夜の繁華街
そうして待ちに待った夜。時計の針が午後の10時を刻む、三日月に照らされた紺碧の空の下。
「っ、よし」
これから外に出る緊張といつもと違う柔軟剤が相俟って気分が落ち着かない中、芽衣は目を瞑って大きく深呼吸をする。それでもなお、気を抜けば心臓の音が耳まで響いてきて。
そんな彼女が纏うのは、今朝まで身につけていた学校の制服。
(せっかく洗ってもらって悪いけど、服は置いてくね)
そうしてベッドの上に畳んで置いたのは昼間に買ってもらった服。先ほどまで纏っていたそれだが、シュウの監視がなくなった今では脱いでも怪しまれる心配はない。
と、いうのも。
「こんな夜中に出かけるって、どこなんだろ」
当初の芽衣の計画に生じた思わぬ誤算。それは、シュウが2時間ほど前に外へと出掛けて行ったことだった。
そして彼の話によれば帰ってくるのは早くて日付が変わった直後、遅くて朝方だという。
いくら外部との連絡手段を奪ったとはいえ、まさか自身が逃げるなどとは微塵も想定していないのだろう。
なにせ、自身は彼にとってまだまだ『子供』なのだから。
(こんな時間に一人で出歩いたことないけどさ……まあ、会うことはないだろうし)
彼の行き先などもちろん見当もつかないが、自身にとっては願ってもないチャンス。
しかしこんなにも好条件だというのに、この脱出は本当に上手くいくのだろうかという懸念がどうしても脳裏にこびりついて離れない。
そのせいで足踏みをしているうちに、気付けばこんな時間になってしまったのだ。
(でも昼に行ったところは覚えてるし。交番っぽい建物もあった)
「きっと、上手くいくはず」
そうして芽衣は瞼を伏せて息を深く吸い込む。その暗闇に蘇る、白黒髪の吸血鬼の姿。
シュウは月曜日には解放してくれると口にしていたが、それが本当かどうかなど分かったものではない。それにキス以上のことをされてしまう危険がある以上、ここに長居をするわけにはいかないのだ。
そしてなにより、翔と早く話がしたい。
彼が後輩の女子に告白されていただけでモヤモヤが募ったのは事実。たとえ彼が自身に愛想を尽かしてしまったのだとしても、それだけは言葉にしておきたかった。
(ってか、他の男の人と一緒にいたのバレたら殺されるんじゃ……)
しかしそんな心配さえ、彼に対する前のめりの感情に覆い尽くされていく。
そんな浮き足立つ思いと心細さを奥底に押し込めポケットのお守りを握りしめながら、芽衣は賑わっているであろう繁華街へと駆け出して行ったのだった。
**
「はあっ、はあっ、っ、はっ……」
そうして、一体どれだけ走ったのか。
「っ、も、無理」
まるで昨日の再現とでもいうように往来で立ち止まった芽衣は肩で大きく息をする。9月とはいえ暑さの残る気温が体力を奪っていきよろよろと、近くにあった店の外壁に寄りかかった。
そうしてふと顔を上げてみれば、制服姿の子供に好奇の視線を向けながら行き交う大人たちの姿が突き刺さる。
(制服で来たの、ミスだったかも)
そんな考えが過ぎったが最早後の祭り。加えて昼間の交番らしき建物も暗がりの迷路では見つけることが出来ず、いよいよ途方に暮れてしまった。
しかし、立ち止まっていても良いことはない。野宿が色々な意味で危険なことくらい容易に想像がつくため、なんとしてでも交番を見つけなければいけないのだ。
その助けを求める一心で、芽衣はじわじわと鈍い痛みを帯びる足を前へ前へと動かした。
そのため、彼女が自身の現在地など分かるはずもなく。
「おねーさん1人?よかったら寄ってかない?」
「っえ」
気付けば、目の前には灰色ベストを着用した明るい茶髪の男性が立っていた。突然のことに対し視線を泳がせていれば「ん?」と、自身の様子を不思議に思ったように彼が顔を覗き込んでくる。
(え、ここって……)
慌てて周囲を見渡せば、目に入るのは明るく光るネオンの看板。
どうやら繁華街の中でもホストクラブやらキャバクラが立ち並ぶ区域に入ってしまっていたらしく、おそらくこの男性はそのキャッチ。
しかしこの煌びやかな空間は芽衣にとって本物の未知の世界。星空を貼り付けたような色彩も耳に入ってくる全ての音も、まるで自身が足を踏み入れてはいけなかった別世界。
土曜の夜だけあって多くの人が行き交う往来の真ん中で、そこにポツンと取り残されたような錯覚に陥った。
「あれ〜、制服ってことはもしかして未成年?ダメだよこんな時間に出歩いちゃ」
「……はい」
「こういう場合ってどうすればいーんだっけ……警察?、は面倒だし、とりあえず来る?」
(えっ)
瞬間身体が強張った。どこか遠くを彷徨っていた意識がパチンと戻るとともに、まさかの提案を口にしたキャッチを思わず凝視する。そうしている間にも彼は携帯で何かを調べ始め、ここを立ち去るタイミングを見失ってしまった。
(あ、え、どうすれば……)
だが、ここから逃げたところで行くアテがない。
気付けば店や街頭の灯りが少しばかり遠く歪んで映る。それが目に薄く張った膜のせいだと気付いたのは、目元にじわりとした熱さが滲んだ後だった。
そうして今更襲いかかってきたのは、考えもなしに飛び出してしまった虚勢が足元から崩れていく感覚。
しかしここで泣いてしまえば、それこそ今まで保っていたなけなしの意地が跡形もなく消えていくに違いない。
(っ、どうすれば)
そうして五感が遠のいていく中ギュッと、奥歯を噛み締めた時。
──不意にポンっと、肩に軽い重さを感じた。
「やあ芽衣ちゃん、ここに居たんだ?」
(っ!?)
びくりと肩が大きく跳ねたのも束の間、次に耳に入ったのは聞き慣れた男性の声。弾かれたように振り向いたその先にいたのは腰まで伸びた灰色の髪を1本に結い、海のように青い瞳でこちらを見下ろす見慣れない姿の見知った男性だった。
そんな彼の見慣れた口元のホクロは、愉悦を描く表情をいつものように飾っていて。
「っ、和海さん!?」
瞬間口から驚声が飛び出した。往来を行き交う大人の視線が一斉にこちらを向いた気がするが、そんなものに構っている余裕はない。
翔の兄である彼が吸血鬼の姿で出歩いているこの状況こそ、最も驚くべきことなのだから。
(そのカッコ見られても大丈夫なの……!?)
先ほどまでの沈む感情が一転、芽衣の頭を支配したのは急と確かな安堵。それを見透かしたように和海は背後から腕を回して自身の肩を抱くと「この子、俺の連れね」と、今にもどこかへ電話しそうなキャッチを制止する。
「そーなの?ってかおにーさんカッコいいね、外国人?ホストとか興味ない?」
「ありがとう。でも俺こう見えて日本人の人見知りでさ、特に初対面の女の子とは話せないんだよね」
「ふーん。じゃ、そういうことにしとく」
そうして目の前で軽く繰り広げられたのは『大人の会話』。誰が聞いても方便だと分かる返しをあっさり言ってのけた和海も、嘘だと見抜いていながらも引き際を見極めたキャッチも。
(すごいなあ……)
そのどれもが自身には持ち得ないものであり、同時にここが未知の世界なのだと改めて認識せざるを得なかった。
それに感心していれば「じゃーね」とキャッチはこちらに背を向けて歩き出し、おそらく彼の勤めているホストクラブへと消えて行く。
「今の彼、あの店に電話するつもりだったみたいだね。誘われてたの?」
「っ、はい。困ってるように見えたみたいで……」
「まあ実際困ってたから、優しさかもね」
なおも自身の肩を抱いたまま彼は言葉を落とす。まるで後ろから抱きしめられているような状況に、じわりと頬が熱を帯びたのが分かった。
そうして気が抜けたせいか、次に自身の口から溢れた問いは驚くほど震えていて。
「っ、ていうか和海さん、なんでっ、ここに?」
「ん、散歩だよ。ほら、もう大丈夫だから深呼吸してごらん」
そんな柔らかい呟きが耳を掠めた直後「そうだ」と、まるで何かを思い至った声が落ちる。そして、次の瞬間。
「え、わっ!」
くるりと身体の向きが反転したかと思えば額に直に伝わる彼の鼓動。数秒かけてじわじわと、彼に正面から抱きしめられていることを悟った。
「ほら、大丈夫、怖いことは何もないよ。家まで送ってあげる」
ぽんぽんと、背に回った大きな手があやすように後頭部を軽く叩く。
そうしてふわりと香ったのは、清涼感とほのかにタバコが混ざった特有の匂い。五感が安堵を覚えるそれにじわりと、気付けば目頭から熱いものが溢れ落ちていた。




