44.another_side 不協和音が止んだ日のこと
待望の(?)エリアス視点です。
エリアス・レンダールの人生は、他者からみれば順風満帆と言えるだろう。
公爵家の長子という身分に、美しい顔立ち、そして、円満な家族。
しかしエリアスの世界にはいつも不協和音が付き纏っていた。
例えばそう、年頃の貴族の子どもたちが交流する会では、天使のような顔立ちをしているエリアスは、女の子に声をかけられることが多かった。
「エリアス様、一緒にご本を読みませんか? この本は私もとても好きなんです」
声をかけてきた少女は、そういうと、隣に座ってエリアスの肩に触れてきた。
その瞬間、脳裏に直接、声が鳴り響く。
『私はこの本は興味ないけど、エリアス様は好きらしいのよね』
流れ込んできたそれは、少女の本心だった。
エリアスは、他者に触れると、人の表層心理が聞こえてきてしまう力を持っていた。
全ての思考が聞こえるわけではないが、本人が頭で意識的に考えている事柄を察知してしまうのだ。
これはレンダール公爵家と古い付き合いの精霊が、時折、この力を直系の一族に授けるのだそうで、世間では「祝福」とも言われる常時発動型の精霊契約だ。
通常、精霊との契約には対価が必要だが、このタイプは対価が必要ない。しかしその分、解除することもできない。
エリアスにとっては、祝福ではなく、「呪い」といっても差し支えない能力だった
エリアスにとって他人との接触は常に騒がしい世界だった。
両親に能力を打ち明けると、両親は構わず抱きしめてくれたが、彼らもエリアスがこの能力を持ったことを悲しみ憐んでいた。
他者の気持ちが分かる、といえば便利にも聞こえるだろう。レンダール公爵家の祖であり、シュゲーテルの初代女王の弟であるアッサール・レンダールは、この精霊の力を使って、情報収集し、女王の力となっていたらしい。
それが今のレンダール公爵家の諜報部の元となったとも言われている。
しかし、幼いエリアスにとっては、他人の心の声が聞こえて良いことなど、一つもないといっても過言ではなかった。
大人と違い、子ども同士は気軽に他人に触れるので、心の声を聞いてしまうことも多かったのだ。
友達だと思っていたのに心の中で悪態をつかれていたり、表面上は好意を持っていそうに見えて、公爵家という立場に惹かれて寄ってきているだけだったり……。
知りたくもない子供の素直な心の内を、永遠と聞かされるのは嫌で嫌でたまらなかった。
なかでも嫌だったのが、第3王女アマルディアとの交流だ。
彼女はシュゲーテル貴族の話法を過激に表現したような少女だった。しかも彼女はエリアスのことを気に入ったらしく、やたらと手を繋ぎたがった。
そのせいで、永遠と彼女の表層の声と、裏側の声をどちらも聞かされることになったのだ。
たとえば、同世代の友人が覚えたての魔法を披露しているときに、アマルディアはにっこりと笑いながら言うのだ。
「まあ、粗さの中にも力強さが宿ると申しますものね。……芸術とは程遠くとも、元気さだけは伝わってまいりますわ」
『なんて粗野で下品なのかしら』
シュゲーテル貴族は思っていることを直接言わないのがマナーではあるのだが、子どもはもう少し率直なものいいをすることが多い。
しかしアマルディアは良くも悪くも王女として完璧に優雅に皮肉を包んで言うのが得意な少女だった。
『エリアスなら、まだ私が習っていない魔法を披露したりしないでしょうに』
しかも、誰かを貶すときに、ついでにエリアスに対する願望を押し付けてくるのだ。
エリアスは彼女に触れられていると、あまりにうるさいので、具合が悪くなるようになってしまった。
何せ彼女は皮肉屋で、すべての言葉に裏があるのだ。
「ご心配なく。わたくしは決して非難いたしませんわ。ただ……その選択は、わたくしなら最期の最期まで避ける類のものですけれど」
『そんなくだらない案しかないのかしら』
誰かが交流会について意見を出せば、暗に愚策だと言い、心の声では悪態をついていた。
会話の時に被ってくる心の声は、実際の声と不協和音のように響き合い、不快度が高かった。
「あなたのその率直さ、まるで宝石のように飾り気がなく……ええ、むしろ削られる前の原石のままとでもいうべきかしら」
『マナーがなってないわね。そんなに率直にものを言うなんて』
誰かの話法が未熟でアマルディアの気に触ると、そんなふうに相手に皮肉を言うこともあった。
エリアスはそういうセリフを聞く時、いつもなぜか手を握られていて、彼女の心の声までダダ漏れだったのだ。それがあまりに不快でうるさくて、エリアスは何度もうるさいと怒鳴りそうになる自分を抑えていた。
そしてついに、問題が起こった。
アマルディアお得意の婉曲表現だったが、実質的なプロポーズを、わずか11歳の時にされてしまったのだ。
それは、シュゲーテルにしては珍しいほど暑い夏の日だった。
どう言う話の流れだったかは、正確には覚えていない。しかし、子どもたちの交流会でも、婚約するものがちらほらでてきたお年頃で、そう言う話になったのだろう。
アマルディアはあろうことか、貴族の子どもたちが他にもいる前で、エリアスの手を握りながら言ったのだ。
「あなた、わたくしの隣に並び立つ栄誉を、他の誰かに譲るおつもりはございませんわよね?」
『私と婚約しないなんて許さないわ。私の隣に立つならこの位の美しい顔じゃないと』
それは、王家からの根回しもなく行われた。おそらく国王夫妻にとっても、把握してない出来事で、アマルディアの暴走だったのだと思われる。そのため、子ども同士で約束したとしても、実際に婚約に結びついたかは怪しい程度のものだったはずだ。
しかし11歳のエリアスは、このまま流されたらアマルディアと結婚させられるのではないかと不安になり、ついに我慢をやめた。そして、言ったのだ。
「私が王女殿下の隣に並ぶ日は来ませんし、殿下の隣に並ぶぐらいなら独身で構いません」
エリアスがシュゲーテル貴族としては失格レベルの率直さで言い放った瞬間、普段は本心を見せないアマルディアが、癇癪を起こしてテーブル中のありとあらゆるものがひっくり返った。
その場にいた貴族の子どもたちはみな、侯爵家以上だったはずだが、誰もが恐れ慄き、アマルディアの視界に入らないよう、声を潜めていた。
しかし、エリアスはどこか達成感さえ感じながら、怒り心頭のアマルディア冷めた気持ちで見つめるだけだった。怖いものなどなかった。アマルディアと結婚させられる方が、エリアスにとっては死ぬより恐ろしいことだった。
エリアスはアマルディアがどれだけ泣き叫ぼうが謝らなかったので、騒ぎを聞きつけた国王夫妻と両親がやってくるまで、アマルディアはずっと暴れていた。
「どうしたんだい? そんなに泣き叫んで」
国王陛下がアマルディアを抱き上げながら、尋ねるが、アマルディアは陛下をたたいて腕の中から飛び出すと、近くにあったグラスを地面にたたきつけて割った。
アマルディアがあまりに話にならないので、陛下はエリアスに尋ねてきた。
「喧嘩したのかい?」
「いいえ。ただ、殿下の求婚をお断りしただけです」
エリアスが答えた後、一瞬その場が静かになった。アマルディアは相変わらず騒いでいたが、大人たちはみんな動揺で言葉が出なかったのだ。
「き、求婚?」
王妃陛下が動揺しながらなんとか絞り出した言葉に、エリアスは頷いた。
「結婚を申し込まれたので断りました。先に申し上げておきますが、僕が承諾することは今後もありません」
エリアスの発言は明らかに無礼なものだったし、レンダール公爵家という立場でなければ、不敬罪で首が飛んでもおかしくなかった。
しかし、娘の名誉のために、国王陛下は無かったことにすることを選んだ。お咎めも当然ない。
幸いにも子どもとはいえ、侯爵家以上の上流階級の家の者ばかりだったため、徹底的に緘口令がひかれ、全員が口を閉ざすことで、アマルディアの求婚そのものを無かったことにしたのだ。
家に帰ったエリアスは、ことの流れや、自分が言った台詞も全て両親に話した。アマルディアが今までどんなことを考えどんな態度だったかも、一気にまくしたてた。
言いたいことを言って、無礼な態度を両親に怒られるかと思ったが、2人ともむしろエリアスを抱きしめて、謝ってきた。
「あなたがアマルディア殿下によく手を取られているのは見ていたのに、気づかなくてごめんなさい」
『もっと早く気づいていれば、王女殿下のいる会には参加させなかったのに』
母の後悔が、エリアスの脳に響く。
「その力のことを知っている大人の我々が、止めるべきだったな。エリアスはよく我慢した」
『万が一結婚を再度申し込まれても、絶対に断らなければ』
父の決意も、エリアスに流れ込んできた。
両親に慰められ、抱きしめられ、エリアスは今までの我慢を思い出して、泣いてしまった。
そうして一通り泣いた後、エリアスはアマルディアのいる会は極力行かなくて良いということを両親に言われ、国をあげて行われるような公式な会以外では、アマルディアから逃れられるようになった。
何かと迷惑ばかりのアマルディアだったが、エリアスにとって良いことも一つだけあった。
それは、緘口令が敷かれたとはいえ、アマルディアがエリアスのことを好きなのではないかという噂が貴族の間に広がり、婚約の申し出が劇的に減ったことだ。
エリアスは身分も高く顔も整っている優良物件だが、図らずしもアマルディアが虫除けの役目を果たしてくれることで、女性貴族にあからさまにアプローチされることは少なかった。
王立学校に入学すると、さまざまな身分の学生がいるので、再び女子生徒のアプローチは増えたが、エリアスはのらりくらりとかわして、ほとんど女子生徒の誰とも交流しないまま2年が終わろうとしていたところで、彼女と出会った。
その日、王立学校のダンスパーティは、1人で参加していた。パーティー出席は単位に必要なので出るしかないのだ。
エリアスは学校に入ってからは一度も誰とも踊っていないが、だからといって、女子生徒からお誘いを受けたり、熱い視線を感じたりは減るわけではない。
今日もそんな視線から逃れるべく、人の少なそうな料理が並べてあるエリアに向かっていると、向かいから歩いてきた人とぶつかってしまった。
勢いが強かったので、ぶつかった女子生徒が転ばないようにエリアスは咄嗟に抱き止めた。
「申し訳ありません。大丈夫ですか?」
「大丈夫です。こちらこそ申し訳ありません」
初めは違和感に気づかなかった。エリアスが謝って、彼女が謝り返しただけ。
しかし彼女がエリアスの腕の中から抜け出した瞬間、エリアスは違和感に気がついた。
ーーー彼女の声が聞こえてない!
「大丈夫ならよかったです。それでは」
それに気づいた瞬間、エリアスは反射的に、その場を去ろうとしているその女子生徒の左手首を掴み、抱き寄せていた。彼女の体が反転した勢いで一歩彼に歩み寄って向かい合う。
赤い髪と目の美女が驚きで目を見開いていた。
「あの、よろしければ一曲踊っていただけませんか?」
「え? ……あ、はい」
無愛想ながらも承諾されてよかったと思った瞬間、遅れて声が聞こえてきた。
『無愛想な返事すぎたかしら。久々に誘われて、なんて返すべきか言葉が出てこなかったわ』
どうやら、彼女の声が聞こえないというわけでは無かったようだ。
しかし、彼女は少なくとも会話の時に含みはないようだ。それに、彼女の心の声は、どこか心地が良かった。
彼女をエスコートしたまま、ダンスホールに出て、曲に合わせて踊り始める。
久しぶりに誘われたという心の声に反して、彼女、イルヴァ・フェルディーンは踊りが上手だった。
エリアスは彼女ときちんと話すのはこれが初めてだが、彼女のことは知っていた。なぜならば、彼女はこの学校でユーフェミア・ライスト侯爵令嬢と並んで、男子生徒の人気の高い美女だったからだ。
ユーフェミアが誰もが可愛いと思う美少女ならば、イルヴァは全員の高嶺の花と言える。最初の頃は気軽にダンスに誘われていたのだが、彼女とダンスをしたものは、あまりの素っ気無さにこころが折れて惨敗していたことから、だんだんと彼女を誘える勇気のある男がいなくなったのだ。
通常は伯爵令嬢であれば、自分より身分の上の男には優しい対応になることも多いのだが、イルヴァは誰にでも等しく素っ気無かったという。そのせいで、彼女にはそのワインのような赤い髪に反して、青いイメージのある「氷壁の女王」というあだ名がついたぐらいだった。
「フェルディーン嬢は踊りがお上手ですね」
「レンダール様のリードが良いだけです」
「そんな風に言っていただけるとは、光栄です」
「事実ですから」
ーーーやっぱり、彼女は声が被ってない。これが本心なのか。
ダンスという場での会話は、いつも不協和音の中にあった。だからエリアスはダンスが嫌いだったし、できるだけ踊らなくて済むように立ち回っていた。
しかし、イルヴァとのダンスはとても心地がよかった。
彼女の表層心理は聞こえてはくるが、少なくとも彼女は会話のときの言葉に嘘がないのだ。だから、ほかの人と違って、彼女の心の声は、彼女の物理的な声と被って聞こえてくることはない。
「イルヴァ嬢は今日はどなたかと一緒に?」
「いいえ」
「私も1人で来たので同じですね。パーティーは苦手ですか?」
「ええ」
イルヴァの返答は確かに素っ気無かった。彼女は聞かれた質問にしか答えてくれず、質問を投げかけることもない。シュゲーテル貴族の話法としては落第点だった。
しかし彼女の飾り気のない言葉は、エリアスが求めていたコミュニケーションの形でもあった。
『レンダール公爵家の長子と踊ったなんて知ったら、両親が卒倒しそうだわ。非礼があれば立ち直れないと大騒ぎしそう。もうすでに失礼と言っても良いぐらい、素っ気ない対応してしまっているけど』
こんなに無愛想な彼女だが、どうやら名前は覚えてくれていたようだ。
そしてなぜだろう。彼女の心の中の両親は、公爵家の長子とのダンスを喜んでくれないようだ。普通は自分の娘が家格の上の貴族と踊ったと聞いたら、親は喜ぶものなのだが。
「フェルディーン嬢とはあまりお話ししたことがありませんでしたね。美しく気高いと評判ですが、こうして目の前にすると、美しさのあまりダンスが疎かになってしまいそうです」
エリアスは彼女に少しでも関心を持って欲しくて、彼女のことを褒めた。すると、彼女はふいに、笑顔を見せて、どこか楽しそうな声の調子で返事をした。
「絶世の美男子にそう言われると、世辞でも悪い気はしませんね」
彼女の会話にかぶる声はない。
しかし、一拍遅れて、彼女の言葉の続きが聞こえてきた。
『とはいえ、あなたが私の顔に見惚れてダンスが疎かになるなら、世の女性はあなたの姿を見て、とうに棒立ちになってるわね』
この心の声に、エリアスは噴き出しそうになるのをこらえて、笑顔を保ったままダンスを続ける。
「無口だと伺っていましたが、お話ししやすい方で驚きました」
心の声を聞く限り、彼女はどちらかというと饒舌だ。
「私は聞かれたこと以外、喋らないだけです」
「なるほど」
『そしてあなたほど、めげずに質問してくる男が少ないのよ』
イルヴァの心の声が心地よく響いた。そして、彼女の心の声は、気になることを言い出した。
『あーあ。何の気兼ねもなく話せるなら、もう少し会話も楽しめるんだけど。貴族の話法は向いてないのよね』
もしかすると、イルヴァがそっけないのは、彼女の率直さゆえなのかもしれない。エリアスが会話につきまとう副音声を感じられないほど、彼女の言葉は飾り気がなく、混じり気のない本心だ。
しかしそれでは、シュゲーテル貴族の社交界を渡り歩くには、不安がつきまとうだろう。なにせ、アマルディアのような本心を言っているのかよくわからない婉曲表現が美德とされる社会なのだから。
「聞かれたこと以外話さない理由があるのでしょうか?」
「……そうですね。私の率直な物言いですと、非礼になる場合もあるので」
「自由にお話しできる相手は?」
「相手が寛容であるなど、家同士の問題にならない相手であれば、でしょうか。多くはありませんね」
その言葉を聞いた瞬間、エリアスは自分の中に明確な焦りが生まれるのを感じた。
彼女に婚約者がいると言う話は聞いていないが、よく考えると実は裏で内定しているから、男に素っ気ないのではないだろうか。
「決まった相手や、裏で内定されている婚約者などでしょうか?」
「いるように見えますか?」
そう思って質問すると、食い気味に冷たい逆質問が帰ってきた。
それはいない、と言う意味だろう。そう思っていたら、イルヴァが更に言葉を続けた。
「ご存知の通り、あまり愛想もありませんから、縁がないのです」
「それは驚きですね。ですが、良かったです。私はフェルディーン嬢はとても魅力的な方だと思いますから」
本当に良かった。相手がいないのであれば、自分が彼女の婚約者に躍り出ることも可能だろう。
「良かった? まるで求婚しそうな言い回しですね」
まるで心の声を見透かされているかのような返事に驚いていると、イルヴァは言いすぎたと感じたのか、彼女の軽快だったダンスのステップが乱れた。
それをフォローするかのように引き寄せながら、エリアスもまた、反射的に自分の気持ちを口にしていた。
「お許しいただけるなら、伺います」
自分からこぼれた本音に驚きつつも、エリアスは本気だった。
あの不協和音の世界から抜け出したダンスが、あまりにも快適すぎたのだ。この快適さを知ったら、到底他の女性と踊る気になんてなれない。
「そんなことを言うと、人によっては本気にされますよ」
しかし、エリアスの本気の言葉も、イルヴァには社交辞令だと受け取られたようだ。
『これで、私が社交辞令を社交辞令として受け止めたことは伝わったわね』
しかも、社交辞令だと分かっていることを伝えなければ、と謎の使命感付きで。
他の女性なら、エリアスがそんなことを言えば、少しは心を揺らいでくれそうなのに、彼女は全くエリアスに興味がなさそうに見えた。
エリアスは先程までよりわずかに腰に当てる手に力を込めて、イルヴァを自身の近くに引き寄せた。
彼女の心の声をもっと聞きたかった。
エリアスは生まれて初めて、自分のこの力を意図的に行使しようとしていた。
「フェルディーン嬢はどう思っていますか?」
「それは……レンダール様が私に求婚なさることについてですか?」
「はい」
「レンダール様のメリットがありませんね」
ーーーあまりにも脈なし回答すぎる。
普通は自分がどう思ったかを回答するだろうに、貴族として一般的にどう思うかのような解答をされて、エリアスは少し傷ついた。
しかし、それでもエリアスは、さらに質問を重ねた。
「なるほど。フェルディーン嬢のメリットは?」
彼女は表側の言葉ではなんと答えるか迷っていたのだろう。物理的な声は発せず、ダンスは終了に近づいていた。
しかしエリアスは、彼女の心の声をしっかりと把握した。
『普通は高位貴族なんだからメリットしかないわよね。でも、レンダール公爵家に嫁入りなんて、一生気軽に話せなそうだわ……。まあでも、レンダール様はわりと率直で話しやすいから、夫としては良いかも?』
どうやら彼女にとって良い夫の条件は「彼女が気兼ねなく話せること」のようだ。心の声から推察するに、自分が高位貴族であることはどちらかというとマイナスでしかなさそうに感じられる。
しかし、率直なコミュニケーションを好んでいて、夫しては悪くないかもしれないという気持ちがあるのであれば、これは押せばなんとかなるかもしれない。
まずはアプローチの一歩として、エリアスは曲が終わっても彼女を離さず引き寄せて、やや強引に次の曲を踊り始めてしまった。
「質問にお答えいただいてないので、もう一曲いかがですか?」
「もう踊り出してますが……」
怒られるかと思ったが、意外にもイルヴァはくすくすと笑っていた。その柔らかい表情が美しくて、エリアスは踊りながらその表情をじっと見つめていた。
「エリアス様は会話を続ける才能がおありですから、夫婦としてうまくやっていけるかもしれません」
ーーー僕もあなたとなら、やっていけそうです。
自分の心の声は相手に伝わっていないという事実をやや忘れていたエリアスは、浮かれた気分で踊っていて、彼女の言葉に物理的な返事をしていなかった。
長い沈黙を不審に思ったのか、イルヴァが視線をあげ、その美しい赤い瞳と目があったときに、やっとエリアスは我に帰った。
エリアスはかなり長い間、無言で、イルヴァに見惚れながら踊っていた。
しかし、このままでは自分で振った話にリアクションしていない男になってしまう。なんとか表情を整え、できるだけ、良い印象を与えるべく口を開いた。
「ありがとうございます。先ほどのフェルディーン嬢の発言を訂正させてください」
「訂正ですか?」
「私にとってもメリットはあります」
「そうなんですか?」
「結婚したらイルヴァ嬢と一緒にいられます」
少し踏み込んで、ほとんど告白のような言葉を囁いたのに、イルヴァ・フェルディーンはあまりにも淡々とした表情をしていた。明らかに社交辞令だと思っている顔だ。
その時、ちょうど、曲が終わって、2人は離れて互いに礼をした。
「ありがとうございます。光栄です」
この言葉にも副音声は聞こえてこなかったので、エリアスのことが嫌いというわけではなさそうだ。
「先ほどは勝手にお呼びしてしまいましたが、お名前で呼んでも?」
「ええ。もちろん」
「ありがとうございます。それでは、またお会いしましょう、イルヴァ嬢」
「ええ、また機会があれば」
イルヴァは最後に微笑んでくれたが、終始、社交辞令としてしか受け止められていそうにない。普通の女性なら、エリアスがこんなことを言えば、向こうから外堀を埋めてくれそうなものなのに、イルヴァ・フェルディーンにそういう欲は全く感じられなかった。
ーーーとりあえず、帰ったら両親に言って、外堀を埋めないと。
エリアスはそんな決意をして、壁際に寄ろうとすると、ようやく周囲の視線に気がついた。明らかにエリアスを見て、何かを囁き合っている。
学校で一度も踊っていないエリアスが、二度も続けて踊ったのだから、それは仕方がないだろう。
ーーーむしろチャンスかもしれない。噂になった方が有利だ。
エリアスは心の声が聞こえるという無駄な能力に悩まされているが、社交そのものは比較的得意な方だ。そして、世論操作することもエリアスにとっては容易い。
だから、その日のダンスの断り文句は、いつもと変えた。
「イルヴァ嬢との今日のダンスの余韻に浸っていたいのです」 と。




