3.婚約の合意
「理想の結婚相手です」
イルヴァがそう答えると、エリアスは少し考える素振りを見せた。
彼は立ち上がりはしたものの、ソファにもどらずにイルヴァの側にいた。そしてそっとイルヴァの手を取った。
「私のことはどう思いますか?」
どう?どうってそれは……
「……絶世の美男子」
「そんなに率直に言われたのは初めてです」
「誰もが口にしていると思っていました」
「いえいえ。正面から顔を褒められることは意外と多くありません」
「意外です」
ーー本当に意外だわ。出会う女全員が、顔を褒めていても、驚かないけれど。案外、この顔を前にすると褒め言葉も飛んでしまうのかしら。誰もが見惚れる美貌だから、見つめられると緊張しちゃうのよね。
目の前で国内屈指の美青年がクスクスと笑っていた。イルヴァの反応がツボにハマったらしい。
正直なところ、顔を褒められることが意外と少ないというのを疑っていたが、イルヴァの言葉をこんなにお気に召したのであれば、本当なのかもしれない。
「今日はここまでにしておきます。顔だけでもお眼鏡にかなってよかった」
エリアスがすっと手を離すと立ち上がった。彼が離れていくと、彼から発せられていた甘やかな香りが遠ざかっていく。
そのことを残念に感じている自分に驚き、彼が触れていた自分の手をまじまじとみつめていると、気づいたらエリアスは向いのソファに座っていた。
「では、この話は正式に進めてよいのですね?」
「はい。構いません」
イルヴァはこの短時間でもかなり好きに話していたが、エリアスは特に気に障った様子はない。
これならば、夫婦になってもうまくやっていける兆しがあるといえよう。
イルヴァにとっての結婚の最大の問題は、イルヴァの言動をパートナーが受け入れてくれるかどうか、という点だった。ひとまず、エリアスは受け入れてくれているのだから、エリアスの家族の問題はあるにせよ、他の男に比べてエリアスが最も結婚相手としてちょうどよいのは間違いがない。
エリアス側のメリットが全くもって理解できないが、イルヴァから断る理由はない。
「婚約にあたってお願いが」
「なんでしょう?」
公爵家の望むものを伯爵家であるフェルディーン家で用意できるか不明だが、父は可能な限り向こうの条件を呑むだろう。
これぞ本題、とばかりに身を乗り出したイルヴァの思考が読めたかのように、エリアスは苦笑した。
「おそらく考えていることとは違うと思います。私のお願いは、単純に名前で呼んで欲しいというだけですから」
「お名前で? エリアス様、でよろしいでしょうか?」
イルヴァがその名を呼んだら、エリアスは花を咲くような笑みでこちらをみた。なぜかわからないが喜んでいそうだ。そんな様子を見ていると、まるでエリアスが自分に気があるのではという気分になってくる。
「イルヴァ嬢、ありがとうございます」
低すぎない甘やかな声が耳を打つ。自分の名前がそんな風に呼ばれるのは、心臓に悪い。
イルヴァは思わず目の前にあったティーカップを手に取り、静かに鎮静効果のあるはずのお茶を流し込む。
ーー胸の動悸には対して効果はないわね。
透明なティーカップに入った液体を見ながら、イルヴァは効果について分析した。
「それ以外で、我が家に求めることはないのですか?」
「私の一目惚れですから、特に政治的なお願いはありません」
「本当に?」
「むしろ、伯爵家の方からご要望があれば、可能な限り叶えたいと思っています」
考えれば考えるほど理想的な結婚としかいいようがない。
美男子で、長子で、家格も上で、本人もこの物腰の良さだ。
しかしながら、イルヴァはやはり、自分が選ばれたことに納得できずにいた。
「いくつか質問しても?」
「もちろん」
「一目惚れとおっしゃいましたが……この前のパーティーがきっかけでしょうか?」
「はい。イルヴァ嬢のことは以前から知っていましたが、あの日、強く心を掴まれたことに違いはありません」
「以前から……どんな噂をお聞きになっているやら」
イルヴァが学校でどう言われているかは、全容を把握しているわけではない。しかしおおよそ、無愛想な美女というのを婉曲表現にしているにすぎない。
イルヴァは愛想がないというより、ボロを出さないようにできるだけ話さないようにしているだけだが、それがお高く止まっているように見えるのだろう。
「その美しい髪色に反して、氷の華などでしょうか」
「あら、思っていたより美化された言い回しですね。もちろん、私の耳に耐えるものを選んでくださったのでしょうけれど」
紅色の髪は冷たい印象とは反対の色なのだが、おそらく無口というか、できるだけ沈黙を選ぶ姿勢が「氷」のように冷たいということで表現されているのだろう。
掘り下げればもっと直接的な名前が出てくるに違いないが、この男の口からそれが漏れることはない。
「イルヴァ嬢は率直なわりに、受け止め方は素直でないんですね」
「そうでしょうか?」
「さっきから、私の一目惚れ発言をまるで信じていないでしょう?」
ずばりと思考を言い当てられて、イルヴァは言葉に詰まった。
「……それに納得がいかないのは確かです」
「理由を伺っても?」
「自分より顔の整った人に一目惚れと言われて納得しますか? しかもこの国の女を誰でも指名できるような人気者が、です。私はご存知の通り評判も良くないですし。フェルディーン伯爵家は主要道路の全てに出資していて、物流の要ではあります。私を含め、家人が個人で出資している事業もありますから、全体の資産はそこそこですが、レンダール公爵家とは比べるまでもないでしょう。政治的な側面でも、我が家は中立を維持しています。どの王族も支持せず、どの貴族家も支持しない。害はないかもしれませんが、利もないでしょう。たとえ婚姻で結ばれた家系であっても、我が家が相手の家に融通を聞かせることはありません」
そこまで一気に話してから、イルヴァは目の前のハーブティーを飲み干した。
フェルディーン伯爵家は、エリアスに説明をした通り、交通の要と言える。王都の主要道路のほとんどに出資、というよりも、フェルディーン伯爵家が設計から施工まで担当したため、各地にある関所の手数料はほとんどフェルディーン伯爵家の収入となっている。
王家は収益が上がらないと見込んでフェルディーン家に丸投げしたが、フェルディーン家は戦略的に道路を開通し、通行手数料によって資金を得ながら拡張していった。
結果、今では主要な資金源となっている。
この交通路の整備の件をきっかけに、やや王家寄りだったフェルディーン家は完全に身をひいて中立を保つことにした。
また、当時、不良債権と思われた事業を押し付けられた王家への恨みから、王家に一筆かかせ、交通路による収益は税金を免除されている。この免除は解除できないものとし、約束を破れば全ての交通を封じるとしている。
これが祖父の代の話だが、父もその路線を受け継ぎ運用しているため、絶妙な立場を維持するフェルディーン家との婚姻は、政治的にはあまり価値がないと思われる。
ーーだから、分からないのよ。なぜ、彼は私に婚約を?
ぼんやりとティーカップの模様を眺めながら考え事をしていたら、エリアスが真っ直ぐにこちらを見つめていることとようやく気づいた。
「?」
「……イルヴァ嬢が私の一目惚れという理由に納得してないことは、よく理解できました。ですが、これだけは信じて欲しいです」
「なんでしょう?」
エリアスの視線が突き刺さるようだった。その目は、自分を信じて欲しいと訴えかけている。
そのことを理解した瞬間、エリアスの言葉がイルヴァの耳に届いた。
「私は、本当に個人的な理由であなたを選びました。そしてこうしてお話ししてーーますますあなたのことが気になります」
ーー本当に、私のことを気に入っただけ? でも何が良かったというの? 何もしてないはず……。いえ、ダンスの時に何か言ったのかもしれない。もう一度思い出さなければ。
そうこうしているうちに、執事が部屋に戻ってきて話が終わったかを尋ねてきた。
両親はやきもきして待っていたに違いない。
エリアスとイルヴァは2人揃って頷くと、あっという間に部屋に両親およびエリアスの護衛が戻ってきた。
「イルヴァ嬢とのお時間をいただきありがとうございました。正式に婚約の申し込みをさせていただければと思います。それにあたって、フェルディーン伯爵や夫人からも何か確認したいことがございましたら、遠慮なく質問してください」
エリアスは人好きのする笑みでそういうと、両親は2人して顔を見合わせた。聞きたいことはたくさんあるに違いないが、どう聞いてよいか分からないのだろう。
「エリアス様は、私がお話ししやすいようにこれをくださったの。私は正直に色々とお話ししたわ」
エリアスからもらった紙を渡すと、父は目に見えて顔色が悪くなった。イルヴァが一体何を話したのか不安になったのだろう。しかも、父はさりげなくインクに触れ、それが魔法署名であることを確かめている様子だった。
レンダール公爵家に失礼があったら取り繕うのは難しいのだから、その確認は当然とも言える。
「気兼ねなく率直にお話しいただけるようにご用意しました。それは公正証書として成り立つものです。私がイルヴァの言動を咎めることはありませんから、ご安心ください」
「事前にこれをご準備くださったということは、レンダール様は、娘の性格をご存知ということで良いのでしょうか?」
「はい、承知の上で婚約の申し込みに来ました。しかしながら、いきなり公爵家から正式な申し出を送っては、それは相談ではなく通達になりかねないため、私がこうして非公式に伺いました」
エリアスの言葉に父が微かに身じろぎした。平静を装っているが、彼の最大限の配慮に驚いたのだろう。
公爵家なのだから、1通の手紙で事を済ませてしまえるのに、わざわざエリアスが出向いて事情を説明したのだ。格下の家に対する対応としては破格のものと言える。
「可能であればご承諾いただきたいですが、現状でこの縁談について伯爵はどのようにお考えですか?」
「……願ってもないお話かと」
一拍置かれた間が気になるが、父は承諾の言葉を返した。
父はもはや貴族男性としては、内心を隠すことができていなかった。つまり、あからさまに承諾するしかないという気持ちが表情に出過ぎている状態だった。
しかし、エリアスは父の本音はともあれ、言質がとれたことに満足したようだった。エリアスは世の女性が見たら、一目で恋に落ちそうなほど、無垢な笑顔を浮かべて言った。
「それでは正式に申し込みをお送りいたします。もし我が家にご希望があれば、なんなりとお申し付けください」
そうして、エリアスはフェルディーン伯爵家総出のお見送りの中、公爵家に相応しい豪華絢爛な馬車で帰って行った。
非公式な訪れではあるものの、これだけ目立つ馬車が伯爵家から出て行けば、あっという間に噂になるだろう。配慮はしてもらったものの、実質的にはほぼ断ることができない縁談であることには代わりはない。
日が沈む前の茜色の空の時間だが、そよ風が涼しい季節だからか、今日のできごとをいまだ受け入れられない頭を冷やすためか、両親は外でお茶を飲もうと提案してきた。
今日のエリアスとの会話が気になるというのも大いにあるに違いないため、イルヴァは素直に頷いた。
庭園の一角にあるひらけた芝生エリアには、白い丸テーブルと椅子が置かれていた。お茶という言い方をしているものの、未開封のワインボトルとグラスが並び、チーズ、ハム、クラッカーが盛り付けられた皿が置かれている。
まだ日は沈んでいないが、今日はもう仕事はしないという意思を感じるチョイスだ。
3人が席につくと、ワインがサーブされた。芳醇な香りとともに注がれていくルビー色の液体は、グラスの中におさまると、何事もなかったかのように凪いだ様子をみせた。
イルヴァはグラスの下の方をもち、円を描くように回した。そして、同じく香りを楽しんだ両親と目が合った。
「良縁に乾杯を」
父の言葉に合わせてイルヴァと母ミネルヴァはグラスを静かに持ち上げた。そして、お互いに一呼吸おくと、口をつけた。ベリーのような果実味のある風味とほのかな苦味を楽しみながら飲み込むと、父ヴァルターはようやく、本題を切り出した。
「あの紙はどういった経緯で?」
ヴァルターの言っている紙とは、イルヴァエリアスに対するの言動を問わないという、例の紙だ。イルヴァが結婚しようと決意した要因でもあると同時に、イルヴァの秘密がなぜか漏れている証でもある。
「なぜ用意していただいたかについては質問しませんでした。ただ……十中八九、私の気質がバレているのは間違いないでしょう。私のことを気に入ってくださったのはやはりダンスパーティのタイミングのようです。一応、エリアス様は、一目惚れだとおっしゃっていましたが、魔法署名されたその紙を用意しているあたり、私の率直さを気に入ってくださったほうが強いのではと思っています」
「ちなみにいつからその呼び方に?」
話の本筋とは関係ないが、おそらく先ほどから気になっていたのだろう。思わず、といった様子でミネルヴァが口を挟んできた。
最初はよそよそしい呼び方だったのに、とつぜんお互いに名前を呼び合っていたら、親心としても気になるのだろう。
「婚約にあたっての唯一のお願いと言われました。エリアス様曰く、政治的に我が家に求めることはないが、我が家の要望は可能な限りかなえると」
「破格の条件だな」
「ええ。正直、この条件を逃せば結婚できないでしょう」
「イルヴァも縁談は受けるで良いのだな?」
ヴァルターのダメ押しに、イルヴァは頷いた。この後に及んで断る選択肢はないだろう。
ヴァルターはイルヴァの反応を確認すると、テーブルにあったチーズを摘んだ。粉チーズにしても美味しい、水分少なめのそのチーズを噛み締めながら、この縁談について考えているようだった。
基本的に格下の我が家に対する政治的な条件がないのであれば、そもそも破格の申し出である。本来なら我が家が何かを差し出すことを条件に成り立つような格差婚だ。
伯爵家は公爵家と縁づけるギリギリの家格ではあるものの、今回のように無条件で縁組を申し込まれることは振ってわいたような幸運とも言える。
「ちなみに……我が家から条件を出してもよいとおっしゃっていたが……」
「あなた?」
「何かご希望がありますか?」
母と娘の声が重なった。
母ミネルヴァは咎めるような声を出し、イルヴァは素直に疑問を抱いた。父は慎重で欲深いタイプではない。向こうに出された条件もないのに、こちらから条件を出そうとするとは意外だったためだ。
しかし、続いたその言葉に、母娘は納得した。
「その魔法署名の紙を……公爵家のお二人にもイルヴァに対して書いていただけないだろうか……」
「分かりませんが……もう少し条件を細かく記載すれば、譲歩いただけるかもしれませんね」
「せめて、イルヴァのご子息への無礼をご子息が許す限り見逃すと書いていただければ……」
結局のところ、父は娘の失言でフェルディーン伯爵家が傾くのを恐れているのだった。
ミネルヴァもその条件出しには反対しなかった。おそらく彼女もまた、父の不安と似たような不安を抱いているに違いないからだ。
父ヴァルターは、ささやかな希望を口にしたものの居心地が悪いのか、ワインを冷たい水を飲むかのようにガブガブと飲んだ。
そんな様子を見て、話題を変えるべくミネルヴァがそういえば、と疑問を口にした。
「そもそも、ダンスパーティの際に婚約の申し出を仄めかされたと言っていたけれど、なぜ私たちに言わなかったの?」
「なぜと言われましても……あれは私の発言も良くなかったので、成り行きで……」
「イルヴァ……あなた、何を言ったの?」
母が呆れ半分、恐れ半分といった様子で、身を乗り出して聞いてきた。
結果、イルヴァは最初から最後まで、覚えている限りの会話を両親に打ち明けることになった。
すべての話を聞いた両親は、なぜか二人して深いため息をついた。
「そんなにストレートに好意を伝えられて、2曲目まで踊っているのに、どうして素直に受け取れないの? あなたには他者の好意を察する力が足りないと思っていたけれど、ここまでとは……」
「その成り行きを聞いていたら、もっと我が家でも準備できたものを……同じ男としてレンダール様に同情するよ」
両親の言い分だと、あの状況であればイルヴァは素直にエリアスの好意を受け止めて、婚約の口約束をしたと思うべきところだったようだ。
しかし、それはあまりに楽天的すぎるというか、自分に好都合な解釈をしているように感じてしまう。イルヴァは自分自身が嘘をつけないし、社交も最低限しかしていないので、どこまでが婉曲表現で、どこまでが嘘で、どれが本当かを選り分けるのが苦手なのだ。
そして翌日、宣言通り公爵家から正式に婚約の申し入れがあった。
驚いたことに、父が要求せずとも、イルヴァが故意にレンダール家を貶めることがなければ、率直な言動については全て見逃すといった内容の公正証書が同封されていた。署名はレンダール公爵夫妻の連名だ。
こちらに都合が良すぎて、父は何度も手紙の内容を読み返していたが、ついに諦め、承諾の返事を書いた。
こうして、レンダール公爵家とフェルディーン伯爵家の縁談は、わずか二日間でまとまってしまったのだった。
「お兄様も帰って来れるし、良いことずくめね」
無事に話がまとまったその日、イルヴァはそんな風に呑気に考えていた。
貴族社会の噂の回る速度と、王都で最も人気のある独身貴族を婚約者にした反響をなめていたのだ。