第十八話 理性
「…さきほど、私のことをお褒めいただきましたが」
「ああ。本心からそう思っているぞ。お前は理想的な妻になるだろう」
「自分では、そうは思えないのです。子供の頃、何も知らず無神経なことを言えば愚かだと叱られ、さりとて学べば賢しい女は嫌われると疎んじられました。容姿についても、働かなければ穀潰しと罵られ、働いて鍛えれば筋肉質な女など、と敬遠されました」
「ううむ。人の好みというのは本当に様々なので、誰からも愛されるなどというのは無理なのだろうな。まあ、子供の頃はそうだったかもしれないが、これからは俺の好みに合わせて欲しいし、俺の好みはお前のような女だ。他のものの好みなど気にせず、お前はそのままで良いのだ」
「カズオ様、カズオ様の方こそ、強く、素敵な殿方です。私のような女でなくとも、良い相手はいくらでもいるのではありませんか」
「お前よりいい女などいないよ。俺は、お前がいいのだ」
再びヨウを抱き寄せる。流れでキスをしようとしたところで、隅で居心地悪そうにしているホツの姿が目に入った。
あちゃあ。
俺も感情的になってたか、すっかり存在を忘れてた。
「ホツ、今日はもう作業部屋に戻って寝ろ。また明朝な」
近所だし一人で大丈夫だろう、と判断し、ホツを帰す。
翌朝は、ヨウに髪を撫でられている感触で目を覚ました。
「…おはよう」
「すみません、起こしてしまいましたか」
「いや、構わない。むしろ心地よい目覚めだ。…すまん、ちょっとトイレへ」
朝から股間が元気なのが恥ずかしくなり、早々に布団を出る。
朝の屹立は、小便を出せば収まってしまう。賢者モードみたいなもんだ。
これも、人によるらしいんだよな。
小便しても収まらないという人もいるし、朝のほうが高ぶるという人もいるらしい。
絶倫な者は朝から晩まで妻の体を求め続けてしまうんだとか。
社会生活に影響を及ぼしそうだが大丈夫なのか。
桶を持って部屋の戸を開けると、いつものようにホツが素振りをしていた。
「おはようございます!先生!」
昨日のことで気まずくなったりもしていなさそうだ。
「おはよう。水汲みは俺がするから、入って汗を拭け」
「はい!失礼します!おはようございます!奥様!」
子供は朝から元気だな。
ヨウの目を離れたところで、今後のホツの扱いについて考える。
可愛いと思ったのは事実だからなあ。
同情とか庇護欲とか、そんな事を言っても、下心がなかったかと言われれば否定できない。いや、口では否定したが、内心後ろめたさがあった。
勿論、頭ではヨウが第一だから浮気をする気はないと考えているのだが、下半身が暴走することがあり得なくはない、かもしれない。
実際理性を失ったことなどないので解らないのだが、浮気をする男の言い訳を聞くと自分にも起こりうるんじゃないかとも思う。
間違いが起きる前に、さっさとホツを嫁に出してしまう、というヨウの方針に従うべきだろう。
厄介払いというかたらい回しにしているようで、ホツは傷つくかもしれないが、修羅場になってしまったら誰にとっても良くない結果にしかならない。
娘を嫁に出す父親の気持ちって、こんな感じなんだろうかなあ。
娘と父親、か。
昔、何かで観たか読んだかした話だけど、父の娘に対する愛情というのは、妻への愛情と全く同質のものなんだとか。
だから一緒に風呂に入りたがるし、嫁に出すのを嫌がると。それを薄々感づくので、娘も年頃になると父親を含む中年男性に対する強い嫌悪感を見せるそうな。
そうは言っても、多くの父親は気持ちを抑えて、娘に手を出したりしないし、他の男に嫁に出したりしている。
人間は理性で欲情を抑えられるのだ。
「おかえりなさい」
「おかえりなさいませ、先生!」
水を汲んで戻ると、ヨウとホツは朝食の支度をしながら出迎えてくれた。
親子というよりは姉妹のようだ。二人の妻を持ったみたいだという妄想は振り払う。
「ああ、ただいま」
「カズオ様、本日は『ふっくらパン』?を焼くのですよね。お好み焼きはどうしましょう?」
「両方焼くのは手間がかかるし、昼はふっくらパンだけで行こう。反応が芳しくなければ夕方はお好み焼きに戻せばよかろう」
「昼食はどうします?」
「うーむ、昼にふっくらパン、夕方にお好み焼きを食べるのは贅沢か。それに昼ふっくらパンだけでは少し足りないんだよなあ」
「では、昼はパン屋で済ませて、ふっくらパンは全部売りましょう」
「いいのか?ふっくらパンが気に入ったようであったが」
「毎日そこまで贅沢をするわけにもいきません。ふっくらパンは何か特別な収入があったときの楽しみにとっておきましょう」
パンケーキがそこまで贅沢品、というのも違和感があるが、まあ自分へのご褒美を設定するのは悪くないか。
自分が勤めている会社の製品が高くて買えないなんてのは現代日本でもあったことだ。
「ホツもそれでいいな?売り物なのだからつまみ食いなどするなよ」
「当然です、盗みを働けば首を切られます!」
「いや、そこまで重く考えることはないが…」
戒めというよりも、からかう程度の軽口だったのだが。
この子もはらぺこキャラという以上に真面目キャラなんだよなあ。
せっかく作業部屋を借りているのだから、手分けして2つの竈で焼くのが効率がいいのだが、卵の数が少ないため、そこまでするほどではなくなってしまっている。
まあ、ふっくらパンは兎が育つまでの繋ぎという位置づけでも構わないのだが、評判は気になるな。
いまいちなら重曹と砂糖は当初の構想どおりに果汁サイダーにして売り出してみてもいい。
「ええと、ここは任せて、俺は作業部屋で竹刀を作ってきていいか?」
ヨウが最初の3枚を焼くのを見守ってから、また手持ち無沙汰になりそうなので先回りして提案する。
「はい。卵は残り5個、合わせて18枚になります。昼前に追加が届きますが、もっと焼きますか?」
「今日は初日だし、今ある卵を使い切るだけで良かろう。卵を落として割ってしまったり、焼くのに失敗して焦がしてしまっても、自分らで食べれば良い。怒らないから誤魔化そうとしないことだ」
「解りました。しかし、失敗して良い思いをしてしまうと悪い癖がつきます。誰かが失敗したらその者は昼食抜き、他の二人で食べるようにしなければ」
「厳しいな。はじめのうちは失敗を正直に申告した褒美と相殺して不問でいいんじゃないか」
「それは少し甘いと思いますが…まあ、それもいいでしょう」
ヨウは自分に厳しいぶん、他人にも厳しくなりがちかもしれないな。
出来る子は出来ない子の気持ちが解らないものだ。
上手くアメとムチを使い分けるのが理想なんだけどなあ。
多少甘くてもいい。甘くて美味しいふっくらパンだから。
「売れ行きを知りたいので、販売には同行する。昼前に戻るが、早くに出来たなら呼びに来てくれ」
「はい、では行ってらっしゃいませ」
「行ってらっしゃいませ!」
うん、気分は妻と娘に送り出されるサラリーマンだ。
一度冒険者組合に寄って、兎小屋の脇に積んである竹材を使うぶんだけ持ち帰る。
ついでに組合の子供と事務員に兎の世話を頼んでおく。
ふくよかな冒険者組合職員女性、ってどんな顔だったっけと見回すが、今は不在のようだ。
言われて逆に気になってしまうというのもまずいな。
作業部屋に竹を運び込む。道具類は既に置いてある。
既に何十本かの竹刀の完成品が束ねられて土間に積んである。
作りかけのもの、別途木で作っている鍔、紐や革などの素材もあって、少し手狭ではあるが、まあ百本くらいならホツが寝る場所に困ることもあるまい。
布団は畳んで隅に寄せられていた、ホツは綺麗に使っているようだ。
ここで布団の残り香をくんかくんかしているところにホツがやってくる、なんてお約束をやるつもりはない。別に匂いフェチとかじゃないからね。
竹を切ったり割ったりの作業は切り屑が落ちるので、表で行う。
これなら作業部屋でやらなくても良かったんじゃね?とも思うが、雨が降ったら土間でやることになるし、紐でくくったり革を巻いたりの仕上げ作業をヨウとホツにやってもらう際にも必要だ。
将来的には子供部屋にしたりするのかねえ。
その前にもう少し稼いでもっと広いところに引っ越したいが。
ふっくらパンとお好み焼きを売って、玩具を売って、竹刀を売って、兎を売って、か。
それなりに暮らし向きは向上している気はするが、作業部屋を借りたので毎月トントンくらいの収支か。
一軒家を借りられるには遠いなあ。
愚痴っていても仕方ないので手を動かす。
鍔の位置に節が来るよう長さを調整して切って、割ってヤスリでささくれを取る。
切って割って削る、切って割って削る…と繰り返しているとホツが呼びに来た。
単純作業は熱中すると時間を忘れるなあ。向いているかもしれん。
帰宅し、売りに出る支度をする。
ヨウは赤いシャツにスカートを履いている。朝家を出た時はいつものブラウスにパンツルックだったが、新商品の販売ということで着替えたのか。
「お、この前買った服だな。うんうん、ヨウはこういう華やかな服も似合っている」
すかさず褒めておいた。
うーむ、初期の無骨なサムライキャラはどこへやら、婚約者の機嫌を伺う軽薄キャラになってないか。
「ふふ、ありがとうございます。カズオ様も新しく買ったお召し物がお似合いですよ」
「ん、これ、そうだっけか。俺は無頓着に着回しているだけだからなあ」
…まあ、ヨウがご機嫌になってくれるなら、軽薄キャラでもいいか。