婚約破棄しようとしたら婚約者が分裂した
「リンデ、君との婚約は破棄させて貰う」
ハイル・マイヤー公爵が自分の婚約者であるリンデ・ミスラルに向かって床の大理石よりも冷たく言い放つ。
そもそもハイルがリンデと婚約したのはつい先日亡くなった大叔父ビッテンフェイトの意向によるものが大きかった。
大叔父は昔、リンデの両親に何か大きな縁があったらしく、死ぬ間際になって自分には子がいないためリンデに全ての遺産を渡したかったらしい。
だが、大叔父とリンデには血縁関係がない。
そこで甥のハイルとリンデが婚約する事で自分の遺産を渡そうとしたのである。
(だが、大叔父も詰めが甘かったな)
大叔父の遺言書の事を思い出し、ハイルはフフッと笑う。
遺言書には『私の遺産は全て甥のハイルとその婚約者に譲り渡す』とだけ書かれていた。
つまり期日までにハイルがリンデとは別の女と婚約していても遺産は手に入るのである。
その事に気づいたハイルの行動は早かった。
リンデとの婚約は破棄し、別の女性と婚約を結ぶことを画策したのである。
「すまないがリンデ、この誓約書にサインしてくれ」
そういうとハイルはリンデに1枚の紙切れを渡す。
婚約破棄の誓約書。既にハイル自身のサインも記入済みだ。
「分かりました」
リンデは一言だけそう言うと紙をハイルから受け取る。
その姿はまるで可憐な一輪挿しのようで、彼女が着ている緑色のドレスもそれを誇張しているかのようであった。
この様にどんな時にも落ち着いた立ち振る舞いをする事からリンデは他のご令嬢達からも評判は良いと聞く。
だが、そんなリンデの慎ましい姿もハイルにはただ地味としか映らなかった。
(ふん、この田舎娘には人は見かけだということが分からんのだろうな)
ハイルは城下街に何人も女を囲っている。
そんな派手な交際者達と比べると、リンデはきらびやかな宝石も着けずドレスの布地も上等な物ではない。
そのためハイルにとってリンデはどこか色褪せて見えていたのである。
庶民派と言えば聞こえは良いが、その慎み深さは外交的には逆に相手にお金がないと思われて不利に働くかもしれない。
着飾る事は力の誇示と考えるハイルにはリンデの質素倹約ぶりが理解出来なかった。
「この机と椅子を使わせていただきますね」
ハイルが思っていることを露知らずか、リンデは一言断りを入れると近くの椅子に座った。
そして誓約書を一読した後ペンを持ちサインを書き込んでいく。
「おいリンデ、他に何か言うことはないのか?」
様子があまりにも淡々としているのでハイルは逆に聞いてしまった。
大叔父の遺産が欲しくないのだろうか?と考えた故であるが、リンデはそれにも答えず誓約書にスラスラと自分のサインを書いていく。
だが、すぐにハイルは想定していない事態に見舞われる事になった。
リンデが誓約書にサインした瞬間、紙がいきなり燃えだしたからである。
「どうして火が?このままでは屋敷が燃えてしまう。早く消火しろ!」
リンデの事よりも屋敷の事を心配してハイルは慌てふためいたが、炎は高く燃え上がったかと思うと一瞬で消え去っていく。
そして炎が消えた後から現れる人影が二つ。
まさかのリンデが二人現れたのである。
「これは?何が起こったのだ??」
ハイルは思わず座っていた椅子から転げ落ちた。
二人のリンデは背格好も長い藍色の髪も着ている緑色のドレスも同じであり、緑を基調に白のラインが入っているそのドレスは2つとも刺繍までまったくの同一である。
「一体どちらが本物のリンデなのだ??」
「あなた、私達はどちらもリンデでございます」
ハイルの問いに二人が同時に答えた。
声色から話し方までそっくりである。
「ええい、どちらかは偽物であろう」
どちらかは偽物に違いない。
何かリンデにしか知らない質問をすれば分かるかもしれないが、そもそもハイルはリンデに興味が無かったため適当な質問すら思い付かなかった。
「ハイル様、何も質問がなければこちらから先によろしいでしょうか?」
ハイルが考え込んでいると逆にリンデ側から質問を受ける事になってしまった。
「構わん。申してみるがいい」
だが、自分が後手に回っていると思われたくないハイルはリンデの質問を許可する。
「婚約破棄の誓約書はこの様に燃えてしまいました。つまり私達とハイル様の婚約はまだ続いているということでよろしいのですよね?」
「まあそう言うことになるな」
奇妙な状況ではあるが、書類自体が燃えて無くなってしまったので婚約破棄の正式な書類として城に提出できない。
であれば婚約破棄は成立していないというリンデの主張は正しい。
「そして私は二人います。つまり二人分の取り分を貰います」
リンデ二人は婚約がまだ続いているのを良いことに、自分達が増えたことによる分の拡大を要求してきた。
ハイルとしてはもちろんそんな要求を受け入れることは出来ない。
「何だと!?そんな事は許さんぞ!」
「ですがビッテンフェイト様の遺言には甥とその妻で分け合いなさいと書いてあります」
「なので遺産は私、私、ハイル様で分け合います」
確かに大叔父の残した遺言では夫妻で平等に分け合うようにと書いてあった。
「それでは俺の取り分が3分の1になるではないか!?」
ハイルは憤慨するが、二人のリンデは澄まし顔のままである。
やはりこいつも大叔父の遺産が目当て、そのためにこんな小細工を使ってくるとはハイルは考えてもみなかった。
どちらが偽物か見分ける事が出来ない以上、リンデの要求を飲むしか無いのだろうか?
だが、左腕に嵌めていた陶器のブレスレットを見た時にハイルはある策を思い付いた。
「何を俺は考え込んでいたんだ。婚約破棄が無効になったからと言ってまた婚約破棄すれば良いだけだ。お前達との婚約を破棄する!」
ハイルは再び婚約破棄を宣言すると、屋敷の下僕達に命じて倉庫からあるものを持ってこさせる。
そのあるものとは2枚の粘土板。
この屋敷の倉庫に眠っていた骨董品である。
土で出来ているため、これならば先程の様に燃える心配はない。
「すまないが、この誓約書にもう一度サインを貰えるかなリンデ?」
「分かりました」
先ほどと似たような問答が繰り返され、二人のリンデは粘土板の前の椅子に座るとサインを書き始めた。
その記入が終わると同時に粘土板がひび割れ、光と砂埃が部屋を覆い尽くしていく。
「な、なんだ!?」
ハイルは唖然とした。
またも不可思議な現象に見舞われたからである。
そして光と砂埃が収まると、リンデが3人に増えていた。
「ど、どういうことだ。何でまた増えているんだ!?そして、まさか全員……」
「私達3人は皆リンデにございます」
また増えたリンデ達が同時に喋る。
しかも今度は3人に増えており、ハイルは最悪の事態を想定したが結果はその通りだった。
またしてもリンデが分裂してしまったのである。
「そして貴方、私達は3人となりましたので」
「その分の取り分を受け取りたいと思います」
「つまり私達は3人分の取り分を頂きます。なのでハイル様の取り分は4分の1になります」
ハイルから見て左側のリンデ達が順に答えていく。
遺産を独占するつもりがハイルの取り分は4分の1にまで減らされてしまった。
「一体どうすれば良いのだ……」
大叔父の遺産は莫大な物とは聞いているが、流石にここまで減らされては愛人を囲うための屋敷を建てる建設費用を全額賄うことは難しくなるかもしれない。
だが婚約破棄すればまだ遺産を独占することが出来る。
しかし、失敗してまたリンデが増えたら……。
「ハイル様、悩んでおいでのようですね。私が誓約書にサインしたらこの様に増えたのですから、ハイル様も誓約書にサインして増えればよいのでは?」
頭を抱えてハイルが考え込んでいた所、リンデ側からの思わぬ提案がきた。
確かにハイル自身が増えればその人数分の遺産を要求することが出来る。
「そうか!俺が増えればよいのだな!」
ハイルはリンデから意気揚々と誓約書を受け取るとペンを手に取った。
これで2人に、いやリンデの3人よりも人数が増えれば増えるほど俺の取り分も多くなる。
そんな事を考えているとサインを書き終えた。
すると誓約書が燃えて炎が消えるとハイルが二人に……。
ならなかった。紙も燃えておらず一人のままである。
「何故だ?何故俺は増えん!?」
そう言ってリンデの方を振り返るとハイルは自分の目を疑った。
リンデが更に5人に増えていたのである。
「も、もう駄目だ。俺の取り分はこれで6分の1に……」
その言葉を最後にハイルは足元をふらつかせると、体勢を崩して倒れ込む。
このままではあわや硬い大理石の床に直撃!という所でハイルから見て一番左に居たリンデが彼の傍らに駆け寄るとその身が倒れ込むのを防いだ。
「ハイル様大丈夫ですか?早く、この人を自室に運んで介抱してあげて」
ハイルを助けたリンデは周りの侍従たちに直ぐに彼を部屋に運ぶように指示を出した。
それでようやく事態を察したのか、侍従達はハイルの周りを囲むと彼を部屋の外へと運び出す。
後の部屋には5人のリンデが残った。
―――
「よくやったわ私達、見事な分裂だったわね」
ハイルが運び出されたあと、ハイルを助けたリンデが他の4人のリンデを見て呟いた。
このリンデこそ最初から居たリンデである。
「いいえ、ごめんなさい元の私、最後の合図で本体に戻るはずが分裂しちゃったわ」
4人のリンデは申し訳無さそうな顔を浮かべて謝る。
本来であればあの誓約書に『ハイル・マイヤーは2度と婚約破棄を行わない』と書かせているため、ハイルにサインさせた時点でリンデの婚約破棄阻止計画は完成していた。
だが分身のスライム達は間違えて分裂してしまったのである。
「それに関しては大丈夫よ他の私達。むしろあの位しないとあの人には分からなかっただろうから、それじゃ元に戻りましょう」
本体のリンデが言うと5人はたちまち液状化して5匹のスライムとなった。
そして皆で合体するとまた一人のリンデに戻る。
ハイルは知らなかったのだが、彼女は何にでも変身できるスライムだったのだ。
リンデがいつも着飾ったりしないのも、スライムなので余計な装飾はしたくないという理由である。
「でもやっぱり、婚約破棄を止めさせるためとは言えちょっとやりすぎたかもね……さて、私もあの人の容態を見に行ってあげないと」
リンデがそう言って部屋を出ると、部屋には誰も居なくなった。
これに懲りたハイルは二度とリンデに婚約破棄を持ちかける事は無かったと言う。