初対面?
(……ん、?)
どこからか聞こえる微かなピアノの音で朧げに意識が浮上する。そうして薄らと瞼を持ち上げた直後、視界を支配したのは見覚えのない天井。
ここは、一体。
「ん、え、ここどこっ!?」
瞬間ガバッと勢いよく上体を起こした。そうして室内を左から右へぐるりと見渡してみるが、何一つ見覚えがない光景に一気に身体の芯が冷えたのが嫌でも感じられて。
(っ、なんで)
そうして窓の外へと視線を移せば日はすっかり沈んでおり、一面に宵闇が広がった空が目に入った。その光景に僅かばかり身体が震えるものの、芽衣はすぐに深呼吸を開始し自身を落ち着かせる。その余裕は、つい最近のとある出来事から来るもの。
(またデジャヴなんだよなあ……)
ふと脳裏に蘇る、翔の兄に誘拐された時の記憶。もうあの出来事から1ヶ月が経とうかというところだが、まさかまた同じ目に遭うとは。
だが和海は知っている人物だったために恐怖もそれほどではなかったが、今回もそうとは限らない。
「っていうか、私どうやってここに……?」
確か男性に頬を掴まれた気はするが、その後のことが全く思い出せない。
そうしてもやがかかった記憶を覗こうとした、次の瞬間。
──ガチャッ。
「っ!!!」
不意に響いた音で肩が大きく跳ねカヒュッと呼吸が飛ぶ。鳥肌までもが全身を包む中ギギギ、と機械のように首だけを横に向ければそこあるのは開いたドアと、先ほど脳裏に浮かんだあの男性の姿だった。
「え、あ、」
(これ、かなりまずいんじゃ……)
全く知らない部屋と目の前の見知らぬ男性。彼が自身のこの状況に関わっていることなど、火を見るよりも明らかなことは言うまでもないだろう。
この状況はおそらく誘拐。なら、
──もしかして、殺される?
(っ)
そして呼吸が次第に浅くなる自身をよそに男性は静かに足を進めると、ベッド脇で立ち止まり色違いの双眸でこちらを見下ろす。
「起きたか、気分はどうだ?」
口角を少しばかり上げた笑顔から紡がれたのは、まるで労わるような声色。しかしこの状況に似つかわしくないそれに対し芽衣の警戒心はますます強まるばかり。
「そんなに怯えるな。今は何もしない」
(今は、って)
その言葉で更に身体は強張ったものの、宣言通りに彼はベッド上の自身に対して特に行動を起こす気配はない。ふっと、張り詰めていた空気が僅かばかり抜けていったような気がした。
そうして静寂が辺りを支配した時ふと、先ほどまで聞こえていたピアノの音がいつの間にか止まっていたことに気が付いた。
とすれば、この男性が弾いていたのだろうか。
(いや……っていうかさ)
この男性は、何故自身の名前を知っているのだろうか?
そんな問いが、おそらく顔に出ていたのだろう。
「聞きたいことがありそうだな。答えてやるから下に来い」
そうして踵を返そうとする男性。それに何を思ったのかは自身でも分からないが次の瞬間には「あの」と、あろうことか誘拐した張本人を引き留めていた。
そうして男性もまた、先ほどまでとは違い不思議そうな表情でこちらを振り返る。
「なんだ」
「っうちに、お金とかないですよ」
気付けば、口が勝手にそんな言葉を紡いでいて。驚き咄嗟に口を片手で塞いだものの、今更取り消し出来るはずもなく。
「……は?」
しかし瞠目したその男はまるで意味が分からないとでも言いたげにそんな音を溢すばかり。
(あれ、身代金とかじゃないの……?)
てっきり誘拐する理由などそれくらいしかないと思っていたために、噛み合わない話が不思議で仕方がない。そうしてどこか肩透かしを食らった気分になりながら男性を見つめていれば、数瞬の後には「っはは」と軽い笑い声が耳を掠めた。
「ああ、なるほど。残念だが俺はお前に用があるんだ、芽衣」
「っ、え、なんで……」
「下に来たら教える」
そうして頑なに自身との会話を試みる彼だったがふと、胸中に芽生えたのはとある考え。
──わざわざ、この男性に従う理由もないのでは?
悪い意味で耐性がついてしまった思考は、この状況から逃げ出す方法を考え始めた。
ここが何階かは分からないが室内に窓もあり、ドアに鍵がかかっているわけでもない。ならば外にさえ出られれば、あとはどうにでも──。
「ああそうだ、お前、ここがどこだか分からないだろう?携帯もなしに帰れるのか?」
「っえ……?」
不意に投げかけられた意味の解らない言葉に思考が止まる。そうして右手が無意識にスカートのポケットを触った時サッと、頭から首にかけての温度が下がった。
そこにあるはずの固い感触が、なぜか得られない。
(え待って、なんでないのっ)
慌ててポケットを弄ってみるも、そこにあるはずの携帯が何故か見当たらない。そして、一緒に入れていたはずのお守りも。
「携帯は俺が預かってるからな、逃げても良い事はないぞ」
「っ」
「あとあの組紐についても聞きたいことがある。落ち着いたら来い」
これでは、どうやっても逃げられないではないか。
(うそ、)
どうやら自身には選択肢というものがないらしい。それを痛感した思考はすっかり逃亡策を放棄していて。
そうしてだんだんと滲む視界に映ったのは、踵を返し遠ざかっていく男性の背中。
(なんで私ばっかりこんな目に……)
沈む感情のままドアの向こうに消えていった男性をただぼんやりと見ながら、芽衣は涙が溢れないよう唇を強く噛み締めることしか出来なかった。
**
そうして少しばかり気分が落ち着いた後にとりあえず階段を下ってみたが、震える脚はまるで使い物にならないため手すりにしがみつくので精一杯。
加えて初めて来る場所故に、彼がどこに行ったのかも検討がつかなくて。
(ちょっと不親切じゃない?)
心の中でそう毒づけるくらいには状況を飲み込むことが出来たものの、だからと言って素直に彼に従うことも出来なければ逃げ出す決心もつかない。
このまま大人しくしていれば、何事もなしに解放してくれるだろうか。
(でもあの人、私に用事があるって言ってなかった?)
ならば解放はまだまだ先だろうかと若干諦観しつつ、足の赴くままに男性を探そうと歩き回っていた、その時。
「そっちは玄関だ」
次の瞬間グイッと引かれた腰に思わずバランスを崩す。そうしてたたらを踏むように足が勝手に動けばドンっと、次の瞬間には硬いものに背中をぶつけた。
それが男性の胸板だと悟ったのは、耳元に迫った口から低い声が注がれた直後。
「逃げるなよ」
「っ、逃げて、ないです。場所が分からなくて」
「そうか、悪かったな」
「わっ!?」
未だ腹に回ったままの腕を後ろに強く引かれ、足が勝手に進む。力量の差によりまるでなす術がないまま、芽衣は見知らぬ男性に引きずられるがまま歩いていったのだった。
そうして連れてこられたのは、リビングダイニングであろう20畳ほどの部屋。連れられる過程で大体把握したのだが、どうやらこの家は規模的におそらく自身の家と同じくらいの一般的なものであろうということ。
そして現在何故か自身は椅子に座らされており、テーブルを挟んだ向いには男性が頬杖をつきながらじっとこちらを見ていて。
(気まずい……というか静かすぎて怖いんだけど……)
「芽衣」
「はいっ!?」
突然の呼びかけに自分でも驚くほどの声量で返事を返す。それにはは、と軽く笑い声を上げた男性は弧を描いたままの口元でぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
「その固い口調やめてくれないか。話しにくい」
「え、でも、私貴方の名前も知らないですし……」
「言えばやめてくれるのか?」
(っ、なんでそこまで)
眉を上げながらそう言った男性に対し、芽衣はますます戸惑うばかり。何故、そんな要求をしてくるのだろう。
「シュウだ」
「え?」
「俺の名前。お前が聞いたんだろう?」
そうして笑みを浮かべながらこちらを見据える色違いの双眸に思わず吸い込まれそうになりながら、芽衣はなんとか状況把握を試みる。
(え、と、名前だけだったけど、自己紹介だよね……?)
「シュウ、さん?」
「『さん』も要らない。固い口調もなしだ」
「っ、でも」
「芽衣」
(うっ)
まるで有無を言わせぬ静かな圧力。心なしか薄ら寒くなった部屋でそれに耐えられるはずもなく、芽衣はただ一言「う、ん」とだけ喉から返事を絞り出す。その様子に満足したかのように眉を上げる男は、この状況が心底楽しいとでも言いたげで。
そしてこれが芽衣にとっての、シュウとの初対面となったのだった。