なんにもなくなっちまった
「そうか。決意は硬いか」
電話口の中年男性は、落胆した様子でそう言った。
夏の昼下がり。
外からは蝉の声。
パソコンからはクッキングパパの声。見ているのは相変わらずだぼだぼの俺の服を着ているアリエル。
俺はベッドに背を預けて電話をかけている。
「許されないと思うんですよ。俺はバットを凶器に使ってしまった。涼しい顔をして野球をできる気がしない」
幼い頃から野球に親しんできた。それによって得たものもある。
だからこそ許せない。自分自身を。
「あー、残念だなあ。せっかく美少女マネージャーを迎えようという計画があったのになあ」
俺はむっとする。
そんな単純な釣り餌で俺を釣れると思っているのだろうか。
「ともかく、そういうことですので」
相手がしゅんとしたのが、電話越しでもわかった。
「わかった。けど、俺は諦めんぞ、タケちゃん」
そう言って、電話が切れた。
スマートフォンをベッドに放り出す。
「本当になにもなくなっちまったなあ……」
思わず、呟く。
野球だけが、俺が誇れるものだった。
特別でいられる空間だった。
それを失った。
いや、まだ先輩がいる。
先輩と頑張って、良い大学に行って、良い会社に入って。
人生を挽回する。
まあ、自分の頭では限界があることはわかっているのだけど、理想は高いほうが良い。
まだまだ俺には時間がある。
やれることをやるんだ。
今はなにもなくなってしまったかもしれない。
ゼロからの再スタートだ。
それにあたって、まずやることがある。
「アリエル」
「今息子が自転車旅行してるいいとこにゃ」
「出かけるぞ」
「今息子が自転車旅行してるいいとこにゃ」
壊れたレコードかこいつは。
「お前の服を買いに行く」
「にゃ?」
アリエルは怪訝な表情で俺を見る。
「流石に服と下着一セットだけじゃ無理があるだろ。正直お前の服なんて置いておきたくないが俺の服を使われるのも都合が悪い」
ぶかぶかの服からのぞくうなじや肩が色っぽすぎるのだ。
それが煩悩多き年頃の俺を苛むのだ。
「大丈夫にゃ。岳志の服余裕ありそうだから」
「お前の服余裕ねーだろ。行くぞ。大体お前、本業は俺のナビだろ。仕事しろよ」
アリエルはしばらく未練がましげにパソコンのディスプレイを眺めていたが、そのうち溜息を吐いて立ち上がった。
「わかったにゃ」
「到着までは猫モードで行けよ。そのブカブカ服でうろつかれたら俺の神経を疑われる」
「了解にゃ。人間って面倒臭いにゃー」
「逆だ。お前が面倒臭がりなんだ」
同居して一日。
そろそろアリエルと話していると頭痛がするレベルになりつつある。
アリエルは指を鳴らすと、黒猫に変身した。
なーと鳴いて、俺の足に頬を擦り付ける。
それに毒気を抜かれて、俺は立ち上がった。
外に出る。
灼熱の太陽が俺達を出迎えた。
駅まで五分。
日陰を選んで進む。
平日午後の駅のホームは空いていた。
くるみ柚香の顛末を思い出す。
友達が言うには、Xにリストカット写真をアップしてしまったということだった。
すぐに削除されたらしいので確認はできなかったが、どうしてそんなことをしてしまったんだろうと思う。
そんなことをしたら、運営からストップがかかるのはわかっていだろうに。
それとも、自分でも止められなくなってしまっていたのだろうか。
それこそ、精神科の世話にならなければならない。
どちらにしろ、俺は全てを失ったわけだ。
そして、まばらな人混みの中で、アリエルが唸った。
その視線の先を見て、俺は絶句した。
駅のホームの黄色いライン。
その数歩手前に立っている、小さなポーチを持った小柄な女性が、黒いオーラに包まれている。
今にもそのオーラに押されてホームから押し出されそうな。
そう思っていたら、女性は一歩前へと踏み出した。
俺は、気がつくと駆け出していた。
そして、女性が一歩引く。
「えっ」
前進する俺。後退する女性。
ぶつかった。
バランスを崩して線路に向かって傾いていく女性。
前のめりになる俺。
手を伸ばす。
女性はリストバンドをした手を、伸ばそうとして、ふっと苦笑して引いた。
それを、身を乗り出して強引に引いた。
電車が到着する。
俺と女性は、駅のホームに座り込んで、息を切らしていた。
人が周囲を取り囲んで、ざわめいている。
女性は、目をそらすようにして俺を見ていなかった。
なんで今死のうとした。
その一言が出てこない。
その問題は、あまりにデリケートすぎた。
沈黙が漂う。
ざわめきは広がっていく。
女性がふと、俺を見た。そして、目を見開く。
「コンビニの小さなヒーロー君?」
その声を聞き、俺は目を丸くした。
そして、リストバンドに目を留める。
「失礼」
そう言ってリストバンドをめくる。
リストカットの跡があった。
「くるみ……柚香?」
「あは、コンビニの小さなヒーロー君まで私のこと知ってるんだ。案外有名なんだなあ」
目を丸くする。
「そりゃ、心の支えでしたから」
ずっと自分の心を支えてくれた存在が目の前にいる。
その事実に、俺は興奮するよりも先に動揺していた。
くるみは人だかりに素早く視線を向けると、俺の手を取って立ち上がった。
「こんなとこじゃなんだから、ちょっと喫茶店でもいこっか。そろそろ駅員さんも来ちゃうしね」
そう言って、彼女は駆け始めた。
案外元気じゃね?
それが、俺の第一印象だった。
続く