#1 伊藤くん/フリージア/白
「あのぉ、女性が喜んでくれそうな花束、お願いしたいんですけど」
すくすくと育ちすぎてしまった木みたいに、背の高い男の子だった。
きっと中学二年の夏休みに関節が痛くなるぐらい背が伸びたみたいに。花屋なんて来たことがないみたいに。そわそわと落ち着かないみたいに。
デニムのトートバッグをぎゅっと持って。照れくさそうにくしゃっとかわいらしい顔を笑顔にして。
伊藤くんは近くのアパートに住む大学三年生だった。
卒業するバイトの先輩に送る花束を、代表して買いに行くことになって、そうしてこの店に流れ着いたらしい。
「スイトピーと、あとカスミソウなんてどうですか?感謝とか門出とか、そんな意味があるお花だから」
「…すごく綺麗ですね」
ふわっと彼が近寄った時に、いい香りがした。
香水なんかじゃ作り出せない、たぶん若い香り。きゅうっと心臓が痛くなった。この子ぐらいの年齢の時、私は何をしていたっけ?
花束を作る間、ハーブティーを出すのがわたしの決めごとだった。ラベンダーの香りにレモングラスで少し爽やかにした、ほんの少しだけ、この子にピッタリのイメージで。
ほんの少しだけ、昔の淡い恋愛なんてものに思いを馳せるわがままをこっそり隠して。
「これ千春さんが撮ったんですか?」
店内に世界中のいろんな場所で撮った花の写真を飾っていた。仕入れるのは難しいものもあるから、写真だけ。好きな花たちを飾っていた。
「でもこれだけ花じゃなくて空なんですね」
ふっと笑った彼の顔が、若い青さの中にある、なんだか小さな嫉妬めいたものに見えた。
この子はとても意欲的に生きているんだ。
自分の知らないものや、自分が手に入れられないものがあるときに、素直にどうして?と思って意欲的に生きていることが、青くていじらしかった。
眩しい。あんまり眩しくて目も開けていられないほどに。
「ここ、すごく落ち着くんで、また来てもいいですか?」
「いいけど花しかないよ?」
「千春さんがいるじゃん。あ、そうだバイトとか募集してないんですか?」
「バイト雇えるほど花屋は儲からないよ~」
「じゃあ、たまに来て手伝います。」
きらっきらの笑顔でぐぐっと近づいてきた。春のふんわりした午後が伊藤くんの肩に浮かんでいた。
桜の花びらがうっかり窓から入ってきてしまったみたいに、彼は私の膝の上に滑り込み、許可も取らずに大きく伸びをして、猫のように居座った。
「ほーれ、お気に入りのパンだぞ」
「やった、餌付けだ」
「伊藤くんって変わってるよね?」
「なんで?」
「花屋のおばさんと付き合う大学生ってどう考えても変わってない?」
「そんな絶望的な描写してくる千春さんがもっと変わってるよ」
バタークリームがたっぷり入ったお気に入りのパンをむしゃむしゃと頬張って、伊藤くんは最初に会った日みたいに笑った。
「俺さあ、これから就活してさ、いったん就職してお金貯めながら経営のこととか勉強して、そんで千春さんのところに帰ってきて千春さんと一緒にやるんだ、花屋。」
口の端っこについたクリームを袖でゴシゴシと拭きながら、大きな笑顔で笑った。
「小学生の夢みたいでしょ?」
夏の間に伊藤くんはふわふわだった髪をすっきりと短くして、ぐぐっと伸びをしたまま、ぷいっといなくなったと思ったら、金木犀の匂いがする頃、スーツに身を包んで大人になって帰ってきた。
少しよそよそしくなった家出猫は、まっすぐな目で私を見ながら微笑みもしないで言った。
「俺さあ、これからいったん就職してお金貯めながら経営のこととか勉強して、そんで千春さんのところに帰ってきて千春さんと一緒にやるんだ、花屋。」
ふんわりといい匂いのした伊藤くんは、もう若い香りではなくって、大人になっていくみたいな香りがした。いじらしいほど愛おしかった。
「来週引っ越すよ」
「そう、身体に気を付けて」
「寂しいって言わないの?」
ぐっと腕を掴むその手はしっかりと筋肉質で、子供から大人になる時間をここで過ごしたことが、きっといつかこの子の栄養になればいいと心から願った。
別れ際に彼がくれた花束は白のフリージアだった。
「伊藤くんらしいね」
彼は答えないでふわっと笑った。
春の風が、きらきらと彼の肩の上で揺れているのを、いつまでもいつまでも眺めていた。