第57話 お侍さん、思い悩む
「人族って変わってるよなー。熱湯なんか入って何が楽しいんだか。料理されてる気分にならねーの?」
「………………」
小川を蛙のようにスイスイと泳ぐ大蜥蜴を鬱陶しそうに眺めながら、一つ大きなため息を吐く。
ようやく話し合いから解放され風呂に浸かって寛いでいた所に、部屋の片付けが済んだらしいタイメンが行水にやって来たのだ。
水場が得意と言っていただけあって、長い尻尾を器用に使い、水音も立てることなく滑るように泳いでいる。
あの筋肉の塊のような肉体が何故水に浮くのか不思議でならないが、鰾でも体内に持っているのだろうか。
「その顔から出てんのって"汗"ってヤツだろー?熱いなら我慢しねーで水に入りゃいいのによー」
「お前、………」
反論の科白が喉元までせり上がったが、蜥蜴には風呂の良さなど理解出来まいという気持ちが言いかけた言葉を咽喉に押し戻した。
代わりに、以前から気になっていたことを尋ねる。
「そもそも、暑さや寒さを感じるのか?」
先日の狂猿戦、タイメンは引っ掻かれようが噛み付かれようが、気にする素振りさえ見せなかった。
全身を覆う無機質な鱗には痛覚どころか、感覚そのものが無さそうに思えたのだ。
「当ったりめーだろ!蜥蜴人を何だと思ってんだ!むしろ、寒さにゃめちゃくちゃ弱えーよ!」
「バルトがもうすぐ雪が降ると言っていたが……冬眠、しなくてもいいのか?」
寒さに弱い蜥蜴と聞いて当然の疑問を口にしたつもりだったが、タイメンはやや不快げな表情になり、眉の辺りに嫌な線を刻む。
「お前さー。オレは平和を愛する優しい男だから構わねーけど、それって異種族への差別発言だから気ぃつけろよ。特に獣人族にゃー動物扱いするとブチ切れる奴も多いからな。人種差別主義者だと思われちまうぜ?」
「人種差別……?」
言っている意味が──よく分からない。
いや、言葉自体は理解出来るが、"人種による差別"という概念を図りかねる。
"花は桜木、人は武士"
花の中では桜が最も美しいとされているように、人の世に位階があるとするならば、論ずるまでもなく武士が最上位。
黒須が人を測る尺は武士かそれ以外かしかない。
父上も、たびたび階級観念については申しておられた。
支配階級である武士と被支配階級であるその他に区別はあるが、武士以外の者の間に上下関係は存在しないと。
乞食であろうが豪商であろうが、我らからすれば大した違いはないのだと。
父の教えに疑問を持ったことはなかったが────俺は、タイメンの言うような差別主義者なのだろうか。
人間のみが暮らす日本とは違い、この国には外見の異なる様々な種族が生活している。
そこに優劣があるとは思わないが、最近は相手の武力を推量るために獣耳や福耳の有無を確認する癖が身についた。
人種によって相手を値踏みすることを差別と呼ぶのであれば、立派な差別主義者とも言えようが……。
要は、自分にとって敵になり得るか否かだ。
敵対するなら誰であろうと等しく同じ、斬り捨てるのみである。
その判断に種族などという視点が介在する余地はなく、老若男女、貧富貴賤、士農工商も全く関係ない。
「まー確かに寒いと動きが鈍くなんだけどよー。……あっ!この川、魚いるじゃねーか!!ちょっと捕まえて来るわ!」
顎に手を当て考えを巡らせていると、タイメンは完全に潜水した状態で上流へと旅立って行った。
「……………」
突然の遁走に、ポカンとしてそれを見送る。
呆れるほどの遊泳速度だ。
確実に陸を走るよりも速かった。
武芸十八般の一つに数えられるように、武士にとっても水泳術は極めて重要な武技である。
戦となれば敵陣に迫るために海や川、堀を突破しなければならないからだ。
黒須も幼い頃から嫌というほど水練は叩き込まれた。
真、草、諸手伸、小抜手略体、大抜手、巻足、雁行、蓮華鴨、諸手日傘、扇返、水書……ありとあらゆる型を始めとして、甲冑を着たまま泳ぐ着衣泳法、立ち泳ぎのまま弓や鉄砲を撃つ水中射撃、更には捕虜化を想定して手足を縛られたまま泳ぐ全身絡めまで。
水責めや溺水への耐久訓練も兼ねていたため、滝壺に巻かれて何度も死の淵を彷徨ったものだ。
溺れるというのは、単純な刀剣による痛みとは別種の苦しみがある。
水中で平静を失うと、人は一心不乱に動かす手足と同じほどの忙しさで間近に迫った死から逃れ出る道を本能的に考えてしまう。
肺に水が入った瞬間その混乱は極致に達し、もはや水面が何方にあるのかさえ分からなくなる。
いっそ気を失うか狂ってしまった方が楽なのに、嫌悪感が身体の中に充満し、抗うことの出来ない吐き気が込み上げて来るのだ。
数多ある鍛錬の中でも、垢離水行の練は時間を忘れるほど過酷な修行だった。
嫌な思い出が怱忙として脳裏に蘇り、快適なはずの湯が重く伸し掛ってくるような錯覚を覚える。
黒須は眉間に皺を寄せ、急かされるように風呂を済ませた。
・・・・・・・・・
「わぁ……!お魚なんて久しぶりです!」
「儂もじゃ。美味そうじゃの」
「俺、海の魚って初めて食うぜ」
夕飯は食卓から溢れんばかりの魚料理で埋め尽くされていた。
残念ながら刺身は見当たらないが、揚げ物や焼き物からは食欲を刺激する芳ばしい香りが漂い、ひとりでに鼻腔がいっぱいに広がる。
魚の焼ける匂いは何故だろうか、いつも恐ろしいほどに幸福な気分にさせてくれるものだ。
「こんな高級品……。嬉しいけど、本当に良かったの?」
「おうよ!いっぱい持って来たからガンガン食ってくれ!」
心配そうな顔で尋ねるフランツに、タイメンはドンと胸を叩いて答えた。
聞く所によると、ナバルを立つ際に男爵が土産として大量の食材を持たせくれたのだとか。
『息子をよろしく頼む』という気遣いだろう。
流石は貴族、如才ない。
「うおぉっ!これ、めっちゃ美味ぇ!」
「脂の乗りはやはり川魚とは比べもんにならんの。葡萄酒ともよく合うわい」
マウリとバルトは青魚の味醂干しのような物を絶賛した。
黒須もボレロ家の昼食で食したが、甘辛い味付けが魚の濃い旨みと相乗し、特に焦げかけた部位が絶品なのだ。
「…………っ!!」
フランツは無言のまま好物のシチューを掻っ込んでいる。
鱒のような淡い紅色の切身と野菜を牛の乳で煮込んだ料理だ。
その眼には薄らと光るものが見え、感想は聞くまでもない。
「美味しいですっ!全然生臭くありませんね!」
「だろー?その魚オレが捕まえたんだぜ」
「タイメンさんが!?凄いですね……!どうやって捕ったんですか?」
話し合いの席ではずっと黙り込んでいたパメラも無事に餌付けされたようだ。
黒須は仲間たちの様子を満足げに眺め、魚肉の腸詰めに手を伸ばす。
───旨い。
ほどよく火に炙られたパキッとした食感。香料の使い方が豊富で荒っぽく、以前マイカの宿で食った豚鬼の腸詰めと比べると薄味ではあるものの、その分あっさりとしていていくらでも食べられそうだ。
思わず玄米飯が恋しくなる。
「そういえば、タイメンさんってお貴族様なのに何で冒険者になったんですか?」
「オレんちは海の治安維持も大事な仕事でよー、魔物狩りを手伝わされてる時に思ったんだ。どうせ毎日魔物と戦うなら、冒険者になりゃー小遣い稼ぎになるんじゃね?ってな」
「よく親父殿が許してくれたもんじゃの」
自慢げに語るタイメンに対し、バルトは得心がいかないような顔つきになる。
「バッカ!そんなん内緒で登録したに決まってんだろ!」
「ギルドの受付はどうやって誤魔化したんだよ?代官の息子ならツラは割れてんだろ?」
「幼馴染が職員やってっから余裕だったぜ!親父にバレた時にゃー2人揃って死ぬほど説教食らったけどな……」
「それからはずっとソロで活動してたの?」
「パーティー探したこともあったんだけどよー……。やっぱ、誰も貴族なんかと組んじゃくれなかったわ。だからよ、オレにとっちゃ荒野の守人が初めての冒険者仲間なんだ!受け入れてくれてホントにありがとなー!!」
タイメンは隣に座るフランツの背中をバシバシと叩き、ちぎれそうな勢いで尻尾を振る。
「ど、どういたしまして。こっちこそ、これからよろしくね」
痛そうに顔を歪めながら苦笑するフランツに、食卓は言いようもなく暖かい空気に包まれた。




