tp39 KY鼠とピイたちの幕間劇 ――Un-Modalitical mʌdiːmuːdi mouse and 3pieces: Ōmu to Shinju to Hokkyokusei――
びくともしなかったドアノブが、ひとりでに下がるのを見たのだろう。
デイビッド様の魔法で保たれていた一塊の風が消える間際にハンドルレバーを押し下げたことによって開いたドア。
その向こうから姿を表した、泥だらけな《白鼠》姿の宮代笙真を首元にしがみつかせた、ヤツのお師匠さんの表情は、百歩とか千歩みたいな数字では言い表せぬほど、複雑怪奇な様相を呈していたように自分には思えた。
そしてそれは、自分と同じように廊下側にいたデイビッド・アデリー会長の、「普段は割合に精悍な」顔つきとも、うーん、正直なところ、あんまり違わないような気がするんだよね。
「読み」の魔法で、視線越しに心を覗くのを大得意としている宮代一門のうち、この甲南湖一帯に居を構えた分家筋の構成員にあたる目の前の師弟と、一応は自分やプーカの主筋兼超・上役にあたるアデリー・メディシン&エアカーゴグループを率いる、若き《白頭鷲》の青年。
会長の肩の上から、そんな三人を交互に見比べて、おとなしく左右の翼を畳むけれど、いつもは陽気で通している、自分こと、このラウラ様だって、なんとなく溜め息をつきたいような気分になる。
その原因なんて、至極トーゼン。言を俟つまでもなく、未だ閉め切られた、右の扉の中のお嬢様方のせいだ。
会長とはお袋さま違いの妹君であり、自分の友人でもある《真珠》様――マーゴット・アデリーと、彼女の主人である、あの《赤の雌狐》レベッカ・ルキーニシュナ・ペトロワ。
なんとも不名誉な二つ名を戴いた、赤毛のティーンエイジャー⋯⋯じゃなかった。今は、異界からの魔法使いに取り憑かれた、虹色頭の五歳児様だった。
真珠様の想い人とおんなじ、スバルって名前はあの子たっての希望で名乗らせていないらしい。
変わりに名乗ってる名前は、えーっと、確かポーリャ。たぶん、ポーチュラカをもじったんだろうな。マーゴット様らしいや⋯⋯。
そこまで自分が思い浮かべたところで、お師匠さん――出水知恵さんの首元の鼠がきいきいした声で、喚いた。
今の体だと、鉤爪や嘴がウズウズする鳴き声に、たまらず羽根繕いして、食い気を追い払う。
坊のヤツが、泥んこなのも、もちろん関係してる。これでいて自分は美食家を自負しているのだ。プーカと違って、ね。
「ラウラ・タービュレン、リベたちが静かって、いつから!?」
「ラウラ様が来たときからずっと。ねえ、坊。レベッカ嬢呼びは返上したの?」
「いっ、今はそれどころじゃないだろ! それよりずっとって、どれくらい前!?」
「一時間くらい? うんにゃ、五十か、四十五分くら⋯⋯やーめーろーよー。うら若き乙女なラウラ様の心を勝手に『読む』とか」
さすがに、ちょっとデリカシーなくない? そんな軽い気持ちで初列風切を差し向けてやると、坊のやつ、ものすごーく神妙な顔をしてきた。どうやら「読ん」でいる自覚がなかったらしい。
一昨日会った時より、あきらかに不調そうな泥んこ鼠が纏う魔力に、思った。
魔力越しに気持ちまでダダ漏れとか、全然「甲南湖きっての麒麟児」っぽくないぞ、今のお前、って。
「ラウラ」
「なんでございましょ、会長」
やれやれ、引っ張り凧。そんな感想は漏らさずに即答する。
「扉の向こう。観えているな?」
「観えてますよ。主様っぽい魔力の方も、変位ないから据え置いたけど、やっぱ不自然だと思う――思います?」
「屋外からの観測は?」
会長が頷く。同様に首肯してきた笙真のお師匠さんと、真っ赤な瞳を、明らかにはらはらさせている笙真のヤツもしっかりと視界の中だ。三人に語りかけるつもりで、嘴を開けた。
「窓際に真珠様。出窓越しにカーテンの隙間から尾羽だけですけど、お姿は確かに。真珠様の魔力は凪ぎすぎて欠測。自分の呼びかけで身動ぎなさったから、お休みされてるだけで間違いないかと」
報告終わりの合図替わりに、カチンとクリック音。
そうやって上下の嘴を打ち鳴らした自分へ、いち早く反応を返してきたのは、出水さんだった。
「『読み』で覗いた限りでは、《鋏》らしい形が数え切れないほど『見えた』のが少し気がかり、かな。これ以上は扉を開けて直接確認したほうが早いと思うけど⋯⋯」
自分や会長が観た夥しいほどの光源を《鋏》とほとんど断ずるような口振りだった。
一時間も自壊しないで居残る攻撃用の魔法なんて、《鋏》にしろなんにしろ、聞いたことがないんですケド⋯⋯。不意によぎった疑念を飲み込む。
すると、一転して、居心地の悪そうな表情で、出水さんが笙真を肩口から両手にしまい込んだ。
なんで? 不可解に思った自分はもちろんのこと、デイビッド会長にもくるりと背を向ける。
ドアに近づくやいなや、彼女は、そばかすの散った頬を板面へ寄せた。囁きというには、少しボリュームを残したままの、押し殺した声がノック音のあとに、廊下へと拡がる。
「アデリーさん。⋯⋯⋯⋯起きてる、わよね? 無理にここまで来なくてもいいから、身支度が済んだら報せて?」
あ、ナルホド。
だからバツの悪い顔になったワケか。
一瞬遅れで妙な感心をしていると、彼女の手のひらの間から、笙真の抗議の声。
リベは、リベが、リベ⋯⋯!と、短い反論の間に三度もあのお嬢さんの名前を織り込んで大騒ぎする“分からん鼠”を、深いクマに縁取られたジト目になって、襟の合わせに押し込んだヤツのお師匠さまが――
ありゃま、これって一体全体どういうことなんでしょう?
――振り向きざまに、会長じゃなくて自分に目配せをしてきたんですけどぉ⋯⋯?
◇
夢を見ていた。
青で固めた自陣の奥深くに、敵の旗印である紫のインキを塗りたくられて、何もかもが台無しにされる。そんな夢を。
そのことに底なしの焦燥感を覚えた瞬間、飛び込んできたのは、
(ラウラの声だわ。どうしてここに?)
いかにも《鸚鵡》の血筋らしい、かしましくも華やいだ彼女の声音に、一気に意識に血が通った。
嘴ごと首をもたげ、レベッカ様の様子を確かめる。
遠すぎて呼気、聞こえないや。脇腹は、動いているように見えるけれど。
もうっ! まどろっこし過ぎる。思うと同時に、私はもう一つの身体を呼び出していた。
一秒前までモノトーンの翼に違いなかった、両腕が朝の気配にさらされて、ひやんとした感触。
敷布代わりにしていた、お仕着せの生地から、肌着を引っ張り出して、素肌に纏う。
せわしげに、次の一枚を手繰り寄せ、左のつま先を掛けた瞬間。
コンコンコン。扉を叩く唐突な打音。
建て付けが悪すぎて、施錠すらできていなかったことを一足飛びに思い出して、身を強張らせる私。
けれども、それすら「読み」の魔法で見透かされていたのだろう。
宥めるような、出水先生の声があとに続いてきた。
急がなくていいから。
そんなモダリティを帯びた先生の言い草に、ドアを睨めつけていた頬骨のあたりが不思議とじんとなる。
そんな自覚とともに、私は脱ぎ捨てたままとなっていたトライカラーの仕事着を胸元に、グイ。宛てがう。
「⋯⋯⋯⋯どうぞ」
時間にして、たった数十秒後。
カフス飾りがシワにならないよう整えるのもそこそこに、レベッカ様の傍らに居場所を移した私は、意を決するため、息を吐いた。
きっと、待ち詫びさせてしまったのだろう。
軋みを立てながら、ドアが廊下側へ開いて、朝日が差した。
おかしな虹色の《鋏》がばら撒かれている、染め粉まみれの毛足の長いラグ。
その更に向こう側から、ラウラを肩に載せた兄様と、出水先生、それから宮代笙真まで、顔を覗かせてくる。
嘘。あの白鼠が、一番先頭なの? 少し意外だわ。
再び沸き起こる、ささくれめいた小さな反発。
私は、赤毛の仔狐姿で眠る主の身体に、火傷の跡も生々しい十指を伸ばした。
からからに干からんで、一層白味掛かっている、レベッカ様の灰黒いマズルを、エプロンに隠された膝頭の上へと、涙を堪えて、そっと引き寄せる。
ポーリャ殿も宿っているに違いない、お嬢様の落ち窪んだ目元。
相変わらず酷く熱ったままの、そこへ向けて、私の碧眼と血の色をした笙真の視線が滑稽なくらい釘付けになった。




