夕焼け空の逃亡劇
(なんで、はなれないのっ)
自身の腕を掴み続ける男の手を振り払おうと腕を振り続けるが、翔に教え込まれた通り男と女の力の差は歴然。しかし男はわざと力を抜いているようで、離れそうで離してはくれないその余裕さが焦りを更に加速させた。
そうしている間にも首の後ろが氷のように凍てつき、心臓が嫌な音を立てながら自身を追い立てる。
「や、はなしてくださ、!」
目の前がぐちゃぐちゃになりながらなおも腕を引き、無理だと悟る間もなくそれを上下に振る。何度も何度も繰り返しているうちにふと、恐怖を溶かした涙が地面に落ちた時。
「そこまで言うなら仕方ないな」
不意にパッと解放された腕。瞬間風を切る勢いでそれを背に隠すが、それでも色違いの双眸はこちらを見据え続け口元には緩く弧を描くばかり。そのまま男を睨みながら1歩、2歩と後退りをすれば思考が少しの鮮明さを取り戻したものの、彼が動き出す様子は全く見られない。
それどころか、男は先ほどまで自身を掴んでいた手のひらを軽く握っては開く動作を繰り返し、何故か満足げな様子を滲ませていて。
「どうした、逃げないのか?」
「っ」
口角を上げた男が一歩、煽るように足を前へと踏み出す。
瞬間弾かれたように男に背を向け、芽衣は夕焼け空の下を脱兎の如く走り出した。
「っは、あ、はっ」
自宅とは全く別方向へと駆け出したまま交差点の右左折を繰り返し、出来るだけ広い道を選びながら遠くを目指す。一体どこに向かっているのかも分からずあてもないが、頭を占めるのは男から逃れることただ一つだけ。
(あの人、ほんと誰っ)
曲がり角の先が見えそうになる度男が目の前で待っているのではないかという恐怖に襲われる。しんと静まり返った鮮やかなオレンジ色の空の下、地面を蹴る音だけが辺りに反響し続けた。
躓きそうになりながら何度か振り返ってみたが、男が追いかけてくる様子は見られない。
それでも駆られるままに走り続け、ついに体力の限界を迎えたことで芽衣は電柱の傍で足を止めた。
「はあ、はっ、っぁ、はあ」
上がる息を落ち着かせるように深呼吸を繰り返し、そのまま傍の電柱に隠れるようにしてしゃがみ込む。しかし大きく上下する肩とうるさく鳴り続ける鼓動は治まる気配がないまま、ぶるりと肩の辺りに悪寒が走った。
そうして震える身体をキュッと縮めてみても、9月だというのに寒さしか感じなくて。
ところでデタラメに走って辿り着いたここは、一体どこだろう。
(あーもう、今日ツイてないなあ……)
ポタポタと溢れ落ちる雫がアスファルトを濃い色に変えていく。汗か涙か分からないそれを苦しさの中ぼんやりと見つめていれば、脳が勝手に翔と後輩の告白現場を再生し始めた。
一昨日彼を押し退けて吸血を拒否するまでは、関係は悪くなかったように思う。
ならば一体何故、彼は急に変わってしまったのだろうか。
もう、嫌われてしまった?
(っ、翔)
しかし、たとえそうだとしても。
ここに助けに来てくれたならばどれだけ心強いだろうかと、消えゆく脳裏の男に対してそんな甘い考えが過ぎった。
(来るわけないよね……っていうか)
「警察に行った方いいよね……?」
ふと鮮明さを取り戻した思考がそんな言葉となって溢れ落ちる。この場所がどこかは分からないものの、確か学校からそう遠くない場所に警察署があったはず。携帯の地図を見ながらであれば行くことも可能だろう。
尾けられている可能性も0ではない以上、家の場所を教えるようなマネだけは避けたい。
そしてここまで来れば、あとは鉢合わせないように行動するだけ。
そうして幾分か落ち着いた左胸をギュッと握りしめながら、立ちあがろうと電柱に触れた時。
落とした目線の先、オレンジ色に染まるアスファルトにふと、一層濃い影が落ちた。
(え)
理解できるようで理解したくないそれ。無意識に止まった呼吸に気付かないままスローモーションのように顔を上げた先に見えた、こちらを見下ろす色違いの双眸。
「──あ」
終わった。
直感で理解した途端、ついに腰が抜けてしまった。
(なん、で)
一気に温度を下げた思考で覚えた疑問。へたり込んだアスファルトの温度が直に伝わる中その違和感を理解したのは、口元に弧を描きつつこちらを見下ろす姿を認識した直後。
目の前の男は自身と違い、息が全く上がっていない。走っていない。
何故か。
「なんで、ここ分かって、」
おそらく自身の居場所を確実に分かった上で追いかけていなければ、絶対に不可能なことだろう。
「どうだ、満足したか?」
まるで子供を諭すような柔らかい声色が耳朶を打つ。
そうして茶色の瞳は、こちらへ伸ばされた手をただぼうっと映していて。
「……っ!?」
瞬間しゃがみ込んだ男に頬を片手で鷲掴みにされ我に返ったが時すでに遅し。咄嗟に腕を掴んだものの視線を逸らせないまま男を見つめていれば、不意にその口元が薄く開かれる。
「芽衣、いい子だから『着いてこい』」
「、あ」
そうして空色の瞳が映ったのを最後にプツリと、芽衣の意識はそこで途切れた。
***
「あ、翔兄おかえり〜」
「……は?」
同時刻、とあるアパートの一室にて。
いかにも不機嫌と言いたげな雰囲気を滲ませながら帰宅した男の目の前にあったのは、居間のラグに腰を下ろしテレビを見ていた兄弟2人の姿。
片方は腰まで伸ばした灰色の髪を結った兄、もう片方は白髪を肩より少しばかり長く伸ばした弟。どちらも吸血鬼の姿でそこに居座っていた2名に対し、翔はすぐさま問いを投げた。
「待て、どうやって入った」
「ん、俺鍵持ってるからね」
そんなものあげた覚えはない、と言う代わりにため息が口から溢れる。最早和海を追及する余裕もないまま窓際のベッドにうつ伏せに倒れ込めば「具合悪いの?」と海斗の声が耳に届いた。
しかしどうやら返事をする気力すら失ってしまったようで、無言のままシーツに顔を埋めていた時。
「芽衣ちゃんと喧嘩でもした?」
「……兄さん」
「おっと、心は読んでないよ。翔が分かりやすすぎるだけ」
そんなわざとらしい言葉を紡ぐ明るい声にはあ、とため息がまた一つ溢れる。そうして瞼を緩く伏せれば、次に脳裏に蘇ったのはとある少女の姿だった。
しかし今、その姿に覚えたのは僅かな苛立ち。
「なんで、あんなに」
「ん?翔兄なんか言った?」
「……言ってねえ」
そう答えればそれ以上の興味を失ったように緑の瞳がテレビへと視線を戻していく。しかし青の瞳は未だにこちらを見据えているのが見ずとも分かり、思わず反対側に顔を背けた。
──翔にとって、私ってなんだろね。
ふと耳元で蘇る芽衣の声。ぎりっと、無意識で食いしばった顎の痛みが伝わる。
確かに自身は未だに芽衣のことをどう思っているのか分からない。だからこそ自身のことを「好き」だと言う彼女に対して同じ言葉を返すことは出来ていないが、それでも彼女が不安になる余地などないほどの感情を持ってしまっている自覚だけはあった。
なにせ「他の男と話しているだけで殺したくなる」と思ってしまうほどなのだから。
しかし、芽衣はそうではない。
だからわざわざ告白現場を見せたというのに、彼女の反応は自身が予想していたものとは大きく違っていた。
ならば一体、何のために。
「喧嘩は長引けば長引いただけ拗れるよ。翔は言葉が足りないし」
「和兄が言うと重さが違いすぎるね……」
「でしょ。俺もちゃんと会話していれば、200年も父さんとすれ違わずに済んだのにね」
言葉。
それがそんなに足りないと言うのなら、行動で嫌と言うほど分からせてやる。
「三連休明けたらちゃんと会話しなよ。芽衣ちゃんと会えなくなるの嫌だからね」
「僕も〜。っていうか翔兄電話しなよ」
そうして鞄を漁った海斗から自身の携帯が飛んでくる。ベッドの上で2回ほど弾んだそれをぼんやりと見つめていれば「早く」と急かされ、数秒の間を置いて渋々電話帳を開いた。
身内でさえも芽衣に近付けたくはないが、自身の目の届くところにいてくれるなら他者への牽制もしやすい。今日のことも説明すれば、彼女なら理解するはず。
しかしそんな余裕さえも奪われてしまう出来事が起こったのは今から数時間後、三日月が西の空へと傾いた夜のことだった。