すれ違い
一体、いつから聞いていたのだろう。そう考えながら瞠目する芽衣とは対照的に、翔は引き戸に寄りかかったままこちらを真顔でじっと見据えるばかり。
(翔について喋ってたことが気に入らなかったのかな……ほんとどこから聞いてたの)
しかしたとえ最初から聞いていたとしても、翔のことを悪く言ったりなどは一切していないのだから怒る理由が見当たらない。
ならば一体、何が彼の気に障ってしまったのだろうか。
(私なんか言っちゃった……?)
そうして心当たりを探そうと左右へ大きく彷徨う茶色の瞳には、こちらへだんだんと距離を詰める翔の姿が映っていて。
すぐ横でぴたりと足を止めた彼が、こちらを冷めた瞳で見下ろす。
「来い」
次の瞬間ぐいと二の腕が持ち上げられそのまま腰が浮いた。反射的に引いた足が椅子を倒した音が室内に響いたが、なおも彼は自身を解放することなく廊下方向に視線を向けている。
「ちょ、っと翔」
「うるさい」
まるで聞き耳を持たないまま翔が一歩前へと足を踏み出す。当然歩幅が合わないために半ば引き摺られながら後ろを振り返れば「ごめんっ」と口パクで謝罪し両手を顔の前で合わせる紗季と目が合った。どうやら、助けは期待出来ないらしい。
「待って、どこ行くの」
「黙って着いて来い」
ぴしゃりと切り捨てられてしまえば、それ以上の言葉を紡ぐことさえ憚れる。
そうして黙り込んだ様子を一瞥した翔により、なす術なく芽衣は教室から引き摺り出されたのだった。
(なんで急に、っていうか)
「はやいって、待っ」
西陽が強く差し込むがらりとした廊下に2人分の足音が響く。縺れる足のまま歩かされていれば不意に翔が壁の直近で立ち止まり、次の瞬間には背中を押され足が勝手に数歩進んだ。
(!?)
咄嗟に振り返った際見えたのは、限られた授業でしか使われない空き教室。
そうして、彼を捉えた刹那。
「っ!」
どんっと壁に押し付けられた身体が悲鳴を上げる。両肩に痛いくらいの重さを感じつつ反射的に瞑った瞼を恐る恐る持ち上げれば、なおも冷たくこちらを見下ろす黒い双眸と目が合った。
そんな彼は、やはり──。
「翔、なんで怒ってるの?」
「……怒ってない」
(いや無理があるよ……)
思わず心の中で反論してしまうほどにはどこからどう見ても怒っている。しかし何が気に入らなかったのかは本当に分からないまま、芽衣は黙って男の顔を見上げ続けた。
するとぽつりと、心なしか表情を強張らせた翔が言葉を溢し始める。
「……なあ、あれどういうことだ」
「っ?どれのこと」
不意に問われたその言葉は要領を得ず、ますます芽衣の困惑は深まるばかり。しかしその言葉を溢した本人は眉間に皺を寄せており、どこか苦しいとでも言いたげで。
そうして次に紡がれたとある言葉でどくりと、芽衣の心臓が大きく跳ねた。
「俺が他の人間に目移りしても、お前はそれでいいんだろ?」
「っ」
──私なんかよりも可愛い子見つけちゃうよね。目移りとかしないのかな。
瞬間脳裏に蘇った先ほどの発言。確かにそう言いはしたが、翔はそれに対して怒っているのだろうか?
「良くはないけど……」
「ならなんでそんな言葉が出てくるんだ。俺はお前しか見ていないのに」
「……」
もしも翔が他の女子のところに行ってしまって平気なのかは、正直なところ自身でも分からない。
確かに自身は翔の隣に並べるほどのものは何も持ち合わせていないし、彼が他の可愛い子に目を向けてしまうのもまあ仕方ないとは思っている。
しかし『仕方ない』から『受け入れる』ことが出来るかと問われれば「分からない」と答えるしかないのが現状。もしかしたら嫉妬で人が変わってしまうかもしれないし、諦めて身を引くのかもしれない。
初めて他人を好きになった芽衣にとっては、今この瞬間でさえも分からないことだらけで。
「私なんかより良い子いっぱいいるし、目移りするのも……」
「なんかって言うな」
「っえ?」
不意に溢れ落ちた不安をバッサリと遮った男の声は、やはり地を這うように低いもの。その瞳までもが鋭さを増す中ごくりと唾を飲み込めば、意図せず目線が斜め下へと逸れた。
そうして辺りを静寂が支配した、数瞬の後。
「俺はお前が他の男と話しているだけで殺したくなるのに、お前はそうじゃねえんだな」
咄嗟に視線を戻した際、瞬時に頭を支配した違和感。
なおもこちらを見下ろし続けるのは、鮮血のように真っ赤な瞳。
(──っ!!!)
いつの間にか本来の姿に戻っていた彼の白黒髪を視認し状況を飲み込むことが出来たのは、実に数秒後のことだった。
「ここ学校だよ!?姿戻してっ」
吸血鬼であることがもしも露見してしまえば彼は無事では済まないだろう。少なくとも、この学校に居続けることは出来ない。そんな焦りで必死に訴えかけるが、彼は一向に人間体に戻ろうとしなくて。
「どうしたら、俺と同じになるんだ?」
まるで他人事のような声色が耳朶を打った、次の瞬間。
「っあ、翔待って……!」
ふわりと首筋を掠めた吐息でぞくりと肌が粟立つ。まさか、ここで吸血をしようとしている……?
「翔!ダメだから待っ」
「黙れ」
そうしてぴしゃりと言い放った彼が口を大きく開ける気配がした、その瞬間。
「っ」
思わず肩をドンッと突き飛ばせば不意打ちを受けた翔の顔が離れていく。そうしてこちらを見下ろした瞳に浮かぶ、僅かばかりの驚き。
だがそれに対して驚いたりするほどの余裕は、芽衣は持ち合わせていなくて。
「〜〜〜もう知らないっ!」
叫ぶように言い残し教室まで走って戻れば息を切らした自身を見て驚きの表情を浮べる紗季がいた。待っていてくれた彼女に申し訳ないと思いつつ帰ろうと促し、翔が戻ってくる前に急いで教室を後にする。
(なんでいきなりっ)
一目散に階段を駆け下り玄関を抜け、部活動で賑わう校庭を横目に校門まで走り抜ける。そうして肩を上下させながら校舎を振り返ったが、翔が出てくる気配は一向になく。
いくら自身が彼と同じ気持ちでないとはいえ、何もあそこまでする必要はないのではないか。しかし口論に発展してしまったのは、紛れもない事実で。
(っ、喧嘩、しちゃった……もう喋ってくれないかな)
そんなモヤモヤを抱えつつ帰路に着いた芽衣の足取りは、いつにも増して鉛のように重いものだった。
**
翔と喧嘩に発展してから2日後、9月14日朝のホームルームのこと。二列ほど斜め前の翔の背中が視界に入ってはさっと目を逸らす動きを繰り返しつつ、芽衣は小さなため息を一つ溢した。
(三連休前に仲直りした方がいいよね……今日しかないか)
そう考えながら無意識に握りしめたポケットには、祖母からもらった鈴付きの組紐が入っていて。テストなど勝負事の際には願掛けとして持ち歩いているそのお守りが今回も助けてくれるのではないかと、芽衣は神頼みをするようにぎゅっと手に力を込めた。
もちろん、頭が冷えた昨日も仲直りをしようとは試みた。
しかしやはりと言うべきか翔の顔を見るだけで足が無意識に逃げてしまい、とてもじゃないが会話どころではなかったのだ。胸中に巣喰ったわだかまりで身体が重くなるような錯覚を覚えながら1日を過ごしたが、あれほどまでに息苦しい思いをしたことは今までになく。
(放課後話できれば良いけど……私も悪かったし)
好きという明確な気持ちではないとしても、翔は彼なりに自身のことを考えてくれていた。それを疑うような真似をしてしまったことに気が付いたのは家に帰った後であり、どちらにしろ手遅れだったが。
(でも、ちゃんと謝りたいな)
そうしていつもよりも長く感じた午前が終わり、昼休みを告げるチャイムが教室に響く。いつの間にかふらりと姿を消した翔に安堵にも似た気持ちを抱きつつ、いつものように紗季と弁当を広げていた時だった。
不意に、机上に置いていた携帯がヴヴッっと音を立てて震動する。
「お、芽衣、メールでも来たんじゃない?」
「なのかな」
そう言いつつディスプレイに目を落とせば、そこに見えたのは『翔』の名前と、彼からのとあるメッセージ。
【放課後、3階の空き教室に来い】
(?)
突然のそんな呼び出しに芽衣は首を傾げる。しかし自身も放課後彼と話がしたいと思っていたところであり、まさに願ったり叶ったり。
ところで3階の空き教室とは一昨日壁に押し付けられたあの場所のことであるが、何故わざわざ人目を避けたのだろうか。
「スパム?」
「いーや、翔からの呼び出し。放課後来いだってさ」
「あー、今喧嘩中なんだっけ?」
「そんな感じかな。私も悪いけども」
その言葉に「早く仲直りしなよ?」とこちらを気遣った声が返される。それに軽く返事をした後、芽衣は箸を再び動かし始めた。無意識のうちに浮き足だった身体を宥めるようにお茶を一口喉へと流し込むが、それでもはやるような心臓は落ち着いてくれなくて。
(前みたいに会話ができれば、私はそれで)
しかし人目を避けた教室内であのような光景が待ち受けているなど、この時の芽衣は想像もしていなかったのだ。




