電話相手
「……誰だ、お前」
しんと静まり返った部屋の中に落ちた、地を這うような翔の声。それに対し『誰でもいいだろう』と、まるで煽るような声色が電話口から届いた。
自身の携帯に登録された連絡先は芽衣を含め5人分ほど。彼女の名前を確実に押下したこの状況下で知らない男の声が届いたということは、彼女が他の男と同じ空間にいるという証明に他ならない。
そんな苛立ちで食いしばった奥歯が、鈍い痛みを帯びる。
「……芽衣はどこだ」
『答える義理はないだろう?』
「ふざけるな。あいつは俺のだ」
半ば反射的に語気強く言い放てば次に電話の向こうから聞こえたのは『ああ』と、どこか楽しげに弾んだ声。
『お前が芽衣の男か、なら話が早い』
──芽衣なら今、俺の隣で眠っているぞ。
「──あ?」
瞬間右手の甲とこめかみに青筋が浮き上がった。室内の空気が一気に張り詰める中、視界の端で海斗が目を見開いたことにさえ気付けない。
そうして腹の底から湧き上がるのは、感じたことがないほどに煮え滾った怒り。
男慣れしていない芽衣が『そんなこと』をするはずはないと、頭では解っているのに。
「翔、スピーカー」
そんな兄の言葉で沈みかけた意識が引き上げられる。そうして言われるがままスピーカーボタンを押下すれば『それだけか?』などと宣う男の声が部屋に響いた。
依然として眉間に皺を寄せ続ける翔の側では和海と海斗が珍しく息を潜め、彼と男のやり取りに聞き耳を立てている。
『お前の女が隣で寝ていると聞いた割に、意外と淡白なんだな、これなら簡単に奪えそうだ』
「黙れ」
顔も知らない男に挑発されているこの状況、加えて吸血を拒否されてからまともに言葉を交わしていない芽衣と共にいるという事実が、不快感と苛立ちを助長させる。
しかし今、男は『奪えそうだ』と言っただろうか。
なら、事には及んでいない?
「……芽衣になんの用があるのか知らねえが、今すぐ離れろ」
『嫌だと言ったら?』
「殺す」
脊髄反射で口から飛び出た言葉は、おそらく本心。しかし相手はそれを面白がるかのように軽く笑うばかりで、まるで狐にでもつままれているかのよう。
『居場所も分からないのに、手出しができるのか?』
「……誰がお前を殺すと言ったんだ」
「ちょっ、翔兄!?」
次の瞬間部屋に響いた素っ頓狂な声。すぐさま口元を両手で覆った海斗だったが、発言の意味を悟ってしまった緑色の瞳は信じられないとばかりに兄を見据え続ける。
そしてスピーカーにしている時点で、その声は相手にも丸聞こえ。
『なんだ、一人じゃないのか。まあ、声を上げたくなる気持ちも分かるが』
──全く、芽衣も見る目がないな。
「……」
無意識に握った拳がわなわなと震える。掌に食い込んだ爪の痛みさえどこか遠くから感じられる中、またしても考えるよりも先に言葉が口から飛び出していく。
「それ以上芽衣の名前を呼ぶな」
『……淡白、は撤回した方がよさそうだな。とんだ重い男に好かれるとは、芽衣も可哀想に』
「っ……!」
瞬間鮮血の瞳がこれでもかと見開かれた。食いしばりながら牙を剥き出しにしたその表情は、まさに鬼そのもの。
男が芽衣の名を呼ぶたび、言いようのない感情に襲われる。
怒りとも不快感ともつかない、もっと身体の奥深くから嫌悪するような、真っ黒な感情。
今まで300年ほどを生きてきた中で感じたことのないその激情が、どうしようもなく気に障った。
『取り返しがつかなくなる前に手放してあげればいいだろう。どうせ、人間と人外では上手くいかないさ』
「!」
次に届いた『吸血鬼』の単語が、瞳の奥の憎悪を少しばかり奪っていく。
そうして怒りが驚きに塗り替えられていく中、楽しげに笑う男の声だけは耳にはっきりと届いた。しかし何故、会ったこともない男に正体を見破られたのか。
「……芽衣が言ったのか」
『いいや?だがその反応を見る限り、やはり芽衣にこびり付いている匂いはお前だな』
「……匂い?」
ふっと、予想外の答えで少しばかり右手から力が抜ける。
再度彼が芽衣の名前を呼んだことに遅れて反応するほど、男の言葉は翔の思考力さえも奪って行ったようで。
しかし『匂い』とは、一体なんのことを言っているのだろうか。
そんなもの、彼女から香ったことはないというのに。
「そもそも、お前は芽衣のなんだ」
『さあ、なんだろうな。ああ、いい事を教えてあげようか』
──芽衣は、俺と初めて会ったそうだぞ。
「……は?」
何故、いきなり他人事のように話を続けたのだろう。まるで何かを嘲笑するような声色に含まれた意味は、一体なんだというのか。
そんな疑問を噛み砕いていれば『もういいだろう』との言葉と共に、通話が一方的に切断された。ツー、と無機質な音だけが静寂に響き渡る中、途端緊張の糸が切れたように大きな息を吐き出したのは海斗。
「〜〜ちょっとなに、誰あれ!?」
「知るか」
苛立ちは相変わらず黒く渦巻いているが、状況を整理するためには冷静にならなければいけない。そうして大きく浅く呼吸をし感情を理性で押さえつけた翔は、ぽつりと呟く。
「……なんで、あいつは毎度厄介ごとに巻き込まれるんだ」
ここで考えられる状況は2つ。
1つは、芽衣の家に初対面の男が上がり込んでいる可能性。そしてもう1つは、その男の家に芽衣が拉致された可能性。
しかし彼女には再三『警戒心』を身を持って教え込ませているため、彼女が自分から家に男を招く状況は考えにくい。押し入られたとしても自宅には両親がいるはずなのだから、男があそこまで余裕でいられるのはおかしい。
なら、考えられるのは後者。
加えて眠っているという言葉を信じるなら、命に関わるような危害を加える可能性は低い。
しかし。
まだ奪われていないにしろ、時間の問題であることは否めない状況で。
自身でさえ、芽衣に深く触れたことはないというのに。
「翔、芽衣ちゃん殺しちゃダメだよ。後悔するから」
ふと、胸中を見透かしたように先手を打った声で我に返る。無意識で掴んでいた腕が赤黒くなっているところを見るに、読心をせずとも何を考えているかくらいは外に漏れ出ていたのだろう。
「……解っている」
「ほんとかな」
そうして言葉を返した和海の表情は、どこか困ったような笑顔を浮かべるだけ。しかしその言動が『後悔』を経験したことのあるように感じさせるのは、一体何故だろうか。
「芽衣さん助けに行けないの?」
「相手の場所が分からない以上厳しいね。危ないことされないといいけど」
その兄弟の言葉で翔は苛立ち紛れに瞼をギュッと瞑る。こんなことなら、彼女に発信機の類でも──。
「……待て」
ふと、翔は何かを思い至ったように瞼を持ち上げた。そうして鮮血の双眸は、どこか余裕さを醸し出す兄へと吸い込まれていく。
「……兄さん、あいつの居場所分かるだろ」
「まあ、知ろうと思えば。でも俺が教えてあげるのは、ちょっと違くない?」
「……」
その言葉に何も返せずにいれば「確かに、悪いの翔兄だし」と追随する言葉が届いた。確かに自身らの問題に兄の力を借りるのは間違っているのかもしれないが、だとしても芽衣を一刻も早く取り戻したい。
「……全く、あいつは男に連れ去られる趣味でもあるのか」
和海による誘拐を思い出しつつ吐き捨てた翔の呟きは、刻々と更けていく夜の室内に融けていったのだった。
***
「……キスでそこまで泣くとは、先が思いやられるな」
翔とシュウの電話から遡ること2時間前、午後8時のこと。
「っ、だって、なんで」
「身体接触が必要だと言っただろう。諦めて受け入れたらどうだ?」
シュウの腕に囲われるようにして椅子に閉じ込められたまま、彼の顔が遠ざかっていくのをぼうっと見つめる。その涙で滲んだ視界には呆れたような、それでいてどこか困ったような表情を浮かべるシュウが歪に映った。
(っ、2回、も)
今まで恋愛経験など皆無だった芽衣にとって、唇を重ねるという行為はとても意味のあるもの。そして同時に、翔としか行なったことのない行為でもあった。
そのため無遠慮にキスをされた驚きから涙が勝手に溢れ、とめどなくブラウスを濡らしていく。
そうして彼の顔を黙って見上げていた時ふと、
「……これだから、子供は面倒なんだ」
と、呆れたように吐き捨てられた呟きが耳を掠めた。




