混乱
目が覚めた時、八代はとっさに自分の部屋で倒れたのだ、と思う。それから、公園で倒れた、とも思った。
なじみのない匂いがする。ふさがれた空間の匂いだった。ここは外ではないのだと思い、やっと見覚えのない部屋で寝ていることに思い至った。同時に、自分の部屋にうつぶせで倒れてもいる。確か、家にいるのは彼だったはずだ。ぼんやりとかすんだ視界に、桜井の顔がある。瞬きもせずに見つめ続ける。なんて綺麗なんだろうと思った。そう口に出そうとした。それで笑うのを待とうとした。その顔が動いて、八代は自分の錯覚を知る。
「起きた」
言葉の調子があどけない。瞬きをしてから、やっとあの子供だと認めることができた。視界に高木の顔が増える。なぜか、今になって大人になったなという感慨が湧いてきた。少し老けたようにすら見えた。
「生きてる?」
「たぶんな」
高木の目が少し、探るように動く。
「話に疲れたのかと思ったけど、熱も出てた」
「うん、このところ治らなくて」
ふうん、と高木はもう興味をなくした様子だった。さっさと部屋から出ていこうとする。そういえば制作期間だったなと子供との会話を思い返す。続きに戻るのだろうとは思ったが、八代はそれを呼び止めた。
「高木」
高木が驚いたように振り返る。珍しい顔をしていると思った。彼はこの表情をどう解釈したのだろう。それとも、珍しいと思ったのはこっちの八代だっただろうか。思いながら、八代は言葉を継ぐ。
「さっきの話の続き、しないか」
しない、と高木の返事が言葉尻を掠める。八代は瞬く。
「場所は移す」
高木は目線を外して少し考え込むようにする。
「……いや、」
有無を言わせない調子がこもった。
「一度きりにしよう。もう二度と話さない」
八代は戸惑う。怒らせたような気分になるが、高木に怒った様子はなかった。怒ると皮肉気味に笑う高木の、やけにはっきりした声に、いっそう意味を図りかねた。黙っていると、高木はまた少し目線を外す。
「あんただって分かってるんだろ。今更何を話したところで、あいつは死んだ。オレにはもう話すことはない。あんたにもないはずだ」
ため息交じりの声だった。高木は取り乱さないようにしている。落ち着いた声音が戻ってきている。たしなめられるような言葉に、八代は戸惑う。もちろん、その通りだ。八代には今更桜井のことで話せることはない。何もない。そうだろうか? 反問が浮かんでくる。高木の懺悔、そして八代にも罪があったはずだ。桜井の最期をもって懺悔すべきだった何かが。その何かを忘れていた年月、それを告白すべきなのではなかっただろうか。そう、八代は忘れていた。忘れるほど、桜井の死は八代に影響を及ぼさなかった。その程度のことに、告白を迫られるような罪が生じただろうか。
本当にどこかに罪などあっただろうかとふと思う。どこか冷めたところで、ずいぶんと混乱している自覚があった。彼と八代の二人で作った自覚だった。
「そうかもしれない。――休ませてくれて助かった」
「帰るの」
高木がかすかに眉をひそめる。
「結構高熱だったけど。帰り道で倒れられても困る」
八代はかすかに笑って立ち上がる。
「大丈夫。制作中だったんだろ。邪魔して悪かった」
通り過ぎざまに高木の肩を叩く。相変わらず少し高めの位置にある。感覚の隅で何かが動きそうになった。彼の五感を意識する。白い天井にソファの脚。部屋に横たわったままの彼の五感は、今の八代が置かれている状況に比べて情報量が少ない。ともすれば存在を忘れそうになるほど、身になじんでいることに気付いた。
高木の家を出て一度公園に出る。子供が自慢したやり方でしか、帰り道が分からなかった。公園内のベンチに男女が座っている。高木と話をしていたベンチだ。仲がよさそうに見えた。素直なうらやましさがにじみ出してきた。桜井が描いていた色を求めて一時の気も抜けない自分と比べて、これほどまでに柔らかな空気が存在するのかとかすかな感銘を受ける。ベンチで笑う女の顔に、なぜか桜井が重なった。桜井とは違う。桜井はあんな笑い方はしない。女は自分の感じる幸福よりも誇張して笑っていた。男に媚びるための笑いだ。ふと思う。桜井は本当に内発的に笑っていただろうか。八代が一言褒めるだけで動くあの表情は、彼女だけで完結していたと言えるのだろうか。
それがふと頭に浮かんだとき、唐突に、絵を描くのをやめようかと思った。
今までその考えを浮かべたことのなかった自分に気付く。別に絵を描かなくても生きていくことはできる。八代は高木とは違い、妻も子供もない。自分の身一つが飢えなければいい。絵が描けない期間にも生活はできた。絵をやめて働けば、もっと楽に生活できるだろうとさえ思う。やめてしまおうかと思った。何年もの時間をかけて、すべてが疲弊していた。何をこだわっていたのかと思う。休みたい自分がいる。すべてを捨てたいと思う自分がいる。それに気づいた今、絵をやめようと決めた。
八代はそっと男女から目をそらし、家に向かって歩き出す。最後の絵を描こうと思っていた。一向に手に入らない桜井の色から、この生活から、そして自分の絵から解放されるためには、ただこのまま筆を止めても意味がないことは分かっている。自分自身が最も望む駄作を描き、自分の絵にきちんと失望しようと思った。失望を避け続けてきた今までを否定しなければ、筆を止めることはできないのだろう。あるいは、そう思いたいだけかもしれなかった。今の八代は、何かに縋ろうとしていた。その自覚は八代にも、床に転がっている彼にも、おそらくあった。何に縋っているのかは分からない。分かったところで、何かが変わるわけでもないのだろう。
玄関口から帰ってきた八代と彼の目とが合い、同時にそらされる。八代は床に座り込んだ彼を押しのけるようにしてソファに倒れこんだ。腹の底からむかむかと気持ちが湧いてくる。絵を描きたいと思っている。筆を取りたいと思っている。性欲に似て抑えがたく、気を静めようとしてもかえって荒立ってくる意欲にしかし、八代は答えなかった。浮足立つようなこの意欲自体は、画布に向かうきっかけとして適しているのかもしれないが、向かったところで中身のあるものは生み出せないだろう。無理に鎮めず流されていれば、堪えきれなくなる前に制作は始まっている。気づくと没頭して抜け出すのが難しい。その状態まで待たなければならない。今のこの意欲は、まだ抑圧も変質もない原始的なエネルギーでしかなかった。
ソファに転がったまま、ぼんやり夢想する。何に託ければこの失望を求める気持ちを表すことができるだろう。何を描けば、描きあがった絵が自分を受け止めることができるのかが分からなかった。どのモチーフに託しても、失望に足る何かを形にできる気がしなかった。
絵を描く意欲があるのは久しぶりのことだった。早く失望したいのだと思った。昨日書いていた水彩も、やはり何にも応えず、さっさと終わらせてしまった。何にも応えない絵は、捨てたほうがまだ存在価値があるように思えた。絵としてではなく、ゴミとしての質量があった。絵として存在してほしい一心で、未練がましく捨てずにいる。八代のなけなしの思いで絵に変わってくれたりはしない。価値観が変わらない限り、魔法のように桜井の色が現れてくれたりはしない。
各所の知り合いから野菜をいただく機会が多いんですが、使い切れないので鍋にしちゃおうと思います。
大根はおでんかな。ぶり大根とか豚の角煮に入れてもいいですよね。
冬、万歳。




