人ならざる者の邂逅②
──『動くな』
(っ、え)
「和海さんっ!?」
ドサリと、目の前で和海が崩れ落ちた光景がまるでスローモーションのように焼き付く。
そうして思わず大きな声を上げながら片膝を付いた彼に駆け寄ればふうっ、と、いつもの余裕が一切感じられない浅い呼吸が耳を掠めた。その表情は今まで見たことがないほどに苦悶に満ちており、その落差がこの場の不安を一層掻き立てる。
「は、なんだこれ……」
大きな存在感と安心感を持っている和海が、今はどこか消えそうなほど小さな存在に見える。
そして訳も分からぬまま彼の背に手を添えた芽衣だったが、少し遠くからも似たような息遣いが聞こえてきたことで思わず動きが止まった。
「っ、え」
(……シュウも、苦しんでる……?)
咄嗟に視線を移した先では左胸を押さえ、逆光の暗がりでも分かるほどに肩を上下させているシュウの姿が。壁についた左手で身体を支えるその不安定さに理解が追いつかずにいれば
「……あまり使いたくはなかったが、流石は吸血鬼だな。意識までは、飛ばないのか」
と、おおよそ自身には理解が及ばない掠れた発言が耳に届いた。しかしなおも口角は上がったままのシュウがふらふらと動き始めるのをぼんやりと見ていれば、いつの間にか浅い呼吸音が間近に迫っていたことではたと我に返る。
そうして理解が追いつく前にパシッと、右の手首に衝撃を感じて。
(!!!)
「なあ芽衣、その男に危害を加えられたくないだろう?なら、今度はお前の意思で付いて来い」
「っ……!」
ひんやりと、それでいて圧倒的な存在感を感じさせるシュウの手が自身の身体をも支配する。先ほどまでの体調の悪さなど微塵も感じさせないまま手首を捕えられたこの状況で、果たして彼の手から逃れ切ることが出来るだろうか。
(どうすれば)
「余計なことは考えるな。ああ、いいことを教えてやる」
──俺は、お前が何処にいても見つけることが出来る。だから諦めろ。
(っ)
瞬間ぴたりと呼吸が止まる。どうせ、結果は最初から分かっていた。
昨日、夕焼けの下でデタラメに逃げた自身を彼は迷うことなく追って来られた。それこそ息を上げることもなく、まるで最初から自身の居場所を知っていたかのように。
だからこそシュウの言葉が単なる虚言ではないことくらい、今の芽衣には身に染みて分かってしまう。
たとえ和海を置いて行ったとしても、人1人なら隠れられる人混みでも。
どうせ見つかってしまうのなら、被害は最小限に止めるべきだ。
「……わ、かった」
無意識に溢れ落ちた返事。すると不意に手首が解放されたかと思えば、シュウが2歩ほど自身から距離を取った。しかし彼は不敵な笑みを浮かべこちらを見下ろすばかりで、そこから動く様子は見られない。
それはまるで「自身の足でこちらに来い」と、言外に伝えているような。
「ごめんね、芽衣ちゃん。俺のせいで……」
「っ、謝らないで、ください」
途端に耳に届いた、和海らしからぬ弱さを含んだ声色。往来の喧騒が遠くに聞こえる錯覚に陥る中、背後から聞こえた明瞭なそれに左胸がきゅっと締め付けられた。
しかし彼は、この場所で心細い思いをしていた自身を助けてくれたのだ。そんな彼が謝る必要など、この場のどこにも存在しない。
だからこそ。
やはり自身は、和海を守らなくてはいけない。
「……分かったから、着いて行くから、和海さんに酷いことしないで」
「は、妬けるな。俺に対してそんなことが言えるのはお前だけだ、芽衣」
一歩、また一歩と、気が付けば自身の足はシュウに向かって歩みを進める。
(ごめんなさいっ、こうするしか……)
「はっ、 懸命な判断だ。やはりお前はいい子だな」
(っ!)
ぐいっと掴まれた腕が引っ張られると同時にふわりと、後頭部を骨張った大きな手が包む。そうして頭を撫でられ身体が強張ったところで「大人しくしていろよ」と有無を言わせない柔らかい声が降ってきた。
(ごめん、なさいっ)
そうしてシュウに引き摺られるようにして、芽衣はネオンが輝く賑わいの中へと姿を消したのだった。
ーー
「……は、なんてね。久しぶりに肝が冷えたよ」
とっくに2人の背中が人混みに紛れてしまった、とある路地裏にて。
それまで片膝を付き微動だにしなかったことが嘘のように軽く立ち上がると、和海は人工的な光が支配する往来を一瞥しぐぐっと背伸びをした。その表情はいつもの彼を象徴する、感情を読み取らせない笑みを浮かべたもので。
そこから、先ほどまでの苦しさは全く感じられない。
「動くなって言われたから固まってみたけど合ってたな。しかし驚いた、人狼くんはあんなの使えるんだ」
皆使えるのかな、と独り言を落としつつ路地裏の壁に背を預け、ズボンのポケットから取り出した煙草にライターで火を付ける。小さなオレンジ色が灯ると一拍置いてふぅと煙を宵闇に融かし、口元には自然と小さな笑みが浮かんだ。
つまり、芽衣が見た和海の苦悶は全て演技だった、というわけである。
「芽衣ちゃんも健気で可愛いよなあ。俺みたいなのを『守る』だなんて、まるで忠犬だね」
煙草を咥えながら瞼を伏せれば、その暗闇に映るのは震える声で自身の前に立った少女の姿。そうして再度姿を現した海色の双眸に宿るのは、まるで弟を揶揄うときのように無邪気かつ年相応に仄暗さを孕んだ感情で。
「傷つけるつもりなら攫っちゃおうと思ったけど、そういう訳でもなさそうだし。それに、」
他者の心が読める。
そんな超常的な能力を身に着けている和海にとって、シュウが何を考えているかなど手に取るように分かるのだ。
それを理解した上で、あえて状況を静観した理由はただ一つ。
「ごめんね芽衣ちゃん。俺、面白いことが大好きなんだ」
そうして鼻歌混じりに呟かれた低い声は誰に届くこともなく、土曜夜の往来に全て吸い込まれていったのだった。
**
──バンッ。
「いっ!!」
勢いよく跳ね返った扉が音を立てた次の瞬間にはギィッと、背が深く沈んだベッドが自身と同じく悲鳴を上げる。投げ飛ばされたその状況に理解が追いつくよりも早く、気が付けば視界の全てをシュウが支配していた。
月明かりに照らされ天井を背負った彼は、肌に突き刺さるほどの不穏な空気を纏っていて。
怒りという感情に呑まれたものでも、かといって何も感じていないような冷たさでもない。
ただ、何を考えているのか分からないという恐怖。
「何故逃げた。月曜には解放してやると言ったのに」
「だって、」
「お前は、もっと物分かりがいいと思っていたぞ」
そうして呆れたと言わんばかりにため息を吐いたシュウ。途端芽衣の胸に湧き上がったのはやるせなさと、怒りにも似たトゲのある感情だった。
こちらが悪いとでも言いたげなその様子から、本当に彼は自身を生命力を得るための道具としか思っていないことがひしひしと伝わってきて。
だがもちろん、自身が彼に好き勝手振り回される謂れなど、どこにもない。
(そもそも月曜に帰れる保証もないじゃん)
そんな懐疑と重苦しい感情を乗せ、気付けば自身はシュウを睨んでいたらしい。
「は、……いい度胸だ」
そんな笑い声が落ちてきた、次の瞬間。
不意に、ブラウスの第二ボタンにシュウの指先が触れた。
(!!!)
数秒遅れて目の前の光景を理解したものの、既にボタンは服をすり抜けて外された後で。
そうして露わになった首元に外気が当たったことでぞわりと、芽衣の足先から冷たいものが這い上がる。
「え、や、待って…!!」
咄嗟に声を上げたものの、彼はまるで機械のように黙々とボタンを外していくだけ。下方向にゆっくりと、それも慣れたような手つきから逃れようと必死に身を捩るが、気が付けばスカートから上のボタンは全て外されてしまっていたらしい。
「これでも余計なことを考えられるのか?まあ無理だろうな」
──分かったら大人しくしていろ。いい子だから。
これから何をされるのかという恐怖と裏腹に、彼の声色は子供相手のような優しさを含んだもの。
その温度差に喉元までもが凍りついてしまい、芽衣は泣くことも出来ずにこちらを見下ろす男を見続けることしか出来なかった。




