“有害コミック”騒動と表現の自由を巡る戦い 第5話:ゾーニングという知恵
作者のかつをです。
第十五章の第5話をお届けします。
白か黒かだけではない。
その間に無数のグラデーションを認めること。
今回は、日本の社会が試行錯誤の末にたどり着いた、「ゾーニング」という現実的な知恵を描きました。
※この物語は史実を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
漫画を守りたい作り手たち。
子供を守りたい保護者たち。
二つの、どちらもが「正義」を掲げる価値観の衝突。
その出口の見えない対立の中で、一つの現実的な解決策が模索され始めた。
それが「ゾーニング(区分陳列)」という知恵だった。
それは「有害」か「無害」かという、不毛な二元論からの脱却だった。
ある人にとっては価値のある表現でも、別の人にとっては不快で有害な表現になりうる。
価値観は人それぞれ多様である。
その当たり前の前提に立つこと。
そして表現そのものを排除するのではなく、その情報への「アクセス」をコントロールすること。
具体的にはこうだ。
書店の中で、雑誌や単行本をその内容に応じて陳列する場所を明確に分ける。
子供向けの健全な漫画は、子供の目線に合わせた低い棚に。
誰もが自由に手に取れる場所に置く。
一方で少し過激な表現を含む青年漫画やアダルト向けの漫画は、大人の目線に合わせた高い棚へ。
あるいは店舗の奥まった専用のコーナーへと移動させる。
そうすれば子供たちが偶然不適切な表現に触れてしまうリスクを大幅に減らすことができる。
そして大人は自らの意思と責任において、読みたい本を自由に選ぶことができる。
表現の自由を守りながら、同時に青少年の健全な育成にも配慮する。
その両者の痛みを分かち合う、ギリギリの落としどころ。
このゾーニングという考え方は、当初出版業界が渋々採用した自主規制から始まったものだった。
しかし漫画家や書店員、そして一部の良識ある保護者たちの声が、それをより現実的で合理的なシステムへと洗練させていった。
もちろんこれが完璧な解決策ではなかった。
「有害」の基準は誰が決めるのか。
その曖昧さは常に残り続けた。
しかし少なくとも一つの文化を社会から完全に抹殺しようとした、あのヒステリックな熱狂は静かにその勢いを失っていった。
対立から共存へ。
排除から棲み分けへ。
日本の社会は漫画という新しい文化とどう向き合うべきかという難しい問いに対して、長い長い議論の末に一つの成熟した答えを見出しつつあったのだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
このゾーニングという考え方は、その後映画の「R指定」やゲームの「CERO」といった、あらゆるエンターテイメントの表現と規制を巡るガイドラインの基本的な思想となっていきます。この90年代の激しい議論がなければ、日本のコンテンツ産業はもっと息苦しいものになっていたかもしれません。
さて、ついに一つの出口を見出したこの戦い。
その嵐の季節は現代の私たちに何を遺したのでしょうか。
次回、「終わらない戦い(終)」。
第十五章、感動の最終話です。
物語は佳境です。ぜひ最後までお付き合いください。
ーーーーーーーーーーーーーー
もし、この物語の「もっと深い話」に興味が湧いたら、ぜひnoteに遊びに来てください。IT、音楽、漫画、アニメ…全シリーズの創作秘話や、開発中の歴史散策アプリの話などを綴っています。
▼作者「かつを」の創作の舞台裏
https://note.com/katsuo_story




