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白の綾  作者: ぺの
14/20

酒と線香

 高木はしばらく黙って煙草をふかしていた。穏やかな昼下がりで、遠くから聞こえてくるトラックの音が揺れては消える。

「変わんないな」

 たいして意味もないだろうに、高木はそう言ってあくびをした。

「そっちも」

 八代は声が上擦らないように返したが、高木はそれ以上この話を続ける気はないようだった。そうやって黙ったまま座っていると、学生時代から何も変わっていないような気がする。

「光が世話かけたな」

 光とは、あの子供のことを言っているのだろうとすぐに分かった。八代は高木に目を向ける。

「それは構わないけど。もう少し大事にしてやれよ」

 高木は返事をせず、黙って煙草の煙を吐く。八代の言葉に興味がないようにも、逆に深く吟味しているようにも見えた。ゆるい風が吹いて木立を鳴らす。それで、この会話はもう終わってしまったような気がした。新たな話題を探そうとしたが、八代には何も話せることがなかった。それだけ長い間会っていなかったことを意識すると同時に、それだけの間に桜井の色に近づくことだけを考えていた自分自身に思い至った。自分から話せることは何もない、と八代は思う。自責でも後悔でもなく、桜井のことを高木に話すのはためらわれた。なにしろ桜井が死んだことすら忘れていたのだ。高木の前で何を話せるというのだろう。そこまで考えて、これはやはり自責だろうかと思う。

「光はあいつに似てる」

 ぽつりと高木がこぼし、八代は物思いから覚めた。高木はこちらを向かず煙草を吸っている。もうほとんど終りに近いほど短かった。まだ話が続いていたらしいことに八代は密かな安堵を覚える。

「言っとくけど、間違いなくあいつの子じゃない。あいつが死んでから五年も経ってから生まれてる。家内の腹からな」

 高木の言うあいつが桜井を指していることに気付き、八代は短く息を吸った。彼が白い天井を見る視界が不意に揺れた。それから、高木の口から家内という言葉が出る違和感を思った。高木には似合わない、と八代は胸の内でつぶやく。似合わないが、桜井と結婚していたら、やはり家内と呼んでいたのだろうとも思った。

「光を見ていると、ダメなんだ。あいつと目が合った気がして、……」

 高木はふと言葉を切って、出過ぎたものをしまうように煙草を吸った。八代は何も言わなかった。

「そっちは目に入らないようにして手は上げてない。恨まれても困るし」

 浮かんだ微笑に、ほんの少しの愛しさがにじんだように見えた。あんな扱いをしていても、自分の子供がかわいいのだろうかと、少し不思議な心地になる。

「あんまり辛抱強いから帰すのに骨が折れた。嫁さん見てて委縮してるんじゃないか」

「あれが委縮なんかするかよ。そんなガキじゃない。あいつとは違う」

煙を吐き出す口元にもう笑みはない。それでやっと、さっきの微笑が桜井を思ってのものだと気づいた。死人は恨まない、と思いながら、八代は口を開く。

「今、制作してるんだって?」

 八代は笑いかける。探り探り会話を進めていくのには強い注意が必要で、早く糸口を掴んでしまいたいと思っていた。高木は答えない。高木相手としては話題を間違えたのかもしれなかった。

「お前が世間話できるようになってて驚いた」

 八代が茶化すと、高木はちらりとこちらに視線を投げる。音がするほど視線をぶつけてしまい、かすかに動揺する。視界が揺れたのは白い天井を見ている彼の方で、だとしたらこれは自室のベッドにいる彼の動揺かもしれないと思った。

「世間話のつもりじゃないんだろ」

 ふと顔がこわばる感覚があった。これはどちらの動揺で、どちらの顔がこわばったのだろうか。

「自覚ある? あいつの話になるたびに話題をずらそうとしてるように見えるけど」

 首が動かないのに、横に振る感覚もあった。違う、とこぼれた息はどこかで声になっただろうか。

「あいつの話をするために来たんだと思った。それ以外にあんたが話しに来ることなんてないよな」

 八代は声を出せずにいる。呼吸が弾むほど浅い。胸が頼りなく上下した。

「一度でもそっちから話しかけてきたことあった?」

 責められているのだと思った。回りくどい前置きはいいから、早く桜井のことを詫びろと言われている気がした。詫びなければ、と思い浮かぶ半面、高木を責めなければという強迫観念じみたものもあった。だが高木の何を責める? 責めるべき非があっただろうか。理由は見つからない。見つからないが、桜井のためだという感覚があった。このままでは桜井が哀れでならないから、責めなくてはならない。

「――悪かった」

 考えあぐねた末にこぼれたのは、何に対してかも分からない謝罪だった。高木の追及から逃れたかったのかもしれない。案の定、高木は横目で八代を見た。

「何が」

 短い声が八代の頸椎を掴む。表情はうまく読めなかったが、逃がすつもりがないのは分かった。いや、と間を持たせるための相槌が落ちる。首筋に冷たいのか熱いのか分からない汗が浮く。嫌な冷気が頭皮を焦がした。

「多分あんたはオレの言ってる意味が分からないはずだ。分からなくて当然だと思う」

 高木は少しずつ早口になっている。八代の心臓はそれよりも早く脈打っていて、思考が脈拍についてこなくなってくる。何に対して謝ったのか弁明しなければならない。それよりも早く高木を糾弾しなければならない。しかし、何を責めればよいのか。何周目かの思考に混乱の自覚が追いついた。

 高木が煙草の吸殻を押しつぶした。

「オレはあいつの最期を知らない。何で死んだのかも知らない。あいつのオトモダチから心臓麻痺で倒れた話は聞いた。でもオレは知らない。死に顔を見なかったから。なんで見に行かなかったか、あんたに分かる?」

 八代は黙って首を振る。激しい動揺と葛藤でか目眩を感じた。死んだ女には興味がないとかどうでもよかったとか、そういう理由だろうと思っていた。高木なら、そういうこともあるだろうという気がしていた。そうであってほしいと思っていた。高木は息を吐く。

「あんたとデートに行くって言った日から急に連絡がつかなくなった。だからあんたに心変わりしたんだと思った。元からあんたばっか見てたのは知ってたし。諦めるしかないだろうと思っていたら、」

 高木が嘲るような笑みを吐き捨てる。

「死んだとさ。しかも病死、かつ急死だ。どうしろってんだよ」

 高木は新たな煙草に火をつけようとする。指先がいら立ってライターに火が乗らない。火花ばかりが綿毛のように飛んだ。

「誰のせいにもできねえ。しかも自分のせいにもできないときた。どうしたらよかったわけ」

 煙草に火が付く。高木の声はあくまで嘲りを含んで笑っていたが、その口ぶりはどことなく淡々としていた。八代は学生時代を思い出す。八代の絵を、特にその色彩を批判するとき、高木はいつもこんな調子だった。

「あいつに渡せたものなんて何もない。あいつはあんたからもらえないものの足しにオレを置いてただけ。それ以上でも以下でもない。おまけに最後のデートの相手もしないまま、結局オレもあいつから何も受け取ってなかった。笑えるな。何のためにあんたから横取りしたんだか」

 横取りではない、と反射的に思い浮かぶ。八代は桜井自身を求めてはいなかった。あくまでも美の対象として、いうなればあれは鑑賞だった。だから高木がしたことは横取りなどではない。そう思いながら、八代は口を挟まずにいる。

「罪悪感だよ、あんたへの。あいつが死んでさえ、オレはあいつのためを考えていたわけじゃなかった。あんたからぶんどったのだって、今から思えば恋のたぐいじゃなかったかもしれない。ああそうだよ、ぶんどられたあんたがどんな顔すんのか興味あったのは事実で」

 高木の自棄な早口はそこでふと途切れる。かすかに首を向けた高木は、どこか憔悴しきった顔をしていた。制作の疲れが出ているのかもしれなかった。

「なあ、何か言えよ。こんな話されて、言いたいこともないわけ」

 八代は言葉を探す。話の内容が少しも理解できた気がしないのは八代の頭が働いていないせいだろうか。それとも、高木の話自体が要領を得ないものだからだろうか。

「会わない間に、ずいぶん多弁になったんだなと思った」

 話の焦点をずらそうとしている。こんな程度でずらせる内容でないことは分かっていた。

「何年溜めたと思ってる。青年期唯一にして最大の懺悔だよ」

 高木の軽口はほとんど初めて聞いた気がするが、互いに笑えなかった。高木はこの懺悔をするためにわざわざ八代を呼び出したのだろうかと思った。その問いは口には上らなかった。高木の指先から灰が零れ落ちて、思い出したように煙草に口を付ける。ゆっくりと吐いた息が線香の煙に似ていた。

「で? わざわざ来たのは何の要件?」

 問う高木の声には耳慣れた無遠慮さが戻ってきていた。

「光くんだっけ、あの子を届けに」

「嘘つけ。会うのも避けてたくせに」

 核心を突かれて八代は口をつぐむ。桜井が死んだ直後は確かにそうだった。なぜ今の今まで会いに行かなかったかと言われると、そこには今度こそ八代が懺悔すべき問題が関わってくる。八代は自分が口ごもるのを感じた。

「帰り道が分からないだろうと思って」

「なら、門まで入らずに帰ってもよかった。違う?」

 八代は再び黙りそうになる。なぜ今まで桜井のことを忘れていられたのか、八代自身にも分からないのだ。だって、と子供のように言い訳しそうになった時、何かがどこかでちらりとよぎった。また彼が動き出したのかと思ったが、彼の視界には白い天井と高木の顔の二つがあるだけだ。とすると、新たな彼が増えるのか? それとも、今度こそこれは記憶の映像ということになるのか。 雨の音と全身の服が濡れて張り付く感触。前に住んでいたアパートの中だった。枕元に並べた清楚な箱。制作に集中して眠れないときのため、コツコツ買いだめた市販の睡眠導入剤のパッケージ。何も考えていなかった。そこに導入剤がたくさんあることが分かった。何も考えず、机の上にあったウィスキーのボトルでポップコーンのように流し込んだ。アルコールが食道をこする不快な熱と、ごろごろと喉に引っかかる錠剤の感触。そのまま何も考えず潜り込んだ布団の扁平な感触。何の思考もなかったし、感情も動かなかった。ただ、明日目覚めて催すだろう不快感を思った。今日を思い返すのは嫌だと思った。ほとんど無意識に近いほど、漠然と願った。寒い、疲れた、眠い、忘れたい。自分の感覚すべて。

 八代はゆっくりと頭を抱えた。彼も布団から身を起こしている。呆然と宙を眺めているのはともに同じだ。八代は思う。あれは自分の記憶だ。自分が何をしたのか、思い出した。自分はああして桜井を忘れ、今も生きている。なぜ忘れたか。そこに錠剤があったからだ。それを今、思い出した。

「……なに」

 高木が声をかけてくる。返事ができなかった。視界がちかちかしている。ハレーションが起こったように、日影が緑に色づいた。吐き気がこみあげてくる。

「悪い、ちょっと、貧血……」

 ベンチから崩れ落ちようとする八代の腕を高木が掴んだ。

「家で休んでいけよ。それ、歩けんの?」

 高木とこれ以上顔を合わせていられる気がしなかった。世話にはならないつもりで首を横に振ったが、高木が肩を貸したところで、歩けないと返事してしまったことに気付いた。


酒が好きで普段は甘いものが食べたいとはほとんど思わないんですが、秋スイーツの時期は死ぬほど生クリームを食べまくりました。

推しは栗の渋さがしっかり出ている甘さ控えめのクリームでしたがすっかり消えましたね。

諸行無常。

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