インターホン
玄関からチャイムの音が響いていた。ひどい音だと思いながら、八代は起き上がれずにいる。いつもなら彼がふらつきながら応対するのに、ベッドを占領している彼は一向に動く気配を見せない。寝たふりを決め込んでいるのは予想がついた。八代も彼が来る前は、訪問者が諦めるまで耐えていたものだった。
チャイムはしつこかった。激しく鳴らすでもないのにいつまでも鳴りやまなかった。八代は頭を掻きながらソファを降り、玄関に向かう。彼がその後ろ姿を見ている。熱があるのか、玄関に向かう背中ごと視界がかすんでいた。チェーンを外さずドアを開けると、小さな頭がぎょっとドアの隙間を見上げた。昨日の子供だった。いきなり開いたドアに驚いているのだろう。八代の顔を見上げたまま動きを止めている。
「何か用か」
不機嫌な声だと思った。思ってから、そう思ったのは彼のほうかもしれないと考え直す。自分の声で機嫌を図ることは、八代にとっては珍しいことだった。実際、機嫌が悪い自覚もあった。体調も治っていないしベッドは取られるし、寝起きに高木の子供が転がり込んでくる。これほど機嫌を損なわれることはなかった。幸か不幸かまだ頭が覚醒しきっておらず、子供が来た理由にまでは考えが及ばなかった。
子供はじっと八代を見上げたまま、小さな声で、入れて、と言った。答えないでいると、子供はクマのできた目を伏せる。彼はため息をつき、ドアを閉める。音がするようにチェーンを外し、カギは開けたままで部屋の中に戻る。ベッドの上では彼が戸惑ったように半身を起こしている。玄関のほうから、遠慮がちにドアが開く音がした。
「……入っていいの?」
「好きにしろ」
彼が責めるような顔で八代を見た。何を引き入れている、と言いたいのだろう。八代も同じことを考えていた。
子供は律儀に靴をそろえ、カギもチェーンもかけ直して上がってきた。八代がソファの上にある毛布をたたんでいると、子供は部屋の入り口で足を止めた。彼が子供を凝視している。八代は振り返らなかった。子供の顔は十分見えていた。子供は背を向けている八代と、ベッドの上の彼を交互に見て目を見開いた。子供特有の大きな目が印象的だった。
「同じ人が、二人」
ぽつんと落とされた言葉を聞いて、ようやく八代も手を止めた。振り返ると、子供は踵で後退る。
「双子」
ひとこと言ってやると、子供は目に見えて全身から力を抜いた。
「昨日会ったのはどっち?」
八代が彼を指さすのと同時に、彼も八代を指さした。子供はからかうなとでも言いたげな顔をする。
彼と八代も顔を見合わせた。二つの顔は全く同じ表情をしていた。まるで、悪い冗談を責めるような顔つきだった。
一瞬の硬直した空気には気づかず、子供がおずおずと部屋に足を踏み入れる。しばし足元をためらわせ、迷った末にキャンバスの隣に腰を下ろした。膝を抱えて座り込むさまは頼りなかったが、八代を見る目は相変わらず鋭かった。じっと見据えられ、八代は次第に落ち着かなくなる。
「そんなに双子が珍しいか?」
八代が口にする前に、彼が言った。彼も同じ顔をした八代を観察されることに居心地の悪さを感じたのだろう。しかし子供は声を掛けられて我に返ったように彼を見ただけだった。
八代も彼も、子供が訪れた理由については聞かなかった。面倒ごとの気配は感じていたし、純粋に興味もなかった。ただ、昨晩あれほど無秩序に歩き回った彼を尾行し、朝になるまで玄関脇で待ち続けたらしい目の下のクマに免じて中に入れただけのことだ。それ以上のことにならないようにと八代は内心で戒める。
「おにいさん」
やっと子供が声を上げる。それで八代は少し解放された気分になる。
「何だ?」
「なんでおとうさんのこと分かったの」
とっさに答えに迷う。直感としか言いようがなかった。しかもその直感は的外れな桜井の面影によって導かれたものだった。
「さあね」
ぼかして答えると、子供はかすかに眉を曇らせた。八代は子供から目をそらして戸棚を物色しながら、その表情を見た。記憶の中の高木にそっくりな表情だった。子供はほとんど高木に瓜二つだと言えた。昨日、彼の視界を通して見た桜井の面影は幻想だったのではないかと疑いたくなる。そんな中でさえ、八代は子供の表情の中に、桜井を見出そうとしていた。子供はなおも八代を見ている。横になっている彼にも、時折目をやった。コーヒーを淹れていると、久々の香りに目が眩みそうになる。嗅覚も二倍だ。仕方ないと言い聞かせる。
彼が見ている子供を、記憶にある顔と照合しようと試みたが、八代の視界はコーヒーまでしか受け付けなかった。気を抜くと、むせるほど濃い香りに吐き気がした。
「おとうさん、昔も殴ったりした?」
八代の手が止まると同時に、彼が瞬きをする。
「……全く」
子供は相槌も打たなかった。何を考えているのか、八代には推測できなかった。
「殴られるのが嫌でここまで来た?」
口を滑らせたのは彼だった。とっさに振り向きかけて、手元に集中しようとする。コーヒーはときどき堪えがたいほど深い色になることがある。嫌な色とは思わなかった。
「邪魔するならしばらく外に出てろって。すぐに鍵かけられたから、もう帰れないと思った」
子供の声が淡々としているのが妙な気がした。八代がコーヒーを出してやると、苦くて飲めないと突き返してきた。突き返すときの、その苦笑めいた表情は高木に似ていた。高木はコーヒーなんかで困ったりはしなかった。八代は、不意に口の端に笑みが上るのを感じた。
家に帰れないだけなら、八代が相手をしてやる義理はなかった。彼にもその気はない。子供はキャンバスの前を行き来している八代を暇そうに目で追っていたが、不満は言わなかった。昼頃になると彼も起き出してきて、描きかけのキャンバスの前に座り込んでしまう。八代は空いたベッドに横になった。今日は彼にも出かける気はないようだった。
子供は辛抱強くキャンバスの横に座り込み続けた。辛抱しているのかどうか八代には図りかねた。子供は表情も変えずに膝を抱えていた。なかなか帰ると言い出さないので困った。子供と八代、この無形の戦いに先に耐えられなくなったのは八代のほうだった。
「そろそろ帰ったらどうだ」
パーカーを羽織りながら言うと、子供は眉一つ動かさず首を振った。
「帰らないよ」
「帰れ。送ってやるから」
一人では帰らないだろうと予測はついていた。渋る子供を半ば無理矢理に追い立てて外に出る。八代自身が外に出るのは実に久しぶりだったが、少しも感慨深さはなかった。ここ数日、五感を共有する彼が外出していたせいであることは八代にも分かっている。風の匂いも空の色も、さして物珍しいとは思わない。
押し出すように子供の後ろを歩いていくと、次第に諦めを付けた子供の足が早まる。
「ここから家まで帰れるのか?」
八代が茶化すと、子供はじろりと目線をよこす。
「一回通ったから覚えた」
ぶっきらぼうに返す声は短かった。一度通っただけの道を覚えられるものだろうかと八代は訝る。あれほど無秩序に徘徊した道を帰り道につなげるのは難しい。最も、あの高木の息子であればどんな特技を身につけていても不思議はないのかもしれなかった。きっと頭がいいのだろう。少し歩いていくと、公園が見えてきた。昨晩子供と出会った公園だ。子供は公園の入り口の柵までたどり着くとゆっくりあたりを見回す。八代を振り返る顔には表情がない。
「おにいさんちから家が分からなくても、ここまでの道が分かれば帰れる。大人なんだから頭使いなよ」
公園までの道を一度で覚えられないと思ったんだよ。思いながら、八代の頬に苦笑が上る。遠慮のない物言いはどこか懐かしかった。
子供は迷うことなく公園横の道に入った。住宅街の細道で、車通りもあまりなさそうな道幅だった。かすかに心臓の音を意識する。このままでは高木の家についてしまう。どこかの家から電話の呼び鈴が響いていた。食事の匂いとともに遠いざわめきがくぐもって聞こえている。気を取られているうちに、枝道を曲がっていく子供を見失いかけた。家で待っている彼はじっと天井を見たり、目を閉じたりしている。家で待っているときは感覚が二重の状態でよくも出かけられるものだと思っていたが、なるほど、いざ出かけてみると、情報量が多い今のほうがもう一つの感覚に足を取られずに済む。
日々肉が食べたいなとアイス片手に思うのであった。
豆乳アイスうま




