2学期
──はあっ、っぅあ゛、っ
紺色の空間に響く、男の呻き声。
息も絶え絶えに、天窓から月明かりが差し込む階段を上へ上へと登っていく。
──っ、あ゛あっ
登り切った先にあるのは一枚の扉。汗ばんだ手で勢いよく開かれたそれがゴンっと鈍い音を立て跳ね返る。
そんなことを気にする余裕もないまま壁に沿って中央に設置されたベッドに背中から倒れ込めば、次に目に映ったのは天井を走る白い線。
そうして呼吸がほんの少しばかり落ち着きを取り戻したかに思えた、次の瞬間。
──う゛あ゛あっ!
喉元から背中までを大きく仰け反らしながらギュッと押さえられた左胸は今にも破裂しそうなほどの鼓動を刻む。そのまま瞼を強く瞑り蹲れば苦しさを増した呼吸だったがだんだんと、しかし確実に和らいだものへと変わっていく。
──はっ、あ……はあ、は
数瞬の後に仰向けに戻った男は額に脂汗を浮かべながら、白くぼんやりと霞む世界を虚に見つめる。その色違いの双眸が揺れることなく天井を捉え続ける中、彼の脳裏に蘇ったのは一人の幼子。
そんな彼だが、その容姿はおおよそ人間と呼ぶことは出来ないもの。
頭部についた獣を彷彿とさせる耳やズボンの後ろから覗くふわふわとした尻尾は、そのどちらも人間が持ち得ないものだった。
そうして男は薄らと開いた瞼から覗く虚空に向かって右腕を伸ばし、ぼうっとした意識の中で無意識に幼子の名前を呟いた。
「……芽衣」
と。
――
「なんかさ、翔くん最近優しくなった気しない?」
そんな問いかけが耳を掠めた9月12日、水曜日の昼休み。
卵焼きを咀嚼していた相田芽衣は箸を持つ手を止め、質問をしてきた親友である若葉紗季を見やった。そうして味わった卵焼きを嚥下した後に、横を向いている紗季の視線を追う。
「翔!バスケやるからお前も来い!」
「……なんで俺が」
「お前背高いし、3組の高身長野郎共に勝てる気がすんだよ」
その視線の先でクラスメイトに囲まれはあ、とため息を溢しているのは2学年の4月に転校してきた涼崎翔。確かに180近い身長ならゴールも余裕そう、などと考えながら芽衣はウインナーを口に運ぶ。
黒髪に黒い瞳といった至ってどこにでもいる容姿の翔だが、実のところその正体は吸血鬼。本来の彼は白黒の髪に真っ赤な瞳の人間離れした外見をしており、この学校で正体を知っているのは芽衣と紗季の二人のみである。
『調査』と称した吸血鬼の正体を暴く自作自演の『ゲーム』を終わらせ、翔から「そばにいろ」と言われたあの夜からおおよそ1ヶ月。以前は同級生が彼との会話を試みては玉砕するのがいつもの光景だったため、受け答えをしてくれている分夏休み明けの2、3週間でだいぶ態度が柔らかいものになったと認識されているらしい。
「近寄りやすくなったっぽくてさ、女子にもモテ始めてるんだって」
「へえ」
(まあ、顔はいいし。人間じゃないけど)
転校初日でクラスを沸かせた顔に加えテストでは両手の指で数えられる順位を修めるなど頭も良く、おまけに会話もしてくれるとなればモテない理由を探す方が難しい。そんなことを他人事のように考えつつお弁当に再び手をつけようとした芽衣だったが、次に紗季の口から飛び出した言葉でまたも動きが止まることに。
「モテちゃうの不安にならない?」
「?」
質問の内容が理解できないとばかりに小首を傾げた芽衣。しかし目の前の紗季も不思議そうな表情を浮かべており、二人の間に噛み合っていないような空気が流れる。そうして今度は白米を口に運んだ、次の瞬間。
「え、だって付き合ってるんでしょ?」
「んぐっ!?」
途端盛大に噎せ返り、拳で胸を連打して気管に入りかけたものを取り除く。若干涙目になりながらお茶を喉に流し込んでいれば「ごめん」と明らかに面白がっている紗季の謝罪が聞こえた。
(なんでそんな話に!?)
確かに翔とよく会話しているという自覚はもちろんあるし、自身も翔のことは好いているため『翔のことが好きなのではないか』という話になるのなら解る。しかし自身が話しかけたところで返ってくるのは短い返事だけであるため、会話をしているだけで『付き合っている』となるのは飛躍しすぎてはいないだろうか。
しかも。
(「お前のことどう思ってるか分からない」だっけか。翔が言ってたの)
確かに『そばにいろ』とは言われたが明確に好きと言われたわけでもなければ、恋人関係になるような言葉をもらったわけでもない。なら、この関係の名前は一体なんだと言うのだろうか。
「付き合ってないよ。何も言われてないし」
「えっ!?」
裂けそうなほどに見開かれた黒い瞳は信じられないとでも言いたげで。そうして固まった紗季を見やる茶色の瞳が再び下方向に向かった、次の瞬間。
「何話してるんだ」
「っ!?」
突然横から届いた低い声。聞き慣れたそれに咄嗟に顔を上げた際目に映ったのはいつもの無愛想を滲ませた翔の姿だった。先ほどまでの話が聞こえていたのではないかと何故か不安になったが、目の前の男は特に言及する様子を見せない。
そんな姿に胸を撫で下ろしつつも、口は勝手に言葉を紡ぎ出す。
「なんでもないよ。バスケしに行くの?」
「……ああ」
「ケガしないようにね」
「見に来ないのか?」
(えっ)
聞いたことのない質問に思わず耳を疑う。以前なら「俺をなんだと思ってるんだ」と仏頂面で言ってきたであろうあの無愛想の塊が、そんなことを……?
何か、悪いモノでも食べたのだろうか?
「……碌でもないこと考えてるな。飯食ったら来い」
「え〜」
そう言い放ったまま教室を後にした彼は、どうやら選択肢を与える気がなかったらしい。そんな背中をぼうっと見つめていればなんとなくニヤニヤとした視線を横から感じた。
「翔くんが自分から話しかけるの芽衣だけじゃん」
「……確かに」
「ほら。そんなんで付き合ってないとかある?ちょっと放課後お時間よろしくて?」
「お茶会でもする?」
「しない」
そんな軽口を叩き合いながら、いつもより少しだけ早いスピードで箸を動かした芽衣。無意識にはやる気持ちのまま手早く歯磨きまで済ませた後、2人は軽い足取りで体育館へと向かったのだった。
**
そうして放課後。部活に向かう生徒以外がまばらに残る教室の中、芽衣と紗季は昼休みと同じく向かい合いながら言葉を交わす。
「っていうか紗季、部活は?」
「今日休み〜。そんなことよりさ、翔くんに何も言われてないの?好きだとか」
「ないよ〜。あ、でも『そばにいろ』とは言われたかな」
そう口にした瞬間紗季の瞳が分かりやすく輝き始める。「少女漫画みたいじゃん!」と大袈裟に両手で顔を覆った彼女は身体を揺らしながら悶えており、その様子に思わず笑いが溢れた。
(まあ、他の男と喋ってたら殺したくなるって言われてるんだけどね……)
途端脳裏に蘇る、冗談などという空気を一切感じさせない据わった鮮血の瞳。殺意を抱く対象が自身なのか相手なのかは分からないが、流石に殺されたくはない。
「まあそこまで言ってたらウワキなんてしないよね〜」
「付き合ってないってば。っていうか、翔がモテてるんだったらさ」
同学年、他学年を問わず可愛い子はたくさんいる。紗季の言葉通りモテているのであれば、女子などまさに選り取り見取りだろう。
ならば自身が翔の隣にいられる猶予は、あとどれくらい残されているのだろうか?
「おーい芽衣、黙っちゃってどした?」
そんな声で我に返る。しかしその思考は未だに下方向に引っ張られたまま浮上することはなく半ば無意識のまま、芽衣の口は勝手に言葉を紡ぎ始めた。
「私なんかよりも可愛い子見つけちゃうよね〜。目移りとかしないのかな」
「お、弱気じゃん。でも翔くんさ、ほんと芽衣としか会話しようとしないじゃん」
「今だけだよ多分。これからいっぱい話し相手見つかるって」
ネガティブな感情を吐き出す口はいつにも増して饒舌で。次から次へと胸中で燻っていた『自信のなさ』が顔を出す中、芽衣はそのまま机に突っ伏してしまった。
「翔にとってさ、私ってなんなんだろね」
そんなくぐもった声がいつの間にか2人きりになった教室へ融けて行った、次の瞬間。
「……俺が、なんだって?」
「っ!?」
ひゅっと飛んだ呼吸と共に心臓が大きく跳ねる。耳に馴染んだよりも一層低い声に勢いよく顔を上げ横を見やった際、見開かれた芽衣の瞳に映った男の表情は。
(っあ、翔、怒ってる……?)
そこに見えたいつもの仏頂面。しかし普段と変わりないその表情から心底不愉快だとでも言いたげな感情が滲み出ているのを、芽衣は無意識のうちに感じ取ってしまったのだった。