31.リズべナー観光③
どこか気まずい沈黙の中、エリアスが彼の護衛のアストと共に戻ってきた。
エリアスの楽しそうな表情が、その場の空気を明るくしてくれる。
クルトはエリアスの姿が見えると、すっと立ち上がり、エリアスに一礼をして距離をとる。アストもクルトとともに距離を置いて2人で雑談をしているような様子でつかずはなれずの距離に立っている。
「2人で話していたの? はい、これ」
イルヴァの隣に座りながら、エリアスは冷たい飲み物を差し出してきた。
「ありがとう。クルトが近くに立っていると悪目立ちするから、座ってもらって話していたの」
「確かにそうかもしれないね」
受け取った飲み物を飲むと爽やかな葡萄の香りが広がる白ワインだった。
「……これ、美味しい。白いワイン?」
「そうそう。暑いから、よく冷えてて良いかと思ったんだ」
エリアスにクルトとの雑談について深く突っ込まれたらどうしようかと思ったのだが、彼は幸いにも何を話したかについて聞いてくることはなかった。
2人でイカ焼きと白ワインを楽しみながら、のんびりと時間を過ごす。
相当な数の護衛がついているはずだが、それとなく街に紛れているため、街行く人たちに注目されることもない。
「のんびりと街の食事を楽しむのも良いわね」
「シュゲーテルに帰ってもできるよ」
「シュゲーテルでは作法にうるさいじゃない? でもまあ、フェルディーン領なら良いかも」
リズべナー公国のどこか気負わない空気が、イルヴァはとても気に入っていた。
フェルディーン領も、厳しい環境であるが故に軍の規律には厳しいながら、内部の結束は硬い。案外、普段の上下関係は、普通の貴族の家よりもやや緩やかで親しみやすいものだ。それはリズベナーの気質とどこか通ずるものがある。
「今度、案内してよ」
「いいわね。あなたのいうところの、デートをしましょう」
「今日だってデートだよ」
「……男女が2人でいたら常にデートなの?」
「僕にとってはそうだね」
「なるほど。勉強になるわ」
男どころか、女友達もユーフェミアぐらいしか思いついていないほどの社交音痴のイルヴァにとっては、未知の領域の話だった。
「イルヴァは人と出かけることはないの?」
「ユフィとお茶するぐらいよ」
学校では成績のことも隠していたし、迂闊なことを言って家を巻き込む騒動になっても困るので、積極的な人付き合いを避けていた。
そしたら淡々とした様子と、人付き合いの悪さから、氷の華だのなんだのとあだ名される始末だ。
「ライスト嬢とは学校で知り合ったの?」
「いいえ。子どもの頃からの知り合いなの。両親が親しいから」
「ご両親が?」
「意外でしょう? 派閥違いだものね」
ライスト侯爵家は、中立寄りだが王家派だ。フェルディーン家は中立を装っているがどちらかといえば貴族派として見なされているので、派閥は違う。
しかし、ライスト侯爵夫妻は、フェルディーン家の両親とは学校の同期で、学生時代から親しかったのだという。
そのため、公の場で集まると言うよりは、プライベートな場で密かに交流が続いている。
「子どもの頃のイルヴァはどんな子だったの?」
その質問は、先ほど遠ざかった話題にまた近づく恐れがある。
自分が表情に出づらいタイプで良かったと安堵しながら、冷静に問い返した。
「子どもの頃って、どのぐらいのとき?」
「うーん、ライスト嬢と知り合ったのはいつ?」
「5、6歳かしら?」
「きっと小さいイルヴァも可愛かったんだろうね」
幼いイルヴァを想像しているのか、エリアスの目が優しく細められた。
「今よりは愛想があったわ。無邪気だった」
「無邪気なイルヴァはちょっと想像できないな」
それもそうだろう。
護衛に裏切られた11歳の時を機に、イルヴァの社交感覚は歪んでしまった。
その件がきっかけで精霊と契約して、嘘をつけなくなったから、せめてあまり顔に出さないようにしようとしたのもあるし、数年は鬱々とした気分で過ごしていたのもある。
エリアスの知っているイルヴァは、すでに死線を越えたイルヴァであって、無垢な時代のイルヴァではないのだから想像がつくはずもない。
「もう無邪気にはなれないわよ?」
それでも、あなたは私を選ぶのか。
そう言う意味を込めて問いかけると、エリアスはまるで心を読んだかのように、晴れやかな笑顔で言った。
「過去の君が積み重なって今になってるんだろう? 僕は今のイルヴァに求婚したんだから、過去の君に戻れなんて言わないさ。今のままでいいんだよ」
「……そう」
至極当たり前のことのように言われたその言葉が、なぜだか今日は沁みた気がした。
白ワインとイカ焼きを綺麗に食べ切った後、買った店にカップと串を戻し、一向は湖へと向かうべく車に乗った。
時計台から見ると湖まで歩けなくはなさそうだったが、それなりに距離があるようなので、車で送ってもらうことになった。
車には10分ぐらい乗っていただろうか。
ぼんやりと窓の外を眺めていたら、あっという間に湖岸に着いていた。
エリアスにエスコートされ車から降りると、目の前には太陽の光を受けてキラキラと輝く湖が広がっていた。
湖はかなり大きく、対岸は見えるものの遠い。
湖のそばで風が吹くと、水の上を走ってきた風だからなのか、街中の風よりも随分と涼しく感じられた。
「きれい……」
湖の向こう側は森と山があり大自然を感じさせてくれた。フェルディーン家だと自然が多すぎると魔物の心配も多いが、リズベナー公国は比較的魔物が少ない土地柄だ。
「ジルベスターが、湖岸でティータイムできるようにと、手配してくれたみたいだ。ゆっくりしよう」
エリアスに言われて辺りを見回すと、何もなかった湖岸にみるみるうちにテーブルと椅子、日よけ用の大きなパラソル、それから軽食と紅茶が用意されていった。
護衛だけが街中についてきていたのかと思っていたが、侍女もそれなりにいたようだ。
湖岸での簡易テーブルとは思えない、優雅なテーブルセッティングがなされた後、準備をした侍女や護衛たちは再びどこかへと姿を消す。
「さっき時計台で聞いたんだ」
「ああ、あの時の」
風の音で聞き逃したのはこのことだったようだ。エリアスが喜んでいたのも、この美しい湖を堪能できるからだろうか。
イルヴァとしても、イカ焼きだけを昼食にするのは心許ないと思っていたので、遅めの昼食としてしっかり食べられそうで安心した。
席に着くと、それぞれの軽食に小さなカードが添えられていて、料理の名前と、簡単な説明が書かれていた。
口頭での説明を選ばなかったのは、イルヴァとエリアスにのんびりとくつろいでほしいという気遣いなのだろうか。
イルヴァはとりあえず、近くにあった前菜らしき食事に手を出した。パンの上に小魚とキノコとチーズが乗せられた一品だ。
トングで皿に取り、パンの上の具材が落ちないように軽くパンを曲げ、悩んだ末に小さく千切らずにそのまま口に運ぶことにした。
正餐なら一口サイズにちぎるべきだろうが、そもそもそんな格式高い場所ででる料理でもない。
この場の格式であれば、齧って良いだろう。
イルヴァは手に取ったパンを上にのっている具材ごと齧ると、口の中にガーリックの香りが広がった。そして後から小魚の旨みとチーズの塩味、そしてパンの甘味が口の中に広がっていく。
よく噛んで口の中を空にし、出されていた食前酒に口をつけた。
爽やかな微炭酸に、甘みの控えめなスパークリングワインは食事によく合う。
「ブルスケッタは美味しかった?」
エリアスに問われてから、料理の横にあるカードをチラ見した。イルヴァは知らなかったがこの料理の名前がブルスケッタというようだ。
「ええ。ガーリックが好きなら、きっと気にいるわ」
「じゃあ次はそれを食べようかな」
「エリアスは何を食べたの?」
「僕はこのスモークサーモンとモッツァレラチーズのマリネを。美味しいよ。パンとも合いそうだ」
エリアスが指を差したのは、まるで花のように美しく盛り付けられたサーモンに、チェリーモッツァレラがぐるりとその外周に盛り付けられ、くたっとした玉ねぎが飾られた品だった。
「私もそのサーモンをいただくわ」
「それなら、はい」
エリアスが、サーモンとチェリーモッツァレラを器用に一つずつとり、とりわけ用の皿にも美しくよそってくれた。
イルヴァの席からはその皿が少し遠かったので、ありがたい心遣いだ。
「ありがとう」
お返しに、1番大きくて見た目の綺麗なブルスケッタをエリアスの皿に取り分けた。
「どうぞ」
するとエリアスは目を丸くした後、春に花が咲くようなパッと明るい笑顔で言った。
「ありがとう。僕も友達ぐらいにはなれたかな」
「私をなんだと思ってるの? 料理を取るぐらいするわよ」
まるでイルヴァが取り分けるなんて思ってもみなかった様子に、少しムッとして言い返す。
するとごめんごめんと笑いながらエリアスが、イルヴァの席からは遠い位置にあった野菜のタルトを皿に取り分けてくれた。
「これはお詫びの気持ち」
以前の食事の時に、イルヴァが気に入って食べていたのを覚えていてくれたようだ。逆にイルヴァはエリアスが何を気に入って食べていたかあまり覚えていないので、彼に対して興味がないと思われていても仕方がないかもしれない。
そう思うと、婚約者に取り分けもしなそうな女に見られても仕方がないかと思えてきた。
「ジルベスターが用意してくれたこの野菜のタルトに免じて許しましょう」
「手厳しいね」
一拍の沈黙の後、エリアスとパチリと目が合った。そして2人は同時に笑い合った。
「くだらないことを言い合えるぐらいにはなってきたかしら」
「そうだね」
ジルベスターの用意した食事はどれも美味しかった。ゆっくりと会話をしながら食事を楽しむと、少しずつ日が傾き始めてきた。
もともと午後のティータイムぐらいの時間に始めた昼食だったので、食べ終わると夕暮れが近づいてきていた。 エリアスの提案で、2人は湖をゆっくりと散歩することにした。
大きい湖なので一周できるようなサイズではないが、太陽が沈んでいくのがよく見える位置に移動しようということで、湖のそばの少し小高い丘になっているところまで歩く。
山に囲まれた土地なので、夕日が湖に沈む前に山の向こうに隠れてしまうが、日が傾くことで十分に湖にも夕焼けの太陽の美しい色が映し出されていた。
ちょうどよい丘には、木陰になるような木もあったので、2人でそこに座ることにした。
「そういえば、気になっていたことがあるんだけど」
「何?」
「イルヴァって、ジルベスターには最初からある程度、口数多く話してたよね?」
「そうだった?」
名前も覚えていなかったジルベスターとの最初の方の会話は、よく覚えていない。
ただ、イルヴァは根本的に無口というわけでもないので、親しくなくとも饒舌になる瞬間はいくつかある。
「魔法の話をしているときは、比較的、常に饒舌よ。研究者として議論の時に意見はどんどん言うべきだと思っているから」
思い当たることを口にしてみれば、エリアスが納得した様子で頷いた。
「確かに、素っ気ない瞬間って雑談の時の方が多いかも」
「だからダンスでみんな心折れるのよね」
魔法の議論は目的がはっきりしているし、研究のための意見で家同士の揉め事になることは少ない。だが、雑談は目的がないからこそ、トラブルも生みやすい。そのため、イルヴァは雑談こそあまり話さないようにしているのだ。それで冷たく思われるのだろう。
「あれを最初に渡しておいてよかったよ」
「魔法署名入りの公正証書ね。確かにあれのおかげであなたと喋りやすくなったわ。でも……どうして、あなたはあれを作って持ってきてくれたの?」
あの時はあまりに自分に都合が良すぎたことと、婚約の話が衝撃的すぎて流していたが、そもそもなぜエリアスは、イルヴァが自由に話せるような公正証書を持ってきたのだろうか。
あれが婚約の決定打になったのは間違いないが、どうして的確にイルヴァの希望を叶えられたのかについては不思議なところがある。
「非礼になる恐れがあるから、聞かれたこと以外話さないと言っていただろう? だから、それを解決したらもっと気軽に話してくれるんじゃないかと思って」
「エリアスって、本当に人の気持ちがよくわかるのね」
確かにそういう会話はしたが、あの会話で的確にイルヴァの望むものを持ってくるとは、大した才能である。こういう人のことを社交性がある人と世間は呼ぶのだろう。
イルヴァとしては全力で褒めたつもりだったが、エリアスはなぜか少し眉を下げて困ったような様子を見せた。
「イルヴァは以前から、どうして僕が君に婚約を申し込んだかについて疑問を持っていたよね」
「そうね」
「その理由と、魔法署名入りの公正証書を作った理由は、実は同じなんだ。さっきの話も嘘じゃないけど、それだけじゃない」
少し俯き加減のエリアスの顔に影が指す。
人の心の機微に疎いイルヴァであっても、エリアスにとって、話づらいことなのだと察した。
「ただ……」
エリアスは言葉を切って顔を上げた。彼の青い瞳が真っ直ぐにイルヴァを見つめた。そして、そのあとそのまま彼は頭を下げた。
「今はまだ、言えない。ごめん」
彼はイルヴァと違って嘘をつけない制約はない。よって、いくらでも誤魔化すことができたはずだ。そもそも、魔法証明の話も、最初の説明でおおよそ納得していた。他にも理由があったというのは、エリアスに言われなければ気が付かなかった。
それでも彼は、イルヴァに秘密があることを打ち明けることを選んだ。
それはきっと、イルヴァに対して誠実であるためだ。
「顔をあげてちょうだい」
静かにそういうと、エリアスがすっと顔を上げた。
彼は真剣な顔も美しい。不謹慎にもそんなことを考えながら、イルヴァは今の自分の正直な気持ちを打ち明けることにした。
「私が今まで発した言葉に嘘はない。これは誓えるわ。でも、黙っていることはたくさんある」
エリアスは静かに話を聞いていた。ただじっと、こちらを静かに見つめて。
落ちていく夕日が彼の顔の半分に影を作る。
「私もあなたも、秘密を打ち明けるには浅すぎる関係よ。婚約者の肩書を得たからといって、親密になるわけではないわ。私たちは、実際のところ2人でゆっくり話すのもまだ数回しかない程度の関係性だもの」
イルヴァはあまり表情の起伏があるタイプではない。
それでも、この言葉だけは、できるだけ柔らかい表情で伝えよう。そう思って、表情を作り、エリアスを真っ直ぐと見つめた。
「いつか、私に話したいと思ったら話せばいいわ。私も、あなたに秘密を打ち明けたいと思った時にしか、打ち明けないのだから」
風が湖面を揺らし、夕焼けの空の色を写したその湖面が揺らいでいく。
意図通りの表情を作れたかはイルヴァにはわからない。ただ、エリアスの表情は穏やかで、イルヴァの言葉を受け止めてくれた。そんな気がした。




