻をこすって相手は告げた。「心からそう心配してくれている、あなたがいるだけでアリス嬢が救われている部分はたくさんあると思いますよ」
その言葉に当主の碧の瞳が少し見開かれて、何か言おうとした。
「ご主人様!」
少し高めの執事の声がわりこんだ。
「執務室でお手紙を書く時間です」
「ああ――。もうそんな時間か。あっという間に過ぎてしまった。名残惜しいな」
「さようでございますか」
「メイユ、彼と話すのは本当に楽しいよ。ホームに行かず、ずっとここで過ごして欲しいくらいだ」
「ご主人様!」
上品さを残しつつ、鋭い声音は何か言いかけた男より先にぴしゃりと打った。「急ぎの返事と伺っております。どうか書斎まで」
通常のお茶の時間よりも遥かにオーバーして、にこにこしながら退出する主人につかずに執事は振り向いた。そこにいた相手は、鷹揚に腰掛けていた一瞬前とは一変して、前のめりになっている。それまで一度も手をつけなかったテーブル上のサンドイッチや茶菓子を目にもとまらぬ勢いで口の中に入れて、ぎゅもぎゅもと頬を膨らませながら浮浪者は見返した。
「すげへうまひ」
「――蛮人め」
冷え冷えとした侮蔑を褒美に与えられて、それでも相手は夢中と言うようにスコーンを頬張る。
「次の仕事だ。裏門に注文していた薪が届いた。さっさと割れ」
「はひはい」
ぱんぱんに詰めた口の中身を冷めた紅茶で一気に流し込んで、浮浪者が席を立った。そこでふと気づいたように片腕を伸ばしてシャツに触れる。サウナから出てみると、自分がまとっていたボロ服は綺麗さっぱりに姿を消してかわりに置かれていたものだ。
「汚れる。このままでいいのか」
「下男用の服だ」
いいもん着てる、と呆れたように呟く。
「それが終われば、馬小屋、庭、下水の掃除がある」
「今日中にか!?」
「明け方まで待ってやろう」
「冗談! 死ぬぜ!」
「ホームがいいか?」
笑いもしない執事の顔にむっと頬を膨らませて
「他に使用人はいないのかよ。ほんとあれだな。火の車な内情を必死に隠してるって感じ」
ぶつぶつ言いながら、裏口を出たところに、奥行きのある小屋が立っていた。丸太で作られているがしっかりした作りで見た目も清潔そうだ。貧民街の住民からすれば一級の家くらいには思える。
「これが、馬小屋か?」
「犬小屋だ」
浮浪者は肩をすくめる。
「どのみち、ポケットに入れられるもんじゃないな」
獣の気配がしない犬小屋を脇にして、屋根がついた薪置き場に肩をすくめながら向かった。
「最近、気がめいるばかりだったが、久々に楽しい」
久しぶりに太陽の下で、主人を見たような気がした。下といってもバルコニーだが、手すりに近づけば人目に触れることもある。あまり良い気分はしなかったが、青い空を背景に光の中の主人は、薄暗い屋敷の中とは別人のように健康的に見える。
「本当に、いい人だな。彼は。家の仕事もだいぶ手伝ってくれているんだろう。メイユもだいぶ楽になったんじゃないか」
「――はい」
冷ややかではあるが、嘘ではない。人格にまだ問題は散見するが、相手は効率を見抜く目もてきぱき動く機敏さも備えている。
「彼はずっとここにいてくれないかな。ここで働いてくれる人も、いつの間にかずいぶん少なくなったことだし」
「どうでしょうか。彼には行く場所もありますし」
冷淡に答えながら、思う。人間の現金さはよく知っている。命以外の見返りのなさに、人はいつまで満足できるだろうか。
薄暗い心で考える自分の前で、世界中の誰よりもそんなことには無縁な主人は、にこにこと笑う。
「彼はアリスが本当は私を求めてくれていると言ってくれた。私を必要としてくれていると言ってくれた。そうだ。諦めてはいけない。私が諦めず愛を伝え続ければ、アリスの態度はきっと軟化してくれる」
執事は答えない。その前で伯爵は強くうなずいた。
「私も信じよう。いつかアリスが私に応えてくれることを」
大時計の針は三時過ぎをさしている。昼ではない。深夜の三時だ。真っ当な勤め人ならばまず起きてはいない時間帯に、長い回廊を人影が動いている。ほとんど足音のしないのは厚いカーペットと、肩に下げた靴のおかげだろう。数日前とうってかわって、その視線が無用に彷徨うことはない。
任された仕事は主に下働きが中心で、豪奢なものがおかれた部屋などには立ち入りは許されなかった。それでも、数日動きまわればめぼしはもうついている。人が隠そうとするものにたいして鼻が利くのは特技だ。ろくでもない特技だ、と半ば自嘲をこめて自覚している。
回廊を抜けて廊下へと入った。いっそう闇が濃くなったので少し立ち止まって目を鳴らした。そのとき。薄暗がりの中で動く人影を見つけた。真夜中にこの屋敷で動くものは、自分を抜かせば二人しかいない。背の高さから執事はないと片付けた。
(――当主?)
彼は自分に気付いた様子もなく、ふらふらと廊下の向こうに消えていく。後姿だけだったが、確かに当主だ。
(……)
悪い人間ではない。ただとても無防備で危ない相手だ。自分が今まで住んできた界隈に放り込めば、一瞬にして骨までしゃぶられるだろう。最小限の人間だけを入れたこの屋敷で、一歩も出ないように暮らしているのも頷ける。
詐欺にも悪意にもまるで無力で。子どものように目を輝かせて、アリスアリスと口にする。彼が語るとおりなら、決して彼のような人間を婚約者にするはずがない相手を。冷たいアリス。それを必死に庇い立てする執事もこめて、哀れと言えば哀れだろう。
一瞬、浮かび上がったのは確かに感傷だった。だがそれもすぐにまた沈んだ。同情は上のものが下のものに抱く感情だ。最下層にいる自分には無縁のものだ。
それよりも、と、当主が出てきた場所に視線を定める。扉ではなかった。何もない壁の一角がすうっと割れて現れた。ちくちくと尻がむずがゆいような高揚を感じた。人が隠そうとするものを執拗に察知してしまう本能と言ってもいいか。誘蛾灯に引き寄せられる蟲のように、察知すれば確かめずにはいられないのは、業か。
近寄って表面を優しく撫でるように触れると、燭台の後ろに引き手があるのに気づいた。開いたそこにはぽっかりと地下へ続く階段があった。
中に入って入り口を探るとやはり引き戸があった。明かりがないのが心配だったが、閉じた瞬間に水底から浮かび上がる光のようにぼんやりと青白い光が地下から忍び寄ってきた。
二階分ほどにはあたりそうな階段をおりきったときに、広がったものは不可思議な空間だった。薄い襞が幾重にも垂れて視界を阻んでいる。柔らかな布が重ねられて中を隠す様は、物語やバラードできく東欧のハーレムのようだ。
なんだか触れるのも躊躇われてそっとくぐりながら、先に進む。薄い肌色のベールのおかげで、部屋の様子がまるでわからない。
けれど、一枚の布をくぐった瞬間、明らかにそこだけベールを避けて作られた空間が突如としてあらわれた。空間の中心に、細長い六角形の黒櫃が横たわっている。ひんやりとした空気の中で浮かび上がるそれは、形だけを見れば巨大な水晶の支柱のように思えたろう。
「棺?」
呟いて恐る恐る近寄った。表面は硝子戸で、何から光量を得ているのかわからない、青白い光が照らし出している。両手を胸の前で組んだ、一人の女性が横たわっている。硬く目を閉じているので、瞳の色はわからない。豊かな巻き毛もブルネットや栗毛色ではなさそうだが、青白い光に染められてよくはわからない。ただなめらかな頬に豊満な肉体。かつて目にしたことがないほどの麗人だということは悟られる。
水晶の形の棺に横たわるその姿も水晶で出来たようだった。けれどその質感。肌に少し残る産毛。作り物ではありえない。眠っているか、と思う。けれど喉は決して動かない。なによりこんな場所で生きた人間が眠っているものではない。感情がわかない麻痺した頭で考える。ふと、棺の上部に金のプレートが見えた。おそるおそると探った、その瞳がカッと停止した。プレートにつづられた文字が、堰をきった。万の情報が流れ込んでくる。
よろめいて、一歩、二歩、と後ずさる。なのに硬く目を閉じた麗人の顔は遠ざかるどころか近づくほどだ。なるほど賛美するだけはある。焼印のように強烈に残る美貌だ。冷静に考える頭に警鐘が近づく。それでもどこかで受け入れることを拒んでいる。いけないと。たよりないベールはよろめく身体を支えてくれない。ぞ、ぞぞと骨の髄まで冷気が忍びこむ。ここは冷たい。きっと、彼女も冷たい。
だから。これが。
「――アリス」
すぐ背後で生暖かい息遣いがした。
「犬が吼えているね」
当主が呟いた。夜陰の向こうから聞こえてくる騒々しい声だ。犬達が騒いでいるらしい。犬小屋にはいない犬たちが。
「何か捕らえたようですが、たいしたものではないでしょう」
紅茶をもう一杯いかがでしょう? と問いかける執事に、伯爵はうなずき注がれる柔らかな茶色の筋を眺めた。
「今晩も行ってきたよ。メイユ」
身をかがめて紅茶をつぐ執事の態度は揺るがなかった。名のある職人のティーカップからたちのぼる湯気を眺めて、伯爵はため息をつく。
「彼女は美しい」
「はい」
「彼女は素晴らしい」
「仰るとおりかと」
「なのに冷たい」
紅茶を眺めるだけで手にとらず、伯爵は呟いた。細い瞳に切なさが揺れる。欲するぬくもりは、ティーカップからではないように。どんなに触れても。どんなに心を注いでも。
「アリスが冷たい」
しばらく執事は銀の盆を持ち立っていた。けれどやがてテーブルにそれを置いた。
「旦那さま。私は常に真実を口にしています」
「ああ、そうだ」
「決して嘘を申し上げることはありません」
「もちろんだ。メイユ。何を言っているんだ。私がお前の言うことを信じなかったことはないだろう」
疑いなど欠片も抱かぬ主人の瞳を前に、そうですね、と、心あらずな様子で執事はうなずいた。夜の中に犬の声がする。それを耳にしながら。どこか遠くて現実味を欠いたまま。
「旦那さま。アリス嬢は死んでいるのです。ずっと――ずっと前から。アリス嬢はあなたとの婚約を厭い、他の男との逢瀬を繰り返した果てに、自ら非合法の堕胎薬を飲み干し、その命を落とされました」
一拍おいて当主は忠実な執事に顔を向けた。その目は虚ろに澄んでいた。
「信じないよ」
執事の顔色はかわらない。そんな執事から視線をそらし、伯爵は肘をついて、また、憂鬱な息を吐いた。犬の鳴き声と人の悲鳴が散る闇の中で、ため息は散って夜陰に消える。
「アリスが冷たいんだ」
<アリスが冷たい>完




