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白の綾  作者: ぺの
20/20

「白の綾」

 ぼやけた視界が像を結んでいく。何かの音がしている。耳鳴りに似ているが、そうでない気もした。何度か瞬きをしているうちに、風呂場にいることが思い出せる。頬に当たっているのが、風呂場の床であることが分かる。目線をさまよわせると、もう一人の八代と目が合った。壁際にもたれてなんとなく八代を見ている。降り注いでくるものが、シャワーの湯であることが分かる。出しっぱなしにしていたのだ。耳鳴りだと思った音も、タイルにぶつかるシャワーの音だと理解できてくる。体を起こすと、強い倦怠感とともに後悔と虚しさが染み出してきた。全身濡れている。服がまとわりついてくるその感触が、あの日に似ている。

 桜井の母親に会ったあの日、家に帰り着いた八代は、全身を濡らしたまま絵を描き始めた。今思えば、そこから憑りつかれたように絵を描き続けたのは代償行為だったような気がする。桜井はもういない、せめて正直に愛することができた色だけは自分の中に取り入れる。失ったものの代わりに。

桜井はもういない。その色ですら、今になっても手に入れることはできない。誰よりも正直に桜井自身を求めたはずの高木にさえできなかった。子供に面影を残すほどに桜井の色を真似たのに。今もあの色は桜井だけのものだ。桜井はもういない。

 やるせなさを感じながら浴室を出る。服を着替える余裕はまだあった。何も考えられなかった。タオルで頭を拭きながら、ふらつく足元に気付いて床に座り込む。これほど体調が悪いのは久しぶりな気がした。頭痛があり、吐き気もある。そしておそらく、熱も上がってきている。

 ぼんやりと頭を上げると、描きかけのキャンバスが目に入った。白を足し始めた画面。こんな絵は不毛だ。八代がずっと求めていたのは、こんなものではない。

「……桜井」

 我知らず、その名を呼んでいる。何年ぶりに口にしたのか分からない。あえてその名を呼ぶことを避けてきた。あの時、桜井は八代にとってのただの美とは別な意味も持ち合わせていた。

「桜井」

 もう一度呼ぶ。息が詰まるほどの何かがこみあげてきた。八代は衝動的にパレットを掴み、放置していた大量の白の絵の具をキャンバスに塗り付けた。強く、叩きつけるように白を塗り付ける。せりあがってくるのは油の匂いと、吐き気と、それだけではない。止まらない。忘れられない。消えない。すべてを消すように、押し込んで忘れるように、キャンバスの隅から隅まで荒い筆を叩きつけて白で塗り続けた。息が荒い。息の隙間から、うめくような声が漏れた。消えればいい。記憶も失望も、はじめからそんなものはなかったのだ。求めなければよかった。ありもしないものを求めるから、これほどそぐわない。涙があふれる。何もかも、初めからなかったはずのものだ。それを、一から作り上げていただけだ。だから消す。消えてしまえばいい。なかったことにしてしまえばいい。

繰り返しそう思う反面、喉からは救いを求めるように声が上がる。

「――桜井」

 悲鳴にも似た、懇願の声がしている。

 肩で息をしながら膝で後ろに下がる。勢いで一面を白く塗りつぶしたキャンバス。色を足すための白絵の具は、ペインティングナイフで盛り上げてきた元の絵を完全に塗りつぶすことはできていない。ところどころ、下の色が透けたりのぞいたりしている。綾を撒いたような白のキャンバスは、恐慌に似た愛しさがあった。その綾を見て、こんなことでよかったのかと思った。驚くほどあっさりと、今までの気持ちが冷めていくのが分かった。

 こんな気持ちが失望でよいのだろうかと八代はどこか遠くで思った。こんなに痛みを感じない気持ちが、それでも失望なのだ。

涙の残滓をぬぐって八代は後ろを振り返る。キャンバスの前にいた八代が振り返る。その視線の先には八代がいる。狂ったようにキャンバスを塗りつぶしていた八代を今も見ている。キャンバスから遠いほうの八代が立ち上がった。覚束ない足取りで八代に近づく。急に目の前がちかちかした。意識を失う前に見た、綺麗な色によく似ている。光を散らした視界へ手を伸ばす。その喉仏に指先で触れた。中指の爪の先が、その喉仏を弱くひっかけた。そのかすかな爪の感触が、記憶の中の歪で愛しい予鈴の音と重なった。瞼を落とすと、頭蓋の中を反響する。湿った木漏れ日が見える気がする。あの風を今も覚えている。

目を開き、長い瞬きをやめても目の前の絵はそこにあった。

残ったものを見て、八代はまたひとり静かに泣いた。


完結しました!

読んでいただいてありがとうございました。

こんな時に何ですが今日はお茶漬けが食べたいですね。

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