#4 壮哉/チューリップ/赤
18歳で初めて東京の街に来た時、人の流れがあんまりはやくて恐ろしかったのをよく覚えている。
考える間もない。立ち止まることは許されない。何をそんなに怒っているんだろう。何をそんなに焦っているのだろう。
「ここ、空いてる?」
食堂で一番好きなメニューは鶏の天ぷらだった。唐揚げじゃなくて天ぷらだから、ポン酢とからしをつけて食べたらおいしいんだ。
それを教えてくれたのは壮哉だった。
梅雨が始まる音がするときにはもう、私たちは恋を始めていた。
初々しくてわくわくして、これから先に楽しいことしかないみたいに、そんな風に思えた。
壮哉はよく、思い立ったみたいに私を連れ出した。線香花火をしたり、屋台のラーメンを食べたり。冬にはたくさん鍋をした。自転車にもたくさん乗った。
一番好きだったのに、一番喧嘩もした。一分一秒が私自身だった時間だった。
「千春…」
なんでも話せて全部の時間が素だったと思っていたのは私だけで、壮哉は卒業と同時にどこか遠い海外に行ってしまった。
私よりも、見たこともないどこかの国の子供に出会うことに胸を膨らませて。
私のいない未来に、初々しくわくわくして。
「まだこの街にいたんだね」
変わらない笑顔だけれど、あの時とは違って、壮哉の目は私を見ているように見えた。
あなたがいなくなってから、ひどく落ち込んで就職もして、悩んで会社を辞めて、このお店を持って。
その間にたくさんの人と出会ったし、恋もした。あなたと過ごした時間の何倍も、この8年は激動、みたいだったのに。
まだこの街にいたんだね。
まるで私が止まっていたみたいに。
途切れた時間がまた続いて始まるみたいに、そんな風に言うんだ。
本当に腹が立って、心の底からむすっとした顔をして、キッとした目で見返した。
彼は面白そうに笑っていた。でも本当に悔しいけれど、私は瞬間で彼の薬指に何も光っていないか確認した。そうしてほっとした。本当に悔しい。
結局私がこの街にいるのは、8年間何も変わっていないからなのかもしれない。
壮哉は相変わらず思い立ったみたいに私を連れ出した。お店のシャッターを下ろすときにふっと嬉しそうに近づいてくる。
電話すればいいのに、あの頃と同じように突然連れ出しに来る。
「このレトルト美味しそうじゃない?5種類あったから全部買っちゃったし、一人で食べられないから一緒に食べよ」
相変わらず気まぐれだし、身勝手だ。
そして本当に腹が立つけれど学生の頃に住んでいたアパートにちょうど良く空きがあったとかなんとかで、何のデリカシーもなく、そこに住み始めた。
そしてうじうじとずっと引っ越していない私の家に、何のデリカシーもなく、ずかずかと上がり込んで、覚えているとおりに冷蔵庫を開けたりした。
別れたことのほうが夢だったんじゃないか…?
壮哉が舞い戻ってきて半年が過ぎてしまった。
電波障害で止まっていた動画がくるくると丸い円を回していたのに突然再生を始めて、何事もなかったように進んでいくみたいに、彼との毎日は始まって進んでいった。
「一時停止だったの?」
「千春うまいこと言うね」
「感心してる場合じゃない」
やきもきした。〝適齢期〟だから、こんなふわふわした交際が嫌だなんて背中がぞわぞわすることを言うつもりはない。
ただ、一時停止してふっと8年もそのままにしてしまう彼だから、いつまた二重線のボタンを押して、どこからに行ってしまうかわからなかった。
そうしたら私はもう、このストーリーに集中することはできない。怖くてそんなこと、できっこない。
ただ何にも言わないで白菜を突いていた。あの頃みたいに自分だけ生暖かい感情を見せてあげるつもりはなかった。
「じゃあさ、一時停止だったとして、また再生したら、やっぱり俺はすごくこのストーリーが好きな場合、最後まで見てもいいの?」
どこか、彼の心の全部を手に入れることはできなかったような気がしていた。
どこか、壮哉の目は私じゃないものを見ていたような気がしていた。
もちろん他の女性ではない、あの頃だって私だけを愛してくれていたけれど、私は彼自身に勝つことができなかったんだ。
「千春、これ花束にしてくれない?」
指さした花は赤いチューリップだった。壮哉の目は、今はまっすぐに私を見ていた。
壮哉は私の手を引っ張って連れ出した。自転車だったあのころとは違って車だし、着られていたスーツはすっかりなじんでいて、時間の経過から目をそらすことはできなかったけれど、同じように手を引っ張って連れ出した。
「…」
「覚えてる?ここの空」
壮哉がくれたチューリップの花束は、お店の中の写真コーナーにこっそりと飾った。
大好きな空の写真の下に。
初めて壮哉のことを大好きだと思った日の空の下に。
自分でも照れてしまうぐらい、真っ正直に、彼が好きだと思える日々がまた再生され始めた。
8年の間、私はこの街にそのままとどまって、彼と過ごした毎日にときたま思いを馳せたりしたけれど、壮哉は一度も私を思い出さなかったらしい。壮哉らしい。
壮哉とのストーリーは、怖がる私をよそに、その後決して一時停止することもなく、終わってしまうこともなく、穏やかに続いていった。
娘が生まれて手狭になったから、やっと重い腰を上げて、あの頃過ごしたままの部屋を引き払った。
フローリングをぴかぴかに磨き上げて、小さな柔らかい手を引き、カーテンを外したがらんどうの部屋に容赦なく注ぎ込む西日を見たとき、壮哉は私の肩をぽんっと叩いた。
何度も巻き戻さなくても、流しぱなしにしたままぼんやりと過ごしても、ちっとももったいなくないみたいに。壮哉は私の肩を叩いて笑った。