25.治療魔法の伝授と研究者との出会い③
鑑定魔法を行使した瞬間、膨大な情報量が視界を埋め尽くし、それがどんどん脳に刻まれていくようで、イルヴァはまっすぐ立っていられなくなった。
聴覚も正常に動いていないのか、やたらと静かになった世界の中で、地面にうずくまり、必死に考えた。
ーーー魔法を止めないと……!
意味があるかは分からなかったが、まずは目を閉じて視覚からの情報を遮断した上で防衛魔法を展開し、押し寄せてくる情報の波を止めようと試みた。
パラパラと無数の本を捲るように流れこむ情報は止まらないが、その中で、今のイルヴァにとって必要な情報を手繰り寄せるために、神経を集中する。
実行中の魔法を止めるには、反唱する必要がある。そしてその反唱のためには、もっと深く鑑定魔法について理解しなければならない。
何秒経ったか分からないが、渦巻く情報を手繰り寄せ、ようやく、反唱の魔法式を構築できた。そして、普段はしないが、少しでも効果が高まるようにと不慣れな詠唱をした。
【知の本を閉じ、元ある場所に戻せ】
静かな世界で自分の詠唱だけが響く。
そして一拍の後に、自分の名前を呼ぶ声が遠くから聞こえた。
「イルヴァ!」
その声と同時に、世界が音を取り戻した。情報の渦が止まり、イルヴァはゆっくりと目を開けた。どうやら完全に地面に倒れ込んでしまっていたらしい。
目を開けて目に入ったのは、建物の天井と、自分を覗き込む人々の顔だった。中でも、青い目がこちらをまっすぐにみている。
「エリアス……」
「気がついた!」
イルヴァはどうやらエリアスの膝に頭を乗せられていたようだ。起き上がれそうなので、ゆっくりと体を起こすと、後ろからエリアスがそれを支えてくれた。手のひらから伝わる体温が、温かくて心地よい。後ろにいるエリアスに身を預けながら、周囲を見渡した。
次に目があったのは、ローレンツだ。
「すまない。大丈夫か?」
「いえ。その……こちらこそ、謝らないといけません。ローレンツ様の中にある鑑定魔法の全ての知識を鑑定してしまいました」
「全てを? もしや、情報処理が追いつかなくて倒れたのか? それで反唱を?」
イルヴァとローレンツのやりとりで、周囲の人もおおよその自体を把握したようだ。ローレンツ以外は、いきなりイルヴァが倒れたように見えたはずなので、一騒ぎ起きたはずだ。
「ええ。魔法式に対象を限定する変数を追加した方が良さそうです。本来であれば、利用するときに限定的に知りたいことを思い浮かべるべきなのでしょうが……」
「どこまでの情報を得られるか知ることを望んで魔法を使ったんだな?」
「はい」
「本当に申し訳ない。君の魔力感応性が優れていることはわかっていたのに、迂闊だった」
ローレンツは謝罪を繰り返しているが、どちらかと言えばイルヴァが謝らなければならない事態になってしまった。
こういうときに収拾をつけるのは、兄の力を借りるしかない。
「お兄様、鑑定魔法について知りすぎてしまいました。明らかに今日の指導料では足りません」
「鑑定魔法を使えるようになるところまでは織り込み済みだったんじゃないかい?」
「使えるというレベルではないのです。ローレンツ様の全ての研究成果と思考プロセスをトレースしたので、省略式を書けるレベルに精通してしまいました」
兄が押し黙った。顔立ちは父に似ているが、険しい顔をすると母にも似ている。
おそらく収拾の付け方を考えているのだろう。
その間に、エリアスの手を借りながら立ち上がり、自身に治癒魔法をかける。
「省略式を!? それなら汎用化できるな! ぜひ論文を書いてくれ!」
ローレンツにとっては自分の研究成果としての名誉より、この理論が一般化する方が重要なのだろう。研究成果を盗まれたというよりは、技術の発展の可能性に喜んでいるように見える。
その気持ちは分からなくはないが、さすがにそんなことはできない。百歩譲って彼がシュゲーテル人なら調整できたが、リズベナー公国人だ。リズベナーの国益を損ねるわけにはいかない。
「それはまずいです。リズベナー公国の魔法理論における歴史的発見の一部をシュゲーテルのものにしてしまうことはできません。むしろ私が省略式を書いてお渡しするので、ローレンツ様が論文として書いて発表すれば良いのではないですか?」
「いやいや。省略式にするのと発見するのでは違いすぎる。私の功績にせずとも良いから、発表すればいい」
ローレンツ・ヴァルツァーの人柄は、論文を読んでなんとなく察していた。
彼は自身の功績よりも、魔法理論の発展を望んでいる。そして、自分の不利益は受容できるが、他人の功績を奪うことはプライドが許さない。そういう人物だ。
イルヴァも似たような思想なので、彼の知識が源泉となっていてもイルヴァが書いた魔法式をもとに、自分の名前で論文を発表することは許さないことは想像がついた。
つまり、イルヴァとローレンツ間で話をまとめるのは無理だ。
「ちなみに、イルヴァと共同著者としての論文なら、受け入れられますか?」
「共同? 確かに、ベースはこちらの知識だから、それなら良いかもしれんな……」
兄の折衷案に、ローレンツは頷いた。しかし、その折衷案だと、アルムガルド大公家としては頷けないのではないか。
そう思っていたら、兄が続いてジルベスターに質問した。
「重度の患者の部屋は、光魔法を伝授できなかった場合に備えた10人ですか?」
「そう聞いているけど」
兄のやりたいことが分かってきた。アルムガルド大公家の心象を良くするために、イルヴァが取引の天秤にのせたことをやっておこうということだろう。
「では、その10人の治療はイルヴァがした上で、鑑定魔法の論文は共同名義で手を打てるか交渉だね。イルヴァ、さっき倒れたけど、10人いける?」
「問題ありません。ただ、今回省略式にした魔法がもう1つあるんですが……」
「一応、先に何をする気か聞いても?」
「水属性魔法による治療の範囲魔法です」
「それなら問題ないね」
魔法の難易度も消費する魔力量も、光魔法で欠損を治す方が圧倒的に高くて多い。そのため、少しやることが増えても誤差の範囲だと思ったのだろう。兄はあっさりと頷いた。
「さっき倒れたのにまだそんなに魔法を?」
そうして話がまとまりかけたところで、立ち上がってからもイルヴァを後ろから支えてくれていたエリアスが、後ろから話に割って入った。
イルヴァは後ろから支えられた状態で右後ろに体を捻るような形でエリアスの顔を見た。
彼の美しい顔が険しい表情になっている。
「情報過多でクラクラしたけれど、鑑定魔法以外の情報は遮断して返却したから、大丈夫よ」
「イルヴァの魔力が多いにしても、そんなに連続で使ったら具合が悪くなるんじゃ?」
「そんなことを言ってもいられないわ。貴族の取引で大切なのは対価が釣り合うことよ。エリアスもわかるでしょう?」
「でも……」
エリアスはなかなか頷いてくれなかった。彼はイルヴァの体調を真剣に心配しているからこそ、止めているのだ。それは、後ろから支えてくれる腕の強さからも感じられた。
「僕がイルヴァに治癒をかけるから、それでどうだい?」
兄は、折衷案を提案した。
イルヴァのことを心配していないわけではないだろうが、イルヴァの魔法に対する限界をよく分かっている。まだまだイルヴァが魔法を使っても平気だと分かっているし、フェルディーン家の時期当主として、アルムガルド家に不要な借りを作りたくないのもあるはずだ。
「……分かりました」
エリアスはまだ不安そうな顔をしているものの、兄が治療するならばと引いてくれた。すでにさきほど自分で自分に治癒はかけているが、それを言って話が膠着するのも困る。
イルヴァは素直に兄の治療を受けることにした。
「一応聞くけど、魔力欠乏の症状はないよね?」
「あると思いますか?」
「絶対にないと知ってはいる。ということは魔法による症状というより、脳の負荷の方が大きいね?」
「そうですね。体内の魔力は正常に感じます。倒れたのも、脳が処理できる情報量を超えたからかと」
「じゃあ、目を閉じて」
兄の言葉に従って目を閉じる。すると、兄の詠唱が聞こえた。
【暁の光よ。その温もりで痛みをほどき、生命の輝きを取り戻せ】
明らかに無詠唱で行ける程度の治療だが、ポーズとしてやっているのか、はたまた、イルヴァへの治療も授業としてやるためにわかりやすくしているのか。
兄の詠唱が終わると、イルヴァの頭がさきほどよりすっきりした気はした。自分自身で治癒魔法をかけていたので、ささやかすぎる変化ではあるが、多少の効果はあるかもしれない。
閉じていた目を開けると、兄がイルヴァの頭のてっぺんからつま先までを眺めたあと、満足そうに頷いた。
「問題ないね」
もともと問題ありませんでしたけどね。
と言ってしまっては、兄の気遣いを無駄にするので黙っておく。
イルヴァの治療も終わったところで、ひとまず一同は、先ほど3人だけ治療して後にした中程度の患者がいる部屋に戻ることにした。
戻ってくると、やはりベッドがある分、部屋が狭く感じられる。
「ここでは、さきほどお渡ししたメモにもあるように、水魔法の範囲魔法による治癒を行います。すみませんが無詠唱で」
イルヴァの詠唱では意味がないと悟ったので、とりあえず魔法式だけ可視化して魔法を使うことにした。部屋には7人ほどまだ治療していない人々がいたが、イルヴァが魔法を使ったことで、全員の傷が一気に治った。
部屋のベッドにいた人たちは何が起こるか理解しきれていなかったのか、自分の怪我が突然治ったことに驚いているようだった。
「範囲魔法の練習は、1人を治すことを習得してから練習したほうが良いと思うので、今日は実演だけで。不明点があれば、ジルベスター様経由で質問いただければお答えします」
水魔法師たちは、明らかについていけていない表情を見せたが、今日はこの習得まではどのみち難しいので、強行することにした。とはいえ、範囲魔法自体は他の魔法でも存在するので、後から自力でも習得できるだろう。
この場ですぐ実践するには、患者の数も足りないので仕方がない。
この部屋にいる患者はすべて治療済みなので、リズベナー公国の医者が問題ないか確認した上で、それぞれの仕事に戻るようだ。イルヴァはさきほど学んだ鑑定魔法を使い、この部屋にいる兵士の健康状態を鑑定してみたが、どの人も問題なさそうなため、部屋を後にすることにした。
続いて、一向は重症者患者の部屋に向かった。
先ほどと同じような大部屋に入ると、ベッドが並んでいるのかと思ったが、以外にも軽傷者と同じく椅子が並んでいて、患者が座って談笑していた。
どうやら、緊急性の高い重症患者はおらず、体のどこかが欠損しているが、すでに月日もたち、それ以外は回復している患者ばかりが集められているようだ。
「ローレンツ様。今日は、欠損の治療までためしてみますか?」
「いや。手応えはあったが、もう少し練習しないと、試しても意味がない気がする」
「なるほど。では、この場では特に実習は不要ですね?」
「ああ。普通に治療してくれるだけで問題ない」
ローレンツの許可も得たので、イルヴァは時間を短縮するために、まとめて治療することにした。
魔力を部屋全体に広げて、まずは鑑定魔法を使った。おおよそ、手か足の欠損のため、個々の患者は視認できる怪我が多いが、ひとまずすべての怪我を確認した。
そして、そのまま、光の範囲魔法で全員一気に治すことにした。
「うわっ!」
「眩しい!」
魔法を発動した瞬間、眩い白い光が部屋を充した。目を瞑ってもらうように案内し忘れたので、部屋のあちこちで呻き声が聞こえた。
イルヴァは魔法を行使している本人だからかそこまで眩しさは感じないのだが、他の人は眩しいのだということを忘れていた。しかも、光の範囲魔法は大掛かりな魔法なので、光量も他の比ではなかったようだ。
白い光が霧散した後、患者たちは自分の体の変化に気がついた。
しばらくみていなかった腕、足、手などが、かつての姿を取り戻していたのだ。彼らはしばし呆然としていたが、ようやく実感したのか思い思いに椅子から立ち上がって体を動かし始めた。
そして、全員が揃ってイルヴァの方に向き直り、頭を下げた。
「ありがとうございます!」
綺麗なユニゾンが響いた。
「昨日、ヨーゼフの姿をみてもしやと思いましたが、まさか本当に、手を取り戻せる日が来るとは」
兵士の中の1人が代表してイルヴァに話しかけてくる。彼は感動のあまり、涙目だ。いつから怪我していたのか知らないが、すぐに直せない環境だと、不便なことも多かっただろう。
「それに、まさかこんなふうに一気に治してしまうとは! シュゲーテルの光魔法はすごいです!」
「……いや、普通のシュゲーテルの治療師はこんな一気に治療しないよ」
イクセルがボソリとつぶやいて、兵士のやや偏った認識を正した。
そして、イルヴァの方をジッと見つめて何やら観察した後、ため息をついて言った。
「さっき倒れたばかりなのに鑑定魔法を広範囲に使って、光魔法も範囲魔法で……レンダール様の心配を理解してる?」
どうやら兄には行使した魔法の全容がバレていたらしい。そして、何を使ったか理解したのはローレンツやエリアスも同じだった。
「鑑定魔法をあんなふうに! 変数で対象を限定したのか?」
「はい。怪我の有無と箇所だけの鑑定に絞ったら、情報量が少ないので問題なく扱えました。論文にするなら怪我や病の特定の方向でまずは実用化した方が良さそうですね」
兄とエリアスの顔が怖いが、それに気づかないふりをして、ローレンツと話を進める。2人がイルヴァの魔法に思うところがあるのは分かっているが、イルヴァとしては十分に問題がないと判断して使ったのだ。この場でくどくどと怒られるのは避けたい。
「もともと医療用途で発展させたいと思っていたから問題ない」
「ある程度まとめたら、郵送でお送りします。……アルムガルド家の許可が降りればですが」
「問題ないと思うがな」
論文の方は問題はないかもしれないが、その前にイルヴァの身は無事ではないかもしれない。
兄イクセルと婚約者エリアスの物言いたげな視線を無視していることは、明らかに問題の先送りをしているだけだとわかっている。
しかし、2人の凍えるような視線と向き合う覚悟が、まだ、なかった。




