雨の音を聞く
ぼんやりと雨の降る暗闇をバルコニーから眺める。
ルシファーは、ピンクの可憐な少女とホールを出て行ってから戻ってくる気配はない。
きっと、あのアメジスト色のドレスはルシファーが選んだ物なのだろうと思うとため息がこぼれる。
アンジュに合わせて、淡い紫色をしているが、確かにあれはルシファーの瞳の色。
ホールはきっと自分の噂話で持ちきりだろうと思い、後ろを振り返る勇気は無い。
こんな状況で、自分をダンスに誘ってくる勇気のある者もいない。
本当に何をしに来たんだろうと思う。
(アンジュ…とても綺麗だった)
透き通るような白い肌に、唇はほんのりピンク色で、淡い紫色のドレスがとても似合っていた。
自分は、ルシファーに抱き抱えられたことすらない…
ホールでは皆楽しそうに談笑している。
ダンスもはじまっている。
今年は、ルシファーとは踊れそうにないなとサタンは思う。
ルシファーどころか、誰とも踊らず、話す事もなく帰ることになりそうだ。
「お姫様」
背後から声がする。
聞いたことのある優しい声に思わず急いで振り向く。
「セイント?」
一週間ぶりだろうか…セイントのダークブルーの髪がシャンデリアの明かりに照らされていつもよりキラキラして見える。
優しい金色の瞳は昼間見るのとは違って、妖艶な雰囲気を放っている。
「最近特訓もできてなかったし。顔見たくてさ」
とセイントは笑う。
どうやって来たのだろうとサタンは心配になる。
白の区域は閉門しているはずで、下級魔族のセイントがこんな時間に白の区域ではなく、王宮にいるのはありえない事なのだ。
しかし、いつもの様子と明らかに違う。
身に付けているものも、服装もどこから見ても上級魔族そのものだ。
「こうでもしないと、ここに来れないからな」
サタンの髪の毛にそっと触れる。
「どうして…」
ルシファーが退場していってから、気にしない様にしていたが、サタンの心はだいぶ不安定になっていた。
目の前にいるセイントの笑顔に、驚きと安堵感で涙が一粒こぼれ落ちる。
驚きよりは、安堵感のほうが強い。
しかし、その涙はセイントの指ですくいとられる。
「お姫様、私と踊っていただけませんか?」
セイントは手を差し出す。
「喜んで」
サタンはセイントの手を取る。
そのままセイントはサタンをホールへと連れ戻す。
ルシファーが選んだドレスは、まるでセイントの為に仕立てられたかのようだ。
「こんなふうに踊ったのは初めて」
いつもなら、ルシファーと踊った以降は、夜会が終わるまでひたすら、無理矢理笑顔を貼りつけて社交辞令の話を聞き続け、ルシファーと他の女性とのダンスを見ている。
「サタン…誕生日おめでとう…」
甘く優しい声が耳元で名前を呼ぶ。
いつも会っている時との違いに、サタンはドキドキしてしまう。
優しく微笑むセイントは、真っ直ぐにサタンを見つめる。
そういえば、今日は自分の誕生日だったことに気がつく。
夜会の準備ですっかり忘れてしまっていた。
そういえば、ルシファーも誕生日なのよね…と考えていると、セイントと目が合う。
セイントの誕生日っていつなのかしら?今度聞かなくちゃと思いながら、恥ずかしさで目をそらしてしまう。
ホールがざわつき始めるが、セイントは気にせず踊り続ける。
「ダンスできるんだな」
「当たり前でしょ。それよりも、セイントが踊れるなんて…それに…その服装…どこかの王子様みたい」
「夜会に参加するってこの前言ってたし…しばらくはダンスのレッスンだから来れないって。この時期の夜会なんて、王宮で開かれる雨音の夜会ぐらいしかないからさ」
サタンを胸に抱き抱えるとクルッとターンをする。
周りで見ている女性達は、次は自分の番だと待ち構えている。
しかし、セイントは見向きもしない。
サタンと踊る時間を大事に大事にしているように、サタンの顔を見て微笑み続ける。
曲が終わるとセイントはサタンの手を取り、手の甲にキスをする。
セイントの見た事ない仕草や、言葉にサタンの思考回路は完全に停止してしまったようで、サタンは何か言いたそうにセイントを見るが、言葉にならない。
「あなたのお名前は?」
甘ったるい声がする。
アンジュが新しいドレスに着替え戻ってきた。
セイントを見て、白い頬が、ほんのり赤く染まっている。
「あなたに名乗るほどの者ではございません」
セイントはさりげなく、サタンを自分の後ろへと隠すように導く。
「私と一曲踊っていただきたいのですけれど」
アンジュは尚も会話を続ける。
先程のサタンに向ける優しい笑顔から、社交辞令の笑顔に切り替えたらしセイントは、口元こそ笑っているが、目が笑っていない。
サタンならば見抜ける笑顔も、アンジュに見抜けるわけもなく…
「すみません。女性に恥をかかせるつもりはないのですが、私は生憎、1人の方としか踊るつもりはないので」
セイントははっきりと拒否を示す。
「後ろのその方は、時期魔王の許婚ですのよ。ルシファー様がいらっしゃるのに、他の男性にも色目を使っていらっしゃったなんて驚きですわ。それに、わたくしに意地悪するんですよ。先程も、わざとドレスをぐちゃにぐちゃにされたんです」
涙目でセイントを見る。
こんな可愛らしい女の子に、涙目で助けてなんて言われたら、全力で守ってあげたいと思う男性はたくさんいるだろうなとサタンは思う。
セイントはサタンを前に来させないように、左手でサタンの手を後ろで掴んだままだ。
その手に少しだけ力が入る。
顔は笑顔のまま…
「あなたと踊りたい人はこのホールにきっとたくさんいますよ」
明らかに不快だという事が伝わってくる。
掴んだ手からは魔力が少しずつ溢れてきている。
セイントは温厚だ。
だから、この場で魔力を使ったりはしないだろうが、セイントの魔力を抑える為ににサタンは光の魔力を注ぎ込む。
会場を見渡すとルシファーの従者のエルが扉の前に待機している。
エルがここにいるという事は、ルシファーがそろそろホールへ戻ってくるのか…あるいはもうすでにこの中にいるのか…
そう思いサタンは、ルシファーの魔力の匂いを辿る。
セイントの魔力と自分の魔力、それにアンジュの魔力でうまく辿れない。
エルの魔力を少しだけ感じる。
きっと先に戻ったアンジュを守れてとでも言われたのかもしれない。
そうでもなければ、しっかりと訓練しているエルから魔力が感じられる事などある訳がない。
そんな風に思いを巡られせていると、扉の向こうからルシファーの魔力の匂いが感じられる。
「おい。何かあったのか?!」
エルがルシファーに知らせたのだろう。
ルシファーの声が近づいてくる。
「たまたまバルコニーにいた彼女に、無理矢理ダンスの相手をお願いしただけですので。今日はもう戻らねばなりません。美しいお嬢様のお相手はまた次の機会に」
にっこりと微笑むとアンジュの手を取り一礼する。
そして、手の甲にキス。
アンジュの顔が真っ赤になる。
甘い溜息が会場中から聞こえる。
セイントはこのホールにいる女性全てを魅了してしまっている。
セイントの声は甘く優しい。
サタンは一瞬で怒りの魔力を鎮めたセイントを見て安心する。
少しだけ、アンジュの手の甲にキスをしたセイントを見て、胸がチクリとするが、きっと自分を守る為だと察する。
「それでは、皆様またお会いしましょう。次回は必ず踊ってくださいね」
セイントはアンジュの耳元で囁く。
アンジュはその場にへたりと座り込んでしまった。
セイントは、バルコニーへと向かっていく。
一瞬振り向きサタンを見る。
優しい金色の目は、また明日と告げている。
暗闇へ姿が消えたと思った瞬間に、バタンと扉が開く。
「何事だ?!」
ルシファーが登場し、サタンの方向へと歩いてくる。
ルシファーと目が合い、深い紫色に吸い込まれそうになる。
アンジュの手を取り床から立ち上がらせていただろうか…記憶が曖昧で、気がつくとサタンはルシファーの腕の中で踊っていた。
誘われたんだろうか…覚えていない。
自分がダンスを了承したのかもわからない。
きっと、色々な事があって疲れたんだわと思う。
セイントの魔力を抑える為に少しずつ魔力を放出した事で明らかに消耗した。
今、アンジュと戦闘になったら間違いなく負けただろうと思う。
「サタン、このダンスで夜会は終了だ」
ルシファーの肩越しに、アンジュと目が合う。
憎い者を見る鋭い目。
きっと、誰も気がついていないだろう。
表面上は穏やかさを漂わせている。
サタンにだけ向けられる負の感情。
アンジュは簡単に今のサタンの事なら、暗殺してしまえたかもしれない。
殺意がハッキリとわかるぐらいの嫌な魔力の匂いがする。
今日はルシファーに救われたなと、形だけでもいつも通り、サタンとのダンスで締めくくっているルシファーに心の中で感謝する。
それに、セイントの機転で、サタンとセイントが初対面で、無理矢理ダンスをお願いされたという事が全員に認識された。
「少し…疲れたわ…」
無意識に口から溢れる…
紫色の瞳が心配そうに見つめた気がしたが…そう思った瞬間、サタンの視界が徐々にぼやけてくる。
「おい…おい…」
遠くで自分を呼ぶ声がする…
サタンは、優しい金色の目を思い出していた。
明日、セイントには会いに行けそうもないなどこかでうっすら思ったが、とうとう意識を手放す事になる。
雨の音だけが、サタンの耳に残った…
優しく自分包む優しい雨の音…
意識を失ったサタンは…