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一歩の前進

 その日、俺は憂鬱な気持ちでアルバイト先のコンビニへと向かった。

 今日も先輩とシフトが一緒だ。

 話が弾むわけもないだろう。


 しかし、先輩だけには。

 先輩だけには誤解を解いておきたいという気持ちがある。

 その糸口が掴めれば良いのだが。


 店内に入ると、先輩の愛想の良い声が出迎えてくれた。


「いらっしゃいませー」


 天使のソプラノだ。

 しかし、先輩は俺の姿を視認した途端に、無表情になり、無言でサンドウィッチ類の品出しに戻った。


「先輩、その、話が……」


「制服に着替えてきなよ。レジ任せたいから」


「……はい」


 取り付く島もないとはこのことだ。

 溜息混じりにロッカールームへと進む。


 そして俺は、自棄になった。

 制服に着替え、先輩の側へとズンズンと進む。


「なに?」


 疎ましげに先輩が顔を上げる。

 その前でスマホを取り出し、迷宮のクーポンを起動した。


 周囲が薄暗い迷宮に変わる。


「ファイア」


 唱えると、俺の掌に炎が浮かび上がり、それは灯火となった。


「な、な、な」


 先輩は腰を抜かしたのかへたりこむ。


「これが今の俺の嘘偽りのない現状です、先輩」


 俺は淡々とした口調で言った。

 破れかぶれだ。

 全てを暴露するしかない。


「現実世界には、悪い感情を餌として育つ悪霊がいる。雛子にもその悪霊が憑いていた。俺はその悪霊を退治する仕事のようなものを天女から言いつけられています」


 そう言って、俺は服をまくる。

 俺の土手っ腹には大きな傷跡がある。


「雛子は親に勉強とセットにされて評価されていたことについて傷ついていた。そんな自分が野球とセットにして俺を評価してしまっていたことに気がついて、苦しんでいた。そこを悪霊につけこまれていた」


 先輩は傷口を見つめ、ぐっと息を飲み込む。


「だから、言ったんです。けど、お前、今なら、俺が屋台のラーメン屋の店長になってもついてきてくれるだろう? って」


 先輩は全ての内容を咀嚼するように、しばし思案する。

 そして、口を開いた。


「それで?」


「それをプロポーズの言葉だと勘違いされて、後はなし崩し的に……」


 俺は黙り込む。

 情けない話なのだが事実なのだから仕方がない。

 先輩はしばらく黙り込んでいたが、そのうち笑いをこらえかねたかのように吹き出した。

 そして、大声で笑い出した。


「なにそれ、否定しなさいよあんたも」


「いや、だって言えないじゃないですか。それなら私、あの家でも頑張れる、なんて言われたら。どう答えればいいかわからなくなっちゃって」


「随分君も優柔不断だなあ。で、いつまでその誤解に付き合うの? 死ぬまで?」


 厳しい口調と裏腹に、先輩の目は優しい。


「怒らないんですね」


 俺は予想外の展開に戸惑っていた。

 先輩なら、否定するところははっきり否定しろと怒りそうなところだと思ったのだ。


「私はね、嬉しいんだ」


 先輩は視線を上空に向けて、上機嫌に言う。


「秘密主義者の君が、私に秘密を打ち明けてくれた。だから、ね」


 先輩の視線が、俺を射抜く。

 俺は、どきりとした。


「私と君の関係は、一歩前進だ」


 その一言、男前過ぎる。

 年上の貫禄というやつだろうか。


「ただし」


 そう言って、先輩は尻をはたいて立ち上がる。


「待っててあげるから、ケリはつけなさいよ。できるだけ、雛子ちゃんにダメージの小さい方法で」


「今は、タイミングを待とうと思います」


「泥沼にハマらなきゃ良いけどなあ」


 不吉なことを言って、先輩は伸びをした。そして言う。


「品出し作業手伝ってよ。二人でやったほうが早い」


「はい!」


 俺は弾んだ声で言って、その世界を閉じた。

 私と君の関係は、一歩前進だ。

 その一言を思い返すだけで、俺は幸せな気持ちになれた。




続く

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