tp12 足取り探し二日目⑤ ――sitter――
こちらの世界に来て一月以上も経った昨日、ようやく往きだけ歩くことが許されたのと同じ、甲南湖の湖へと続くカラーコンクリートで舗装された道を、右手に吊るしたコンビニの袋を揺らしながら俺は歩いていた。
ちなみに、足元はシンプルな白のソックスに、半円を沢山連ねたような形の裾をした灰色がかった薄紫のキュロットだけだ。ペギーがいうには、スカラップという形の裾らしい。
真新しい黒いエナメルの靴は、五分程前に脱ぎ捨てて、ポシェットの肩紐にベルトを通してしまってある。
だって、あんなの履いていたら、ペギーとお揃いの靴擦れを拵えそうだし。
本当は、昨日と同じ柔らかいスエードのショートブーツが良かったけれど、そのためには出水家にいる女性陣に声をかけなければならないから、届いた荷物の中にあったお嬢様サイズの靴を頂戴したのだ。
三人にLINEは入れておいたから、一応、無断ではない。既読のマークは、まだついてないけど。
そんなわけで、うなじの辺りで一つに括った派手派手な髪と、靴さえ履いていないという、俺が思っているお嬢様像からは相当かけ離れた、ちぐはぐな出で立ちのまま足を運びながら、最新型すぎて使い勝手の悪いスマホをポシェットに戻した俺は、祠をねぐらにしていた片割れと普段やりとりをする時のように、心の中を浚ってみた。
……うん、分からないな。笑えるくらい、なあんにも。
お嬢様が、何を考え、どう思っているのか、まったく全然。
ここまで分からないってことは、俺、あいつとのやりとりは最後の一線を越えないように無意識に「読み」を介在させていたってことなんだろうな。
今さらになって発覚した新事実だが、俺の魔法とあいつの両方が欠けている現状で深堀りする意味はなさそうなので、納得だけして脇に除けておく。
いかにもお嬢様然としたブラウスとは別布で出来ている紺色のリボンタイを、指先でくるくると弄びながら、今度は、ペトロワさん、起きているなら、返事をして、と心に思い浮かべてみた。
こっちは、あいつが、いつも俺に使ってくる手だ。
俺の基準だと、魔法じゃない方法だから、期待薄だけど……あ、意外にも反応があった。
こちらの意思とは無関係に開こうとした口の動きに気がついて、俺は思う。
起きているわけね。
そう思うのと同時に、貝殻のように口元が結ばれる。ふんすと鼻が鳴った。
そのあとは、いろいろ話しかけてみたけれど、身体へのフィードバックはなし。
笙真の前で散々泣かされた時と違いすぎて、少し気味が悪い。
……嫌われているのかな。それとも意趣返しのつもりか? どちらでもいいや。とりあえず話しかけ続けて、糸口を探ろう。
ねえ、仲良くしようよ、俺、あんたに害を与えるつもりなんてないんだけど――。
「んもおぅっ、うるさいなあ!」
吠えるように喉が震え、怒声が飛び出した。はっとなった両手が、口を塞ぐ。
俺の意思で、手のひらを引き剥がそうとして、またもや抵抗を受ける。
視界がさらに低くなった。道端で風にそよいでいるたんぽぽの綿毛や、色とりどりの草花と同じくらいしかない。
どうやら、彼女の気持ちを受けて、姿が仔狐に変わったらしい。
俺だって、負けてはいない。練習は一月だけでも、魔法使いのキャリアは絶対に俺の方が長いのだ。
「落ち着けよ」「あなたこそ」
閉じ込められた五歳児の口先で、身体の持ち主であるお嬢様と舌戦になる。赤毛の狐、裸の女の子、再び狐。裸はまずいので、狐で落ち着かせないと。
混乱している相手と取り合いになっていた《二つ身》から、俺が先に指を離して、白旗を掲げた。
分かった。分かったから、落ち着いて。もう変身はなしにしよう。
「なにいってるの。だれだか知んないけど、出てって――!」
「出ていけないよ。方法が、分からないんだ」
「うそつき。鋏でかりとりの刑に処してやる」
なかなか物騒な五歳児の宣告とともに、水溜りもないのに《鋏》の魔法に魔力が流れ始めた。
笙真たちから新しく与えられた知識と、先生からの長年の指導、それから俺自身の経験に従って、《狐》の女の子の頭の中に浮かんだ式をチル構文に置き換える。
初めて目にする魔法だから、仔細までは分からないものの、俺の知ってる《鋏》の構成と共通する単語を拾い読みする限り、標的はこの身体自体としか解釈できなかった。
だめだろ、そんなことしたら、二人揃って死んじゃう――。
「死なないよ。だって――あれ? リベの魔法、上手になった? 狐の格好なのに、鋏も、使えてる!」
嬉しそうにはしゃぐ彼女の身体を操って、バックステップ。なるべく、遠くまで後ずさる。
着替えが遠くなったけれど、危険もいくらかは遠くなった。
あとは、彼女に現状を分からせて、目の前の魔法を自力で止めさせることが出来れば、完璧だけど、それは理想論。
説得途中で恐がられたら、余計に危ないので、黙ってことを進めるほうを俺は選ぶ。
魔法がよく「観える」よう目を凝らして、出来上がりかけの《鋏》に意識を向けた。
《二つ身》と違って、こっちの世界の《鋏》の魔法についてはあらまししか教えてもらってないので、半ばぶっつけ本番で、レベッカお嬢様の型へと流れ込む魔力の流れを、有無を言わせず俺が馴染んでいる「読み」の形になるように練って、エラーを促す。
効果は覿面だった。ホテルの屋上で、爆弾を正常化させるために外から物量任せで干渉した時と、全然違う難易度。
もちろん、反動のほうも威力抜群。
セミみたいに魔法と型が合わない状態にするなんて、フルの魔法使いは普通は絶対にやらない手だから、お察しというか、うん。気持ち悪ぃ――。
人の身体よりも格段に魔力を通しにくいと教えてもらった赤狐の身体にも関わらず、型にぶつかって撥ねた魔力のせいで、背中の毛が毛穴ごと粟立っているのがはっきりと分かった。
俺にとっての一番身近なセミである母さんが時々起きる発作で寝込んでいた姿が頭を過る。
後処理が上手くいかなきゃ、五歳のお嬢様をあれより酷い発作に巻き込んじまう。
それでも、こんなしち面倒くさい身体に閉じ込められたまま、事故みたいな形で命を落とすよりかはマシ。
自分の魔法がおかしなことになりかけていることを察したからか、俺と同じ気持ち悪さに襲われてしまったせいか、お嬢様が耳をぺたんと伏せてきた。
諦めなよ。悪いけど、《鋏》は壊すからね。
そのあと、魔法が撥ねるから、気を付けて。
相手が身構えることができるよう、呼びかけのための一瞬の暇を置いたあとに半分以上、「読み」の形になった魔力を型に叩き込んむ。
本当は、レベッカお嬢様の準備ができているか、確認するまで待ってやりたかったけど、本来の俺とはコンディションがまるで違いすぎな、別人の身体でそこまで我慢する余裕は流石になかった。
俺の魔法なし、スマホの支援もなし。
在るのは《鳥》の秘薬とストレスからくる寝不足で、心身と魔法の調子が最ッ低な心を二つも抱えた|偽名の魔法使い《ポーリャ・“ツェツァ”》だけ。
悪条件が三つも四つも重なりすぎだろ。呪われてるんじゃねえの。
そんなふうに自嘲気味に思った俺を、何の因果か心に棲まわせる羽目になったお嬢様の目と鼻の何メートルか先で、ぱきん、と薄い金属が砕ける音がして、ベリリウム銅合金で形成途中だった一挺だけの大きな片刃の《鋏》が消失した。
あの晩に成功させたかった、未だに間接的にしか行く末を知ることができていないのと、相似形の成果に、やってやった、と思う間もなく一斉に撥ねた魔力への対応に、全力を傾ける。
恐怖で我を失った女の子の身体が、狐ではなくなるのと同時に、蛇のように鞭打つ勢いの魔法が、剥き出しになった短い両腕に絡みついてきた。