歪な予鈴を愛していた
シャワーの音が引きずり出したあの日の記憶を、八代は思い出すべきではなかった。思い出した後でさえ、往生際悪くそう思った。染み込んでくるようにして、強い虚しさが全身に襲いかかってきた。虚ろな、あまりに強い虚しさは、それ自体が輪郭のないものであるがゆえに苛立ちにさえ似るほどの棘があった。波にのまれていく感覚があった。おとなしく座っていることさえ叶わないほどの。八代は扉を開け放って浴室に入ると、冷水で冷え切った肩を掴んだ。いきなり入ってきた八代を彼が振り返る。疲れた顔をしている。あるいは、なにもかも諦めた顔にも見えた。髪が伸びたかのような感覚が顎を滴り落ちる。それが水であることは分かる。雨ではない。シャワーだ。あの雨はもう降っていない。頬が歪んで笑みがのぼった。不快な感じのする笑みだと思った。
目の前の額を掴む。こめかみに爪が食い込む痛みを感じると同時に、その頭を壁に打ち付ける。鈍い衝撃が来た。後頭部に痺れるような痛みが広がる。
「何するんだ」
額を掴んだまま、低い声が浴室に響く。口が動いたのは服を着ているほうだった。後頭部を打ちつけられたほうは、じっと降り注ぐシャワーを見ている。シャワーの水が次第に服を重くしていく。ぬるくなってきた重みが気持ち悪かった。
「なあ」
八代は続ける。服を着たまま、自分が打ち付けた後頭部の痛みに苛立っている。打ち付けられたほうも苛立っている。苛立ちをぶつけられていることに苛立っている。八代の眼はいつまでもシャワーの水滴を見ている。まるで目に入っていないかのように、ただ眺めている。その目に映り込む反射が不意に、鋭さを帯びてこちらに向けられた。
「何が?」
言いながら、浴槽のふちを掴んで立ち上がる。突き飛ばす勢いで八代の襟を掴んで壁際に押し付けた。衝撃で上顎と下顎の歯が勢いよくかち合う。遅れて、シャツ越しの背中にじんわりとタイルの冷たさが染み込んできた。
「おい、何が? 言えよ。お前だよ、分かってんだろ」
八代には答えられない。何を聞いているのかもよく分かっていない。襟を掴んだ拳の中がじっとりと湿っている。
「痛かったな。痛かったよ。そうだよな」
表情が消えていく。取り繕う余裕がない。シャワーの音がしている。立ち込める湯気で呼吸も苦しい。
「苦しいだろ。笑えよ、早く」
視界に広がる顔はどちらも表情がない。ただその眼の色だけが、目つきが、ひどく虚ろでひどく強い。滴るほどの怒りがある。自己嫌悪とも違う。そしてますます膨れ上がるのは、八代が二人いるからだ。共鳴して高まる。耳をふさいでも鼓膜が破れるような気がしてくる。
八代は昨晩から水を抜いていない浴槽に目をやった。こぼれたシャワーの飛沫が細かな波紋を作っている。絶えず響いていく同心円状の揺らぎを見ていると、強いめまいがしてくる。いくつもの波紋が消える前に増えていく。その永遠に続く波紋が、角度を変えて二つ重なっている。めまいに飲み込まれそうになる。雨の記憶に飲み込まれそうになっている。桜井の絵を捨てた日のことがよみがえりそうになる。目がかすむほど苦しかった。あのころ、桜井の色を見るほどに絵が描けなくなった。ことあるごとにねだった桜井の絵から音が聞こえるのだ。はじめて話しかけた日の声が。うるさかった。
「やめろ……」
小さな波紋があの日の記憶を誘う。頭を抱えた。シャワーの音が耳孔を満たしていた。乱反射する水音が、絶えず桜井の絵を、その色を脳裏に呼び起こしていた。
「やめてくれ」
悲鳴に近い声とともに目を閉じる。息が弾む。八代は誰のものかも分からないまま手元にある頭を掴むと浴槽に押し込んだ。顔に冷えた残り水が張り付く。鼻の脇を小さな気泡がくすぐっていく。冷たさを感じる。冷たい風が顔に吹き付けたようで息ができない。手の下で髪がよじれる感覚がある。風がやまない。水から顔を上げることができない。呼吸ができない苦しさを感じる。後頭部に鈍痛がある。さっきぶつけた場所を押さえつけられている。痛くて顔を上げることができない。ますます沈んでしまいそうになる。沈んでしまえばいいと思っている。思うのに、体が勝手にもがいた。息をしようと必死に全身で抵抗した。浴槽のふちを掴んだ腕を突き放そうとする。そのせいで、頭を押さえつける手にも力がこもった。全身の力で頭を浴槽に押し込んでいる。そういうことになる。必死になればなるほど、どの感覚がどちらのものなのか分からなくなる。苦しい。水音がいくつも重なる。暴れるから、なおさら重く激しく記憶を揺さぶる。どうしても風の音に似ている。日の当たらない中庭に吹いた突風と、風に煽られたスケッチブックの音に似ている。桜井が謝りながら走ってくる足音と、拾ったスケッチブックを返す八代の声に似ている。また沈んでいく。沈むごとに水音が重くなっていく。重くなる水音が否定できないほど似てしまう。割れて響かない金属音のような、平たい鐘のような。今に至るまで、思い出せなかった予鈴の音に。
パズルがはまるように記憶がつながった。背筋を悪寒が這い上がった。同時に、むせかえるような閉塞感が脳天から全身に落ちてきた。全身から力が抜けそうになる。その最後の一瞬に、息を求める体が反射的に水から頭を引き抜いた。
背中をぶつける感覚と、浴槽のふちにすがって崩れ落ちる感覚が混ざっている。せき込むと、呼吸ができないほどの酸素が肺を圧迫した。閉塞感が目の前をふさいでいく。瞼の裏に、一瞬だけ、ハレーションのような閃光が映った。網膜を焼いたその光が、狂おしいほど綺麗な色をしていた。
抹茶オレが好きなんですけど、市販のものは甘いので
どうしたもんかなと考えあぐねてついに見つけました。
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