くるみ柚香
俺はくるみ柚香に連れられて、駅の近くの喫茶店に入った。
こんな時間でも主婦で賑わっていた。
この喧騒は話し声を隠すにはうってつけだった。
「なんでも好きなもの頼んでいいよー。私、これでもお金持ってるからねえ」
そう、小柄な体でほんわかと微笑んで言う。
なんだか年上のお姉さんのはずなのだが子供のように見える。
尤も、くるみ柚香の公式年齢は十六歳なのだが、そんなのまともに信じている奴はいない。
実際に見たところ、二十代前半といったところだろう。
「それじゃ、クリームソーダー」
気がつくと、アリエルがどこかに行ってしまっている。
気まぐれな奴。
そう、心の中で舌打ちする。
くるみの周囲には今も黒いオーラが蔓延している。
それをどうにかするナビこそ彼女であるべきではないだろうか。
くるみはそれを知らないので、涼しい顔でパスタを注文した。
「ヒーロー君は名前なんてーの?」
砕けた口調だ。
やっぱり明るいな、この人、と思う。
「あ、岳志です」
「いつ頃から見てくれてるの?」
「トイボックスでデビューした頃から……」
くるみは目を丸くすると、けたたましく笑った。
「古参も古参じゃん。じゃあコメントとかもしてくれてたんだ」
「ええ、まあ。また見に来ますとかその程度だったけど」
「懐かしいな、配信業。もう、出来ないんだけどね」
くるみ柚香が出てきた時のことは今もよく覚えている。
それまでは弱小Vtuber事務所だったトイボックス。
その二期生として登場したくるみ柚香が世界を変えた。
一期生と二期生のコラボを多く企画し、ソロでも耐久のゲーム配信を行い、新しい風をどんどん箱の中に送り込んだ。
結果、今ではトイボックスはホロライブやにじさんじと並ぶ大御所だ。
それも、過去の話。
彼女はある時期からコラボを一切しなくなったし、長時間の配信もしなくなった。
短時間の愚痴配信が主。
それは人気もなくなるというものだった。
くるみがウェイトレスに注文を告げる。
そして、俺に向き直った。
「もうできないって、どういうことですか? やっぱりその……リストカットが原因で?」
恐る恐る聞く。
「前後が逆かな」
くるみは苦笑交じりに言う。
こうして見ると、本当に小さな可愛いお姉さんだ。
守ってあげたくなるような。
トイボックスの急成長の立役者といった馬力を持つ人間とはとても思えない。
「私ね、もう、いらないんだって」
その一言に、俺は衝撃を受けた。
トイボックスを支えてきたくるみが、いらない?
「実は、私に声がよく似たVtuber志望の子がいてね。その子にくるみ柚香を継がせようって動きが出てて。抵抗してたんだけどあの体たらくだったから。ままならなくてね。契約書も事務所有利なものを考えなしに書いてたし。抗えなくて。気がついたらこう、自分の手首をすぱっと」
そう言って、くるみは肩をすくめた。
「だとしたら、トイボックスはとんだ恩知らずだ」
俺は、静かな怒りを込めて言う。
「トイボックス躍進に貴女がどれだけ貢献したか」
くるみはにっこりと微笑んだ。
「そう言ってくれる人が一人でもいて嬉しいよ。けどね、わかってるんだ。コラボもできない、長時間配信も出来ない。鬱病の私が、このまま席を用意されているほどVの世界は甘くない」
「ご注文の品お持ちしました。スパゲッティナポリタン大盛りとクリームソーダー」
店員がスパゲッティナポリタンを俺の前に置こうとしたところで、くるみが片手を上げる。
すると、店員は慌ててナポリタンをくるみの前に置いた。
うーん、小さな体のどこに大盛りの入るキャパシティがあるのだろう。
そして、俺は甘いクリームソーダーを攻略し始めた。
「コラボとか、もうしないんですか」
「怖いんだよ」
「怖い?」
思いもしない言葉に、俺は戸惑った。
「あるコラボから、恋人疑惑を持たれたことがあってね。それで、登録者が一気に千人ほど減ったことがあって。それから、いくら頑張ってもその千人は戻らなかった。百万人のうち千人なんてと思うかもしれないけど、塵も積もればっていうでしょう? それから私は、どうすればいいかわかんなくなって、ただただ怖くて、怖くて……」
鬱病になるほど思い悩んでしまったというわけか。
その小さい体で、どれほど思い悩んできたのだろう。
破綻は、目に見えていたのかもしれない。
「気にすることなんてなかったんですよ」
俺は言う。
「そう、皆は言うけどね」
「俺は、自分の好きなことをやってるくるみ柚香が好きだった。病んだ後も、この人が頑張ってるんだから俺も頑張ろうって元気をもらえた。貴女の配信で元気を貰える人は確かにいたんです。だから、やりたいようにやれば良かったんですよ」
くるみは苦笑顔で俺を見ていたが、そのうち勢いよく麺をすすり始めた。
「後の祭り、だね。契約解除されちゃった」
「残念です」
「けど、あんたの鬱病は治るかもにゃあ」
黒一色の服装のアリエルが、俺の隣に座り込んだ。
どうやら家まで服を取りに行っていたらしい。
「貴女は?」
くるみは戸惑うように言う。
「さっきの黒猫にゃ」
くるみは滑稽そうにけたけた笑う。
「冗談が過ぎるわよ」
「冗談でもなんでもないんだにゃあそれが」
そう言って、天を仰ぐ。
そして、アリエルは言葉を続けた。
「岳志を信じれば貴女は鬱病が治るかもしれない。信じてみる気はある? イエス? ノー?」
「そんな」
くるみは、戸惑うように言う。
「初対面だよ、あたしたち」
そう言って、また勢いよく麺をすする。
「けど、岳志のあんたへの思いは本物にゃ」
麺をすする手が止まった。
くるみはしばし考え込む。
「……信じて、みようかな」
「そうこなくっちゃ」
アリエルはそう言って身を乗り出すと、俺を見た。
「岳志、クーポン出して」
「クーポン?」
「決戦のフィールドへのクーポンだよ」
そうか、そういえばそういう話だった。
スマートフォンを起動して、バイト先のコンビニのアプリを立ち上げる。
金色の特別クーポンは読み取りバーコードもなくただタップするだけで使用可能になっていた。
「岳志も覚悟決めなよ。フィールドに移った時点で始まるよ。戦闘」
「わかった。装備はどうなる?」
「迷宮の装備がそのまま引き継がれるにゃー」
手ぶらよりはマシと言った感じか。
俺は、黄金のクーポンをタップした。
世界が暗転する。
そして、俺と、アリエルと、くるみは、どこまでも広がる白い空間に立っていた。
くるみを覆うオーラが、蠢いて、形をなす。
そして、巨大な、三本の頭を持つ狂犬へと姿を変えた。
「憂鬱の具現化、ケルベロス」
アリエルが淡々とした口調で言う。
「さ、さくっと倒しちゃってにゃ」
「短刀一本でか!?」
俺は唖然とするしかなかった。
くるみはその場にへたり込んでいた。
続く