岳志君がいいなあ
「はぁ……」
雛子はあからさまに溜息を吐くと、スマートフォンを操作し始めた。
剛が近づいてきて、取り上げる。
しかし、十分だ。コールは出来た。後は、親友を信じればいい。
「こんなことしなければ、君をちょっといいかなって思ってた。馬鹿だね、君は」
剛はたじろいだように、言葉を紡ぐ。
「本気なんだ。こんなに本気になったことなんて初めてなんだ。お前のことが好きなんだよ」
「時間はたっぷりあった。君の勇み足だ。こんなことをする人、もう信用できないよ」
淡々と雛子は切り捨てる。
雛子はエイミー邸の中でははっきりと物を言う人種に属する。
だから、こんな状況でもけして怯まず自分の意見を告げる。
「信用できない人と付き合ったって苦痛でしかない。私を開放して。もう君と私の関係は終わったんだ」
「なんでだよ! 昨日まで俺達、良い感じだっただろ?」
「だからぁ、今日こんなことした瞬間に全部終わったんだってば」
「認めれない!」
そう言って剛が詰め寄ってくる。
後ろに下がる。
壁際まで追い詰められた。
荒い呼吸が気持ち悪い。
衣服を破かれた。
下着が顕になる。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
「岳志君なら、こんなこと、絶対にしない!」
「結局、軟式王子かよ……!」
そう言って、涙を滲ませながら、剛は雛子を押し倒した。
その時のことだった。
部屋の扉を、開けようとする人物が現れた。
扉は鍵に阻まれて何度もつっかえる。
「無駄だぞ。鍵を預かってるのは俺だけだ」
剛は上擦った声を上げる。
「無駄だよ。私の親友にはこの程度の障害は障害にならないんだ」
破壊音。
扉が吹っ飛んだ。
「雛子! 大丈夫?」
六華が部屋に入ってきた。
脳のリミッターが解除されている彼女はとてつもない怪力を有しているのだ。
言わば、火事場の馬鹿力が常時開放されている状態。
「大丈夫よー。けど早かったわね。心の準備をするとかどうとか言って時間稼ぐつもりだったんだけど」
「それはー……紗理奈さんが、ね。ちょっと、色々と」
親友にしては珍しく歯切れが悪い。
「んじゃ、そう言うことだから」
唖然としている剛の体の下から抜け出して、雛子は六華の傍に駆け寄った。
「どすっかな。この格好じゃ外歩けないや」
「ああ、それも……大丈夫だと思う」
相変わらず歯切れの悪い親友である。
戸惑いながら、連れられて部屋の外に出ると、眼の前の空間が歪んでいた。
銀色の、たわんだ壁のようなものがそこにある。
親友に手を引かれ、その中に入る。
すると、そこはエイミー邸の中だった。
地面に手をついていた紗理奈が両手を上げて立ち上がる。
「あら、間一髪だったみたいね」
雛子の服を見て呆れたように言う。
「うん、際どいとこだったけど……これ、どういうこと? 貴女は、悪霊つき絡みの人ってこと?」
悪霊つきに関しては、雛子も一定の理解がある。
なにせ、自分自身が悪霊つきになった経験があるからだ。
それ以来、超常現象に関しても受け入れる土壌ができている。
「悪霊つきの本場、京。安倍晴明の血を引き、その地で活躍する六大名家が当主が一人。それが私」
そう言って紗理奈は気だるげに欠伸をした。
「ま、せっかく長老から教わった新術だから、活用したくなったらまた呼んで」
そう言うと、彼女はさっさと去って行ってしまった。
「雛子、着替える?」
六華は戸惑いつつも、まず雛子のメンタルケアを真っ先に考えてくれたようだ。
親友の心の動きがありがたい。
「岳志君に、会いたい」
そう、雛子は言った。
衝動のようなものだった。
六華は手を胸元に持っていって、しばし考え込んでいたが、溜息を吐いて、頷いた。
「わかったわ」
二人で、岳志の部屋に向かって歩いていく。そして、部屋の扉をノックした。
「遥さん。ちょっとお兄ちゃんと雛子を二人きりにしてやってもらえませんか?」
「んー。いいよー。最近根詰め過ぎだから気分転換は大事だね」
そう言って、遥は部屋から出てくる。そして、雛子の服装を見てぎょっとした。
「どうしたの、その服!」
「ちょっと、男の子に襲われかけて……」
「ちょっと来なさい。私の服貸してあげるから」
手を引かれて、連れて行かれる。
そこは年上の威厳だ。逆らえない。
それに、下着が見えている姿の少女を彼氏に会わせたい女性なんていないだろう。
着替えさせられて、背を押される。
「話があるんなら、ゆっくりしてきなさい。私は待っててあげるから」
(ああ、温かいなあ……)
エイミー邸の皆は温かい。
家族を知らない自分に家族を教えてくれるかのようだ。
エイミーや遥は姉のようだし、あずきは母のようだ。
そして、雛子は、再度、岳志の部屋の前に立った。
「入るよー、岳志君」
「ああ、いいぞー」
部屋に入る。
相変わらず殺風景な部屋。
パソコンのモニターを横にずらしたデスクの前で、椅子に座った岳志がこちらを見ていた。
知らず知らずのうちに強張っていた緊張の糸が、解けた。
涙が出た。
「どうした、雛子。なんかあったのか?」
純朴な岳志は、何も知らずに、戸惑ったような様子を見せる。
その体に、甘えるように雛子は抱きついていた。
気持ち悪くない。
同じ男なのに、密着しても気持ち悪いと感じない。
それが、救いのように感じられた。
「やっぱり、岳志君がいいなあ」
絞り出すように、雛子は言った。
岳志は暫し身を硬直させていたが、そのうちそれを緩めて、雛子の後頭部を撫で始めた。
「本当にお前は困った奴だな。なんかあったか?」
「うん。色々。裏切られた気分だ」
「なんかヤバいことにはなってないか?」
「そこは六華に助けてもらった」
「そっか。良かった」
沈黙。
そして、意を決して言う。
「岳志君。二番目で良いから、私を彼女にしてよー」
「……それは、無理だ」
苦笑混じりに言う岳志である。
わかってる。わかってはいるのだ。
「けど、私は、岳志君がいいなあ」
「俺はお前がいい男を見つけるまで愚痴に付き合ってやるよ。妹が一人増えたようなもんだな」
そう言って、優しく後頭部を撫でる岳志である。
(ああ、妹、か)
好きだと言ってもらえた時もあったのに。
それほど、遥の存在は岳志の中で大きくなったのだろう。
雛子はしばらく、岳志の胸で泣いた。
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「つまり、エイミーの家に皆が集まっているのは、人質として利用されないためだと?」
六華は、紗理奈に、エイミー邸に皆が集められたことの真相を聞いていた。
「そうなるね。実質、遥が人質にされてピンチに陥ったことがあったらしい」
「だから、遥さんとお兄ちゃんはバイトをドタキャンしたのか……」
あの人達にしては責任感のないことをしたものだと思ったものだった。
それも今回の話を踏まえて考えれば納得がいく。
「ねえ、私ね。脳のリミッターが外れてるみたいなの。常時、火事場の馬鹿力が発揮できるわ」
紗理奈が興味深げな表情になる。
「そう言えば岳志が言っていたわね。刹那と卓球で張り合ったって。六大名家の当主と張り合うなんて尋常じゃないわよ、貴女」
「私も、役に立てないかしら」
紗理奈はしばし面倒くさげに考え込んでいたが、そのうち一つ微笑んだ。
つづく




