tp5 前振りは以上。プロローグはこれでしまいだ ――He, the enchanter from Chill world is in the world of Duplex――
ペットボトルキャップとの戦いを、どうにか制した俺が、大好物の紅茶を口にしようとした時だった。
「そう言えばさ、こうしたらコーラが飲み放題ってバズってたんだよね。ゆきに見つかると絶対にうるさいから、師匠の家でやってみようと思ってたんだ」
「宮代笙真。それは本当に今、必要なことだと思っているの?」
「固いこと言うなよ。『読み』の魔法は頭を使うんだから、糖分が一番欠かせないってのは、マーゴットだって分かってるだろ」
「あのね、私は《鳥》でもあるんだから、あんまり重くなるわけには」
「あっそ。じゃあボクだけでも楽しませてもらうよ」
ボンというような効果音もなく、変身のための光もなく、かといって煙幕だって上がらず。
宣言と同時に、ノーモーションで手のひらサイズの純白の鼠に姿が置き換わった先生が、何のためらいもなく、コーラの赤いボトルにかじりついた。
カラメル色の炭酸水が、顔はおろか身体中を伝っているのに、厭うような素振りも見せずに、喉を鳴らす。
そのさまを、世界の全てを知りたがっている「明かし」としての本能に従って、俺は手にとって、どうにか全力で理解しようとした。
先生が、変身した。なんで、どうして。
この人は、ただの「明かし」でしかないはずなのに。わけを知らなきゃ。知りたい――
それがいけなかった。
先生からなけなしと言われていた通り、最後のひとかけら分より少しマシなくらいしか回復していなかった魔力。
心が命じるまま、その僅かな魔力を立ち上げることができない「読み」に投下して、無駄に使い果たしてしまった俺は、目を丸くしてこちらを見上げた“鼠姿の先生”の真っ赤な瞳を視界に捉えたのを最後に、今度こそ本当に、深くて長い、三日三晩の眠りに落ちる羽目になる。
俺を、魔法使いが一番やってはいけない失態に追い込んだことで、知恵さんとペギーにしこたま叱られでもしたのだろう。
意気消沈しきっていた、こちらの世界の宮代笙真とペギーから、改めて宮代統とレベッカ・ルキーニシュナ・ペトロワの一件への助力を乞われた俺は、成年者二人の立会いの下、彼から提示された超豪華な空手形――「明かし」と《狐》と《鳥》全部の協力で、俺を元の世界に返してくれるという約束――を前に、もはや断ることもできずに、首を縦に振るしかなかった。
斯くして、賽は投げられた。
◇
「これで、よし」
耳のすぐ後ろから、満足気な声があがった。
散々いじくり回されていた俺の長い髪が、ペギーのすらりとした指からやっと解放される。
「肩こったー……。わ。すっげえな、別人じゃん」
「鸚鵡の粉を使ったからな」
「オウムの粉?」
椅子に掛けたまま、左肘を右手で引き寄せて、まずは素直な感嘆。
次いで、この身に宿った魔力が全快するまでにさらに追加で必要だった三日のうちに、意外にも馴染んでしまった鈴を転がしたみたいな高い声で鏡越しに尋ねると、彼女は少しだけ得意げな顔をして応じてくれた。
「知らない?」
「うん」
「《鸚鵡》たちが戦装束に使う毛羽染めだよ。魔法の御業が掛かっているから、ちょっとくらい返り血を浴びたって色が変わりゃしないし、羽根も髪も傷めないから、まあ、優れ物。もちろんお嬢様なら、知ってて当然」
まーた出たよ、“お嬢様なら”。
心の中で思うが、そいつを間違えて口になんてしようものなら、黙りこくって悲しそうな顔をされるのは、直近の数十時間で、すでに嫌というほど身に沁みている。
だから俺は、喉まで出かけていた台詞を呑み込む代わりに、もう一度背伸びをして、鏡の中の自分を見つめた。
十重二十重の極彩色に染められた亜麻布のケープ。そいつに首元から膝小僧まで覆われた、ペギーの手による自信作――銅色から七色に染め替えられた髪を編み込みのアップスタイルにされた可愛らしい女の子が、窓枠からぶら下がるような姿勢になって、EAPと同じ理屈で中空に浮かんだ姿見を見あげている。
「私は《鸚鵡》じゃないから、使ったのは初めてだけど、三日に一回の染め直しさえ忘れなければ、退色知らずらしい。ラウラから聞いた話だけど」
「ラウラ?」
「《鴉》と《鸚鵡》の間の一族の子。そのうち会えたら紹介するよ。忙しなく飛び歩いている子だから、たまにしか顔を合わせないけど、悪い子じゃないよ」
カラスとオウムのって……。
俺の常識では、子孫を作るなんてありえない組み合わせに、ここが単なる過去ではなかったことを再び突き付けられ、もう何度目になるか分からない回数目のショックを受けるが、暗澹とするような気持ちは、沸き起こらなかった。
きっと慣れてしまったのだろう。
「へえ……。なあ、こいつってさ、もし染め直しをしなかったらどうなるわけ?」
鏡から手を離し、前髪を親指と人差し指で摘みながら、上目遣いで聞いてみると、ペギーの返事は早かった。
「元の色に戻って、そのあとは魔法の反動で色艶が全部なくなる。そうなると羽や髪が全て生え変わるまでは、もとの色に戻らない」
「はねかえし?」
平成のあたまに世間を騒がせた新宗教みたいな名前を冠した粉だから、これにもさぞ御大層な代償があるのかと思って聞いてみるとそうでもなく、肩透かしを食らった気分だ。
まあ、そんな風に俺が警戒するのも、無理も無い話。だって、ここまでが異常すぎたんだから。
「そんなことも知らないのか? 鸚鵡には死活問題なんだぞ」
「知らないよ。だって俺は、宮し」
「それは言わない約束じゃなかった?」
「…………」
いきなりトーンを落とした声で、注意されてしまえば、黙るほかない。
だから、俺は頭の中で、何なんだよ、はねかえしって、とひとり繰り返す。
既知の単語と同じ形の知らない用語とか、もう本当に勘弁なんだけど。
チルが「読み」以外のほとんど全ての家の魔法を世界の隅へ追いやった魔法体系の下で育った俺には、なかなかハードルが高い。
まあ、一番馴染めないのは、意を決して尋ねた俺に対して、ペギーたちがこともなげに答えた魔法の存在自体が「観える」っていう感覚だけど……。
ちなみにというか、当然というか、俺は魔法を「観る」ことはおろか、あの日、《狐》の女にしてやられた時のように、五感を通して魔法を直接感じることだって、もうできやしない。
何でかって? 今この瞬間も、俺は紛れもなく魔法使いなはずだけど、この世界には、俺の心のほかはEAPだけしか持ち込むことが出来なかったせいだ。
そう、あの時の「顕し」の魔法は、俺をただの時間を行き来する小旅行者にしたわけでは、なかったのさ――。
全然俺らしくもない、気取った言い方で独り言ちてみても、誰からも返事はなかった。
何となく虚しくなって、俺は目を閉じて、心の底をそっと浚う。
小鳥への気持ちと同じくらい秘匿性の高い、俺のもう一つの秘密を心の底にある「祠」の中から拾いあげようとした。
けれど、「明かし」としての俺を半分以上形作っていたはずの俺の片割れを探し出すことは、やっぱりどうしても叶わなかった。
諦めて目を開く。
鏡の中には、相も変わらず女の子の姿の俺と、俺を見下ろすペギーの静かな菫色の瞳。
コーラの一件を別にすれば、こちらでも優秀な「明かし」に違いなかった先生の手腕のせいで、祠の底まで白日の下へさらけ出すことになった俺が、吐かされてしまった「宮代統は死んでないと思うよ。だって――」という一言から始まった一連の言の葉。
その言葉が雫となって、凪いだ水面だった彼女の目に、大きな波紋を落とした二日前のことは、まだ記憶に新しかった。
寄越されたのが俺の方じゃなければ、この娘を悩ませている事件なんて、一瞬でカタがついただろうに。
曲がりなりにも先生とペギーの頼みを引き受けた身のくせに、そんなことを考えてしまったこと自体に厭気が差して、俺は行儀悪く鏡の枠に肘を掛けながら、顔を顰めた。
と思ったら、俺が思うほどには腕力のなかった女の子の片肘がずるりと外れる。
あ、やばい、落ちる。誰か助けて。
「もう、危ないよ。マーゴット、ポーリャちゃんが落っこちちゃうから、はやくはやく」
「はいはい」
俺の視線を、つむじの上から見ていた先生が呼びかける声。
返事だけは面倒くさそうにしたペギーの《重力に抗う小翼羽》に優しく身体を支えられた俺は、仕上げてもらったばかりの髪の上でおんなじように重力の軛から逃れた白鼠姿の先生ごと、無事につま先からの着地に成功した。
「うん。少しは様になってきたね。今、ちょっとだけ観えたでしょ?」
「だから言ったろ。俺は向こうでは出来るほうだったって」
「こっちじゃ、まだまだ殻の中の雛鳥、いや、巣穴の中の仔狐以下だけどな」
四つ足で床を踏みしめていた俺の首根っこを抑えて、ペギーが言った。
横目で見れば、鏡の中には俺よりひとつ年上の少女と、彼女に片手で持ち上げられた赤毛の仔狐が映っている。
「そうだよね。てんで魔法のコントロールがなってない。息をするように魔力を垂れ流すよりかは、すぐに倒れちゃわない分だけ、まあマシだけど」
諸共に吊るされるより一足早く、ペギーの手の甲と俺の背を一気に滑り降りていた、宮代笙真も言った。
周到に用意していた着替えの中に潜り込むと、彼は少年の姿になって、少女が片手に吊っていた仔狐を受け取って、床に放った。
「さてと、次の課題です。日が暮れる前にヒトの姿に戻れるかな?」
「戻ったら、髪の毛やり直しだから、早めに頼むよ」
手のひらに残されていた、少なくない数のピンとヘアゴムに目を落としていたペギーが、うんざりした口調で言う。
それがどれくらい大変な仕事だったか、絶対に分かっていない少年が軽口を返した。
「いいじゃん、髪くらい。それよりマーゴットが手取り足取り教えてあげたら? レベッカ嬢のお付きなんだから」
「馬鹿言え。子どもじゃあるまいし、一々姿を変えてなんかやらないよ。私の髪まで崩されたら、どんだけ時間がかかることか」
「だってさ。じゃあ、ペギーのもう一方側の姿は追々見せてもらうとして、ボクと一緒に頑張ろうか」
「ああ」
すっと目を細めた彼に短く応じて、俺はこの年になって、新しく身に着けねばならなくなった《二つ身》の魔法に意識を研ぎ澄ませた。