スタイルブック
時折中身がいれかわるマガジンラックから、最近ふと購入した咲希さんのスタイルブックを抜き出すと、表紙になっている横長の写真には、落ち着きのある白でぬられた煉瓦が壁一面に互い違いに積み上げられ、ぺたりとその前に座ってもたれた咲希さんの一つ結びの頭頂あたりで、横のものを一段だけ縦にして幅一メートルくらい並んでいる。
真っ白な空がのぞく横に長い格子窓のようなその下にすっぽり収まるようにして、咲希さんは全体にいくつもの不揃いな小さな穴があいた裏地つきらしい、襟なしの白いブラウスの上から真っ青な紺地だけれどふわりと跳ね上がった襟さきや襟もと、それから縁のラインにそって白く色落ちしたGジャンを無造作にはおり、通していない腕は体育座りのように両膝をたてた腿のあいだで、斜め前から撮っているためにこちらからは死角になって見えないものの、おそらく手首のあたりで交差したのちに白い靴紐にふれる人さし指に銀の指輪をはめた手先だけがのぞいている。
黒のゆるやかなパンツの先の、黒のスニーカーの白のラバーがところどころ汚れているのは、それが撮影のためにスタイリストが用意した靴ではなく、何冊ものスタイルブックを出版してもらえるほどの読者モデルである咲希さんの私物であるからに違いないけれども、表紙の洋服ばかりでなく百ページを超える中身のすべてが彼女のものだと思うと、羨ましさ以上に尊敬の念を覚えるし、インタビューでの咲希さんいわくそれは大人になってきたからだということだけれど、全体をとおしてシンプルなスタイルが流行りにそれほど左右されなそうだし、好感がもてて真似したいと思う一方で、自分ではこうもさらりとそれでいて繊細で品のいいお洒落はむずかしいとも気づかされて少し落ち込んでしまう。
最後に会ったのは食事をしたときで、四五年前になるけれど、本の最後をめくると記されている咲希さんの生年月日と発行日によれば、この本はそれからあとの仕事で、撮影した時期には二十七歳を迎えていたことがわかる。
自分と二歳年のはなれた咲希さんは端整なムック本のかたちで、美しい時期の姿をとどめて、そのなかではもう今のわたしより一つ年下になっていた。
大学に通うため上京してきたわたしが、街の小さな豆腐料理屋さんのアルバイト募集に惹かれて応募したのは二年生になって間もない頃のことで、ふらふらと足の向くままに横道からさらに折れた通りを歩みながら、その貼紙に目を留めなかったら咲希さんと出会うこともなかったと思うと、今更のように感慨深いものがある。
こちらを見つめる愛らしくて美しい瞳、お姉さんでありながら妹めいたあどけなさをのこす眼差しをおさめた顔は、右上から差し込む陽の光かあるいはそれを模した照明によって鼻筋から半面だけ照らされて、淡いチークがほどこされたその下の瑞々しいリップが頬の質感を際立たせている。
パラパラとめくりながら出会うどの表情もよく見てきたものと変わらないのは、やっぱり普段からくるくるといろいろな表情をみせていたからだろうか?
まあ、咲希さんについて言えば顔と性格はまったく切り離せないようにみえるし、実際そうに違いないのだ。たぶんこのビジュアルを度外視して生きてきた時間はそれを意識しはじめてからはほとんどないだろう。
可愛くない咲希さん、美しくない咲希さん、顔や仕草をのぞいて性格だけを抽出した咲希さんというのは本当のところあまり想像できない。したくもない。他はとりあえず置いといて、その人と身長も体型もちがわないのに、わたしはどうしてこんな体たらくなのか。
もっとお洒落に精を出す? 楽しくもない仕事をそれでも頑張ればいいの? なにかほかにもっと有意義な活動をするべき? そうでありたい。これは言葉にすることすらおこがましくて、もちろんありえないことだとつくづく自覚しているけれど、わたしには咲希さんみたいにみんなに勇気を与えるようなことは地球がひっくり返っても出来そうにない。ただそれでもなにかをしたいし、目指したい気持ちはあるのだ。
ずっと静かに燃えながら、それをできない自分に苛立っている、ような気がする。自分に嘘をつかずに心から打ち込めることが他の人の為にもなるような、助けになるような、癒やしになるようなそんなことがしたくて。
読んでいただきありがとうございました。