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白の綾  作者: ぺの
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桜井

 歪な予鈴が鳴る。今となってはもうどんな音だったかも思い出せないが、壊れかけらしいその鐘の音が、八代は好きだった。

 学生時代、八代は自動販売機の隣にあるベンチでそれを聞いていることが多かった。何をしても集中できない三限目には、極力講義を入れないことにしていた。向かいのベンチでスケッチブックを開いていた女がふと笑った。そうやってこの予鈴の音を笑う学生は珍しくなかった。彼女がこちらに気付く。てっきり照れ笑いでもして、一人で笑っていたことの言い訳をするかと思ったが、彼女はかえって笑顔をひっこめた。そうして、大げさに肩をすくめた。

彼女はよく見かける顔だった。中庭のベンチは日影が深く、あまり人気がない。八代はそのベンチが気に入っていたから、彼女とも顔見知りだった。課題なのか趣味なのか、彼女はそこでいつもスケッチブックを開いていた。表紙に書いてある名前から、桜井という名字の持ち主だということは分かっていた。美人とか美形とか呼ぶにふさわしい顔立ちだった。冴えた美しい顔だった。

 きっかけは忘れたが、何かの折に会話して仲良くなった。もともと顔見知りの期間が長かったせいか、友人になるのに時間がかからなかった覚えがある。桜井はいつも絵を描いていた。八代と話すときにも、手を休めたついでに会話している感じで、だからといって適当な感じもしないのが八代には不思議な気がした。

「何描いてるんだ」

 それがいつもの挨拶だった。

「八代くんのクロッキー」

 きっぱりと帰ってくる言葉の調子が心地よかった。

「特徴がなくて描きやすいらしいな」

「そう? 私には難しい」

 桜井は八代とスケッチブックを見比べて首をひねる。八代はその横顔を見ながらふとこぼした。

「桜井さんは笑わないな」

「うん?」

 桜井の手が止まった。こちらを振り返る。

「冷たいとか、素っ気ないわけじゃないけど、あんまり笑わない気がする」

 桜井は瞬いた。驚いた顔は珍しかった。

「うそ。そんなことない」

「じゃあ、笑え」

「急に言われても困る」

 桜井はスケッチブックで顔を隠そうとする。慌てる桜井は物珍しいと同時に、この顔に浮かぶ笑みはどれほどのものだろうという興味もあった。スケッチブックを奪い取り、八代は言葉を重ねる。

「早く、笑えよ」

 茶化してのぞき込む。桜井は戸惑った顔で、口の端にほんの少しの苦笑をにじませた。

「なんで? やだよ」

 今度は八代が瞬く。苦笑が映える女を初めて見た。頭の中で八代の知る顔が次々と現れたが、どれもその苦笑は泥臭く、あか抜けないものばかりだった。

「やっぱり美人だな」

 スケッチブックを返すと、桜井は八代の顔を見た。

「それはどうも」

 桜井はまたスケッチブックを開き、鉛筆を走らせる。その横顔にかすかに浮かんだ笑みに、八代は深い感銘を受けた。おそらく、誰に見せるでもない笑みだった。美人だと言われ、うれしく思った表情だ。誰に見せるつもりもなく、彼女が彼女のために笑った顔。誰かへ向けた愛想や媚のない、純粋にうれしさを乗せた笑顔だった。こんな清らかな顔があるのかと思った。それはさっきの苦笑以上に彼女の顔立ちを彩った。彼女はきっと、そこに誰もいなくても同じように笑っただろう。顔を伏せ、ひそかに喜びを胸に刻みながら。その場面を想像すると、水面が吹き散らされるような錯覚を感じた。八代はその滴を浴びた気のする頬に触った。

 笑わない桜井の本質を見た気がした。人のために笑わない。人の望む顔をしない。他人の思惑が混じらない。こんなに素朴で、純粋無垢で、無防備なものを八代は知らなかった。それ以来、八代は思ったときに思ったまま、桜井の美点を口にした。

 美しいものは好きだった。それは桜井という女が好きだとか、恋心を抱くといったものとは全く別の次元のものだ。八代は自分に足りないものを桜井の中に見たり、桜井の何かを求めてはいなかった。桜井の持つ素質や性格や整った顔は、八代に全く影響しない。美しいものはただそこにあるだけだ。八代は桜井の笑顔を美しいと感じ、見るたびに感銘を受けはするものの、それを自分のものにしようとは思わなかった。それは誰のものでもないのだ。だからこそ胸に落とされたように美しいのであって、求めるべきものではない。ただその顔を見るためだけに、八代はよく桜井と行動を共にしていた。桜井はさっぱりした性格の持ち主で、一緒に行動する分には気が楽な相手だった。


人の金で焼き肉が食べたい。

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