tp8 足取り探し二日目 ――mare――
デリカシーがないと言われなかったことに、少しだけ安堵して、灯りを落とした俺は、ペギーが緩く編んでくれていたおさげ髪の上から毛布を被った。
起毛の効いた柔らかい生地と、やや皺だらけのシーツの間にサンドされながら、俺がこの世界へ持ち込みを許された唯一の私物である、銀色の小さなスマートフォンへ、八桁のパスコードを入力する。
お嬢様の身体に宿っている魔力――《二つ身》と《鋏》では、EAPモードのセキュリティは逆立ちしたって突破できないので、スマホに表示されているチル魔法を開くためのアイコンの大半は、今の俺にとっては無用の長物だが、それでもできることが皆無というわけではなかった。
さあて、今夜のお仕事タイムだな。
格好がつくように、胸の中でそう独り言ち、行儀のよくない俯せの姿勢のまま、画面を横に幾度かスクロールさせた俺は、ようやく現れた「読み」のシンボルである、“下弦の月と瞳”を組み合わせた絵柄のアイコンを、右手の人差し指で、間違えないようにタップする。
一般領域内に置かれているこのアプリは、先生の夢である非魔法使いにも本格的な魔法の行使を可能にさせるためのリリース前の開発ツールだ。
もっとも、ツールの正式名称は、俺たちには、まだ知らされていなかったけれども。
たぶんさ、レセプションで行われる予定だった先生のスピーチで、発表されるはずだったコールネームなんだと思うよ。
俺と同じように、ツールの存在を知っている、あいつだったら、口にしそうな台詞を胸の中でなぞってみた。
過去形になってしまっている言い回しに、案の定、虚しい気持ちが湧き上がってくる。
「ほんとにね。どんな名前だったんだろう。知りたかったな。……そのためにも、頑張らないと」
それでも、どうにか自分を鼓舞しようと、小声で呟いた俺は、呼び方が明らかにされていないアプリ内へ、作成途中のチル魔法の構文データを呼び出して、今朝の作業の続きに取り掛かった。
とはいえ、開発環境は、恵まれているとは言い難かった。
本来ならば、チルによって、脳内に直接、視覚情報を送ることができるため、目で見ることに関して、ほとんど考慮されていない、2インチもない小さなディスプレイしか、俺のスマホには存在していないからだ。
そんな小さな画面に向かって、ソフトウェアキーボードと指で一文字ずつ入力していくなんて、正気の沙汰とも思えないほど、最高に効率の悪いやり方だけれども、ほかにやりようがないので、仕方がない。
一時間後、あまりにささやかな、今日の進捗が反映されたデータを保存して、俺はスマホとの格闘で酷使していた目を閉じた。
ペギーが間違えて渡した薬の作用で、発育途上に戻されたレベッカお嬢様の視力のため、作業するのは一日二時間にして、それを朝晩に半分ずつ割り振ると笙真たちと决めていたのだ。
女の子に眼鏡なんて、可哀想だしと言ったのは、俺なので、今さら変えるつもりはないけれど、一時間って、本当にあっという間。
……それにしても、"Be corrected.'"から、もう一ヶ月以上経っちゃってるんだよな……。
止しておけばよかったのに、そんな、余計なことまで思いつつ、小さな光源を凝視しすぎたせいで、いやな痛みを訴えている小さなお嬢様の両目の間を指で軽く揉んでやった俺は、とうとう近くまで来てしまった眠気に、仕方なく身を任せた。
数日ぶりに、内容を覚えている夢を見た。悪夢だった。
甲南湖の森の桜並木の下に埋められていた腐乱死体に、お仕着せを身に纏うペギーが縋り付いて、泣き叫んでいる夢。
死体は、写真でしか見えたことのない、宮代統が、半ば白骨化したもので、俺は相変わらずレベッカお嬢様の背格好だった。
今にも崩れ落ちそうなペギーに向かって、俺が何事か言おうとした瞬間、慟哭していたはずの彼女が、幽鬼みたいな顔でこちらに振り向いて、馬乗りにされる。
俺に一度だけ、嗚咽しているところを見せてくれた菫色の瞳が、真っ赤な憤怒にまみれていて、アンタのせいで、と罵られた。
白魚みたいな指が、俺の呼吸をまるごと奪い取ろうと、ぎりりと軋むほどの力で締め上げてくる。
酸素と助けを求めて、右へ左へと彷徨わせた視界の中には、桜の花弁に混じって、先生と、小鳥と、母さんたちのものだと分かる紅白の「破片」が散らばっていて――
「――――ッ!!!!」
がばりと飛び起きた拍子に、傍らに置いたままの流線型の銀色の筐体が、壁際に滑り落ちた。
ガツンと嫌な音がして、暗闇の中で目を覚ましたばかりの俺は、音の出どころを指で探ろうとして、全然届きそうもないことにやっと気がつく。
硬質ガラスで覆われたEAPの小さなメインディスプレイは、床と喧嘩しても無事だったが、俺の気持ちのほうは仔狐に変身してしまうくらい散々だった。
朝になっても食欲なんて、これっぽっちも湧かなかったけれど、レベッカお嬢様の身体に何か変わったことがあったときには、必ず報告することになっているので、居間に顔を出さないわけにもいかない。
そんなわけで、解けてしまった銅色ベースの派手すぎる髪を、踏み板に擦りながら、階下に降りた俺を待っていたのは、夢の中と同じ臙脂と白と黒のお仕着せ姿のペギーだった。
「おはよう」
「……おはよ……」
リビングの戸口をくぐった俺に、最初に挨拶をくれた、いつも通りの《鳥》の少女へ、元気ゼロ倍の声で答えを返す。
そんな俺に、続いて声を掛けてくれたのは、この家の主であり、笙真の魔法の師でもある知恵さんこと、出水知恵先生だ。
こちらの世界での、俺の大師匠様である彼女は、キッチンから顔を覗かせつつのお声掛けだった。
「おはよう、すば……スヴェトラーナさん。なんだか、一段と調子がよくなさそうだけど、どうかしたの? まさか、笙真が何か言っちゃったとか?」
「違うんです。いつもよりちょっと、夢見が悪くって……。『読む』のは止めてください。今朝のは、特に最低最悪だし」
「あら、ほんとだわね」
俺の制止を聞き入れて、すぐさま「読む」のを切り上げてくれたらしい知恵先生が、あからさまに眉を寄せた。どうやら手遅れだったみたいだ。
ペギーも、おやすみと声を掛け合ったときとは、だいぶ様子が異なっている俺の有様に、心配そうだ。
「いつもより酷いなんて大丈夫? 私でよければ昨日みたいに話を聞こうか?」
「……アデリーさん、止したほうがいいわよ。多分、あなたまで元気をなくすこと受け合いだから」
二人にとってはとっくに承知済みの事柄である、俺の悪夢に関して、珍しく硬い声音を零した知恵先生を振り返って、ペギーが首を傾げる。
「私が? それならなおさら」
「やめて、ペギーには聞かれたくない。ねえ、笙真君は」
喉から絞り出された声の前半は、どうにか俺の意思によるものと言ってよかったが、後半は、違った。
年相応に、舌っ足らずで、甘えた口調。こんな声質の声は、俺に出せるわけが、なかった。