蝉しぐれ
ジジジジジ――という蝉の鳴き声で目を醒ました。教室の窓から斜陽が射し、シャツは汗で肌に張り付いている。何か途轍もなく不快な夢を見ていた気がする。僕はその内容を思い出そうと努めてみたが失敗に終わった。ただ、捉えようにない不安ばかりが胸の内に残っているばかりである。
やがて、閑散とした校内にロベルト・シューマンの『子供の情景』が流れ始めた。最終下校が近づいていることに気が付き、薄っぺらな鞄を手に取ると慌てて教室を後にした。
歩き慣れた家路に就いた頃には真っ赤な太陽がジリジリと地面を焼いていた。僕は陽炎を追うような覚束ない足取りで歩き続けた。まだ寝惚けているのだろうか、どうにも頭蓋の内側がすっきりとしない。脳髄が炎症を起こしてしまったのではないかと疑うほどに腫れぼったい感じがする。
一刻も早く、家に帰って横になりたい気分だった。僕の家は山を挟んだ向かい側に建っているから、まだ随分と距離が残されている。このまま、ダラダラと歩き続けるよりは、山道に分け入って真っ直ぐ家を目指した方がいい。田舎の交通事情を嘆きながらも、僕は舗装の施されていない坂道をノロノロと上り始めた。
※ ※ ※
ジジジジジ――という蝉の鳴き声がけたたましい程に響いている。山道は林に囲まれているため、物凄いまでに虫が鳴いていた。土はカラカラに乾き果て、一歩踏み出すごとに埃が宙に舞う。最後に雨が降ったのはいつのことだったか思い出せない。堪えがたいほどに喉が渇いている。冷たい水を一息に飲み干したい気分だった。熱中症気味なのか先程から脳髄が鈍く痛み始めている。
舗装の施されていない山道を歩きながら、教室で見た不吉な夢について思いを馳せていた。肝心な記憶はすっぽりと抜け落ちてしまっているが、どこか厭な感じのする夢であったことだけは朧気ながらも覚えている。
耳を覆いたくなるほどに騒がしい蝉しぐれに包まれながらも、僕はちょっと立ち止まって記憶の糸を手繰り寄せようと努めてみた。何か重要な秘密を覗き見てしまったような気がしてならない。
ジジジ、ジジ、ジ――。もう少しで悪夢の真相に手が届くかもしれないという頃になって、突如として蝉しぐれが止んだ。一陣の風が林の隙間を縫うように吹き去ってゆき、新緑の葉をザワザワと揺らした。入道雲が真っ赤に染まった太陽を隠し、辺りに束の間の静寂が訪れた。沢山の瞳が山道に佇む僕のことをジッと見詰めているような気がする。
「ああ、そういうことか――」と僕は思わず呟いた。僕を見詰める者達の正体が分かった。それは木立に掴まった夥しい迄の数の蝉であった。太い針のような口吻を樹木に突き立てながら、微動だにしない真っ黒な瞳でこちらの様子を窺っているのだ。それに思い至るとともに肌が粟立つような感覚に襲われた。今に一斉に蝉が林から飛び立ち、僕を目掛けて飛んでくるような気がしたからだ。そして、あの太い針のような口吻を容赦なく肉に突き立てようとしている。そして、僕の肉体は――。
※ ※ ※
ジジジジジ――という蝉の鳴き声で目を醒ました。何か途方もなく恐ろしい夢を見ていたような気がする。教室の窓から射す夕日を眺めながら、先ほどまで見ていた悪夢について考えたが、曖昧模糊として思い出すことができない。ただ、何とはなしに蝉の鳴き声が厭わしく感じられる。夥しい迄の数の蟬が声を揃えて鳴いている様子を想像すると、背筋を冷たい指先で撫ぜられたような気分になった。このままではいけないと思い、僕は早々に教室を後にすることに決めた。
歩き慣れた帰り道を辿っている最中に一匹の蝉の亡骸を見つけた。腹を向けて微動だにしない蝉の死骸に無数の蟻が集っている。蟻は強靭な顎で蝉の肉を食い千切っては列を成して巣穴に運んでゆくらしい。暗澹たる悦びを感じている自分がいることに気が付き、僕は蝉の亡骸から急いで目を逸らした。
教室で見た悪夢を思い出そうとすると頭痛がする。両足は鉛のように重く、まるで泥の中を歩んでいるような感じすらする。一刻も早く、家に帰りたい気分だった。だが、そのためには山を迂回して長い道程を辿らなくてはならない。このまま、ダラダラと歩き続けるくらいなら山道に分け入って近道をした方がいいかもしれない。
それにしても、この既視感は何だろう。目の前に聳え立つ山には、何か歪な存在が身を隠しているような気がする。そう、何か悪意に満ちた存在が潜んでいるような気がするのだ。きっと、これは妄想の類に違いない。僕は自分を鼓舞しながら舗装の施されていない山道に向かって一歩踏み出した。相変わらず、山からは蝉しぐれが鳴り響いている。迷い込んだ獲物を歓迎するかのように鬨の声を上げている。そして、僕はまたしても――。
(了)