002 トランス
(注意!)今回、変身の描写に流血と苦痛を伴う表現があります。苦手な方はご注意下さい。
002 トランス
その日、世界は二色に塗り分けられていた。
目に染みるような青空の下、どこまでも草原が続いていた。
その草原の一角に、忘れ去られたように一本の木が立っている。
「ふう」
その木の木陰で僕はバックパックを下ろす。バックパックの中から水の入ったボトルを出し、木陰に腰を下ろして数口飲みようやく一息付く。
休憩の後、木陰から立ち上げると、僕はトランス…獣化の準備を始める。
まず、ボトルをバックパックに戻し、代わりにタオルと布袋を引っ張り出すと、手早く服を脱ぎ始める。下着まで脱いで全裸になると、脱いだ服を袋に押し込み、タオルを腰に巻き付ける。
タオルを巻いておくのは念の為だ。もっとも、この草原に何度か来て人影を見かけた事は一度も無いが。
準備が済むと周りに人気の無い事を確かめ、木の幹に両手を当てて前かがみの姿勢になり、目を閉じて意識を集中する。
それから、およそ五分後…
「うう、あ…」
前触れもなく、生皮を剥がれるような痛みが全身を襲う。
僕のむき出しの両肩には、タトゥが彫られていた。そのタトゥの表面を、うっすらとい産毛が覆う。
トランスが始まった。
トランスとは、人間から獣人形態への変身および変身した状態の事を言う。逆に、獣人から人間形態への変身および人間の状態をリバース(逆変身)と言う。
パキパキと指先の爪が割れ、血の糸を引きながら剥がれ落ちる。同時にその下から血塗れの鉤爪が姿を現す。指は先ほどより若干太くなり、手の平と指の腹には既に肉球が形成されつつあった。
間を置かず、骨の髄を電撃に似た衝撃が貫く。あばら骨がベキベキと音を立てそれとわかるほど大きく変形を始める。それを合図に、全身の骨が軋み、音を立て、一斉に変形を始める。
「う、うああああ!」
骨が砕けるような激痛に思わず声が漏れる。涙をこぼしつつ、それでも僕は痛みに耐えるしかなかった。
腰に巻いていたタオルがずり落ち、その下から獣毛に覆われた下半身と尾骨が姿をあらわす。尾骨はまだ半ば程の長さで、まだ成長を続けていた。この時、両腕・両足の変形はほぼ終了していた。
手で顔に触れると、湿った鼻の感触が手に伝わる。トランスは最終段階に入っていた。
メリメリという音が頭に響き、顔がせり出し始める。
「ああ、ああああああ!!」
激痛にさらにめまいが加わり、絶えられずに僕はよろめき、そのまま仰向けに倒れる。
歪んだ視界の片隅に、人影が映る。
「人か?見られた!?」
驚いて顔を上げると、果たしてその視線の先に少女の顔があった。長く伸びた艶やかな黒髪に整った美しい顔立ち。
「大丈夫?」
と、少女の唇が動いた。
「き、君は…」
僕はそこから先を言う事ができなかった、既に気を失っていたからだ。
それから僕が意識を取り戻したのは数分、いや十数秒もかからなかった。
「い、今のは?」
僕はあわてて起きあがると、辺りを見回す。
あれほど激しかった痛みは嘘のように治まり、今は驚くほど体が軽い。
「あれは、夢?」
念の為鼻をひく付かせるが、風下に逃げたのか人間らしき匂いは一切嗅ぎ取れ無かった。
「まあ、いいか」
僕は探すのをあきらめると、バックパックから鏡を取り出して容姿の確認をする。
今の僕は、金色の髪に豹に似た顔をしており、緑色の瞳が時おり宝石のように輝く。骨格は、人間の時の名残を残しながら一回り近く太く、全身を斑紋のある美しい獣が覆う。筋肉は一見すると人間の時より少なく見えるが程良く引き締まり、あばらが浮き出たその姿は飢えた野獣を思わせ、かえって精悍さを与えている。
容姿の確認を済ませると、今度はドリンク剤とバナナを引っ張り出して食事を始める。
トランスは体力の消耗が激しい、そのためトランス直後に食事を摂るのが僕の習慣となっていた。
「今日は、獲物が捕れるといいな」
バナナを頬張りながらひとりごちる、その時風向きが変わった。
草原を吹き渡る風が草原の草を揺らし、そして僕の髪を舞い上がらせる。
「どうやら、今日は運が良さそうだ」
僕は乱れた髪を手で整えると荷物をバックパックに戻し、さらにバックパックにロープを結びつけ、木の枝の手が届かない位置にぶら下げる。
既に、僕の鼻は鹿の匂いを捕らえていた。
「大物だといいな」
足音を忍ばせつつ、僕は草原へと躍り出る。
日は、既に南中を過ぎていた。