頭が上がらない相手
空気が凍ったこの時間。
最初に動いたのはあずきだった。
「こんなところにもありましたか。私が回収しますよ」
そう言って、あずきは歩いて行って、硬直している俺の妹の手から衣服類を回収した。
「雫さん、それは貴女の……? 見たところ、アリエルのものっぽいけど」
先輩が疑わしげに言う。
「アリエルちゃんの家の洗濯機が壊れたんですよ。それで岳志君にお願いに来たんだけど、女の子の下着を男の子がっていうのはどうかと思ったんで私が引き受けたんです」
流石あずき、歴戦のVtuber。ナイスフォローだ。
「なるほどね」
先輩は言いたいことはあるようだったが納得したようだった。
そして、あずきの存在が俺の生活に必要なピースという発言をあらためて実感したのかもしれない。
それにしてもあずき、俺とアリエルが同棲していると知れたらヤバいと言わずとも察したのは流石だ。
あのケルベロスとの死闘を経て色々と察するものがあったのかもしれない。
「さ、妹さんも座りましょう。私が美味しいお茶菓子を持ってきますよ」
そう言って、まだ硬直している妹をあずきがずりずりと押していく。
そして、妹は人形のように、言われるがままに席についた。
太ってもいなければ痩せてもいない。
少し日焼けしたかな。
健康的なようで兄は安心だ。
あずきが茶菓子を持ってきたところで妹の解凍は終了した。
「貴女方はお兄ちゃんのなんですか?」
疑わしげに言う。
その場にいた全員が目をぱちくりとさせて目配せした。
「私はバイト先の先輩で、勉強を教えに来ました」
「わ、私は町内会野球のマネージャーで、野球の誘いに」
「私はただのお節介のお隣さんだから、気にしないでね」
アリエルが猫モードでいてくれて良かったと心から思う。
彼女がいたらこの場は台風のように荒れ狂っていただろう。
面白がって彼女はなにを言ったかわからない。
「お兄ちゃん、家に帰ろうよ」
妹は言う。
「野球なら新しい高校に行けばいいし、勉強なら家庭教師がつくし。お父さんだって後悔してるよ。出てっていいと言ったのはすぐ挫折して戻って来るからと思ったからで、こんな長続きするとは思ってなかった、しょげてるよ」
「ざまあみろだ」
「お兄ちゃん!」
妹がたしなめるように言う。
「岳志君。感情的にならずに聞いてほしいんだけど、家に戻るのも確かに選択肢としてはありだと思いますよ?」
あずきが言う。
「なしですね」
俺は淡々とした口調で言う。
「あの家の人間は野球でしか俺を見ない。実際、部活を辞めた途端に掌返しをして俺に冷たく当たった。そんな連中と家族ごっこをやりなおすなんて無理な話です」
「けど!」
妹が涙目になりながら言う。
「私、信じてるもん。ほ兄ちゃんがドラフトに引っかかってプロに入って大活躍するって。今はその準備期間だって」
「プロはそんなに甘くないよ」
「わ、私も信じてます」
幸子も乗っかってきやがった。
なんだかなあ。
期待が重い。
「妹ちゃん」
あずきが言う。
「はい」
妹が涙を拭いながら言う。
「料理作るつもりだったんだっけ? 私の部屋の冷蔵庫の食材も作っていいから、一緒に作ろうよ」
「この人数分もですか?」
お前ら遠慮して家族水入らずにさせろよ。言外にそんな響きがある。
「うん」
しかしあずき、華麗にこれをスルー。
「わかりました……」
「じゃあ、その間、ちょっと勉強しよっか」
そう言って、先輩が重い荷物から数Aの参考書と無印のノートを取り出す。
呪われているとしか思えないその品に身が竦む。
もちろん呪われているわけがない。
苦手意識が生み出す錯覚だ。
「俺、数学一番苦手なんですよね。数式って覚えても、その後の人生で役に立たなそうって言うか」
「勉強できない人の典型的な思考パターンだ」
あずきがからかうように言う。
「問題を敵、テストをボスだと思ってやればいいんだよ。ゲームだと思えば多少は楽になる」
「体験談ですか?」
「一応MARCH出だからねえ」
意外。配信しかやってこなかった配信ジャンキーだと思ってた。
「じゃ、雑魚敵散らし、いくよ」
先輩が微笑んで言う。
アリエルの下着の一件は後を引いていないようでほっとする。
「こんな感じで勉強は先輩ちゃんが、野球は幸子ちゃんがフォローするから、妹ちゃんは安心していいんだよ」
「家に帰れば勉強は家庭教師が、野球は新しい高校がフォローするからもっと安心できるんです。一年生であの高校のベンチに入れたお兄ちゃんを欲しがる高校なんて山程あります」
「そんなに凄かったんだ」
「それはもう」
その凄さが俺の家族の目を曇らせた。
言っても詮無いことだから言わないが。
今は勉強に集中集中。
妹がなにか俺のことを褒めているが、聞き流して勉強に没頭し始めた。
三十分すると、問題が少しずつ解けるようになってきた。
「ちょーっと時間かかりすぎかな。脳トレ大事よ脳トレ」
先輩が不満げに言う。
「脳筋なもので」
小さくなりながら言う。
「バイトの仕事も覚えるのに手間取ったもんねえ……まあ、パターンさえつかめればもりもりいけちゃうから。今日より明日、明日より明後日はもっと良くなる」
先輩が微笑んで言う。
天使や、天使がおるでぇ。
「お料理できましたー」
あずきが歌うように言う。
「お皿足りないなあ。ちょっと取ってくるね」
そう言って、部屋を出ていく。
ほんと、あずきには頭が上がらない。
あずきは戻ってくると、皿に料理を盛り付けて配っていった。
先輩が呆れたような表情になる。
「生姜焼きにスパゲティ大盛り……?」
「あ、俺成長期なんで全然いけます」
今度は俺があずきをフォロー。
「私は量多すぎだって止めました」
妹が淡々とした口調で言う。
「白米も沢山あるから夏バテに負けないように一杯食べてね!」
あずきが満面の笑顔で言う。
相変わらず食に関してはどこかピントがズレている女、あずき。
「私、白米はいい……」
「私も……」
先輩と幸子が言う。
「つれないなあ」
そう言って、あずきは白米を大盛りにして自分の分をよそう。
ほんと、小柄な体のどこでそのエネルギーを消費しているんだろう。
「ねえ、妹ちゃん」
「なんですか」
「たまには賑やかなのもいいでしょ?」
あずきの言葉に、妹はしばし考え込む。
「まあ、たまにはなら……てか、お兄ちゃん、野球道具は?」
「ああ、捨てた」
「捨てた!?」
素っ頓狂な声が上がる。
アリエルがいないだけでこんなに平和だなんて。
俺は平和の味を思う存分噛み締めていた。
「いい匂いがしたからやってきたにゃー」
平和は数分で粉々に砕け散った。
その後、色々あったが波乱なく解散まで持っていけたのは俺とあずきの尽力があってだと思う。
今日、生まれて初めてあずきが疲れたと漏らしたのを聞いたのだった。
続く