桜井の絵
降ってくる冷水が髪を重くしていく。頭が重いのをその理由でごまかしきれないか問うてみる。答えが出なかった。タイルに水がぶつかる音は、傘の内で聞く雨音によく似ている。彼が来た日のことを思い出してみる。
雨音、アスファルトの光、金木犀の匂い、濡れたスニーカーと絡みつく靴下。心に兆す、放心に近い激しい情。
――情?
彼はあの日、情など抱いて歩いていただろうか。家路について、八代に出会うための道のりでそのような激しさを抱えていただろうか。八代は胸に湧きあがる疑念に身を任せる。これは本当に自身の記憶だったかを疑ってみる。次に、その記憶が彼の来訪時のものであったかを疑う。
雨音、アスファルトの光、金木犀の匂い、濡れたスニーカーと絡みつく靴下の重み。心に兆す、激しい悲しみの情。
――悲しみ。
八代は深く嘆息した。辿るべきでない記憶を手繰り寄せている自覚がある。一つの記憶に少しずつ引っかかり、次々と引きずり出されていく。八代が悲しみに心を揺さぶられるのは絵のことだけだ。桜井の色が描けないとき、ただその一時にのみ、八代の情は動かねばならない。
――桜井のことなのか。
自分に問いかけながら、八代はすでにその答えを用意している。
金木犀の匂いがしていた。桜井の葬式はもうとっくに済んでいた。桜井の両親とは顔を合わせた。桜井があれほど純粋で洗練されているのに対して、両親の方は良くも悪くもごく普通の夫婦だった。前触れのない愛娘の死に対して深く嘆き悲しみながら、葬儀に参列した人にいちいち感謝できるような、ごく普通の両親だ。
葬式からしばらく経って、そのごく普通の母親のほうから八代に連絡が入った。会いに行くと、そこで小さな一枚の絵をもらった。小さなスケッチブックの一枚に描かれた水彩で、八代の絵が描いてある。いつかの絵であることに気付いて、少し動悸がする。久しぶりに見た桜井の色に強く心を揺すられた。桜井との思い出のあれこれを思い出すよりも先に、その絵に心が動いた。
「八代さんって、あなたのことでしょ?」
桜井の母親はそう言って涙ぐんだ。
「遺品整理をしてたら出てきたの。手紙みたいに宛名の入った封筒に入れて、机の引き出しに入っていたのを見つけて……今更かもしれないけど、受け取ってもらえないかしら」
丁寧な返事をして断った覚えがある。せっかく娘さんが遺した絵なら、お母様がお持ちになるのがよろしいかと思います。私には受け取る資格がありません。戸惑った桜井の母親をその場に残して帰った。
帰り道には雨が降っていた。歩きながら、その絵を思い返した。ずっと桜井の絵を見続けてきたから、今ならその色が八代への思いをつづったものであることは十分に分かった。封筒に記された日付、つまり絵を封筒に入れた日付がそれほど前でないこと、明らかに高木と付き合った後であることにも気づいていた。訳の分からない悲しみが雨のように染み入ってくるのを感じていた。
「――嘘だ……」
口をついて低いつぶやきが漏れる。
「求めたことなんか一度もない」
悲しみに遅れて、水たまりを踏んだスニーカーに水が染みこんできた。
「ずっとそうだった。そういう対象じゃない」
頬に流れていくものを感じた。雨と思うことはできなかった。確かな熱があった。雨に濡れた頬に、激しく焼き付くような滴りを感じながら、八代は水たまりを踏み続けた。
ファミレス作業、大好きですが眠いです。
眠いからわざわざファミレスまで出向くんですけど。




