熱
卒業を控えた春休みで、引っ越す準備を始めていたころだった。困惑した覚えがある。八代は高木に遠慮しなければならない立場だったし、ここで受け入れてしまって、また振出しに戻るのは億劫だとの思いもあった。返事をしない八代に焦れてか、桜井が照れたように笑ったのを覚えている。
「晃と喧嘩したんだよ。制作が気にかかるから放っておいてくれって。ヤキモチ焼かせたくて、八代くんとデートに行くって言ったらさ、勝手にどうぞって」
ごまかすような笑顔だった覚えがある。
「いいけど。明日でもいい? 空いてる?」
もちろん、と桜井はまた笑った。よく笑う日だな、と思った覚えがある。その顔が、今日会った子供のものと重なった。
塗り込み始めていた筆が、キャンバスをなめたままハタと止まる。
そうだ、桜井はそのデートの日に死んだのだった。急にその意識が全身を満たした。どうして今まで思い出さなかったのか不思議なくらいだ。目の前で倒れたのを見ているのだ。駅で隣を歩いていた桜井が何の前触れもなく倒れた。そのまま救急車で運ばれたが、処置も空しくそのまま目を覚ますことはなかった。一連のことは本当にあっけなかった。馬鹿みたいにぽつんと立ちすくんだまま一部始終を目の当たりにしたのに、なぜ今まで忘れていたのだろうか。
ぱっと背後を振り返る。億劫そうに身を起こした彼と目が合った。形容しがたい曖昧な顔をしていた。無造作に乱れた髪の下で、疲れた目が陰鬱な光を反射していた。思い出したきっかけは、この男なのではないかという疑念が胸をかすめた。思い当たる節が他になかった。これまでずっと忘れていた。なぜ忘れたかは分からないが、このタイミングで思い出したからには彼が関わっているとみて間違いがなかった。八代の周りで起きた変化にはそれくらいしか心当たりがなかった。あの子供に会ったのだってこの男のせいだ。この男の影響で桜井のことを思い出したのだとすると、八代は彼の扱いを変えなければならない。毒にも薬にもならないから、こんな厄介な二重の五感も甘んじて受け入れていた。しかし、それが八代にとって何らかの影響を及ぼすものであれば、場合によってはどうにかして消す方法も考えなければならない。
愕然としながら、これまで丁寧に色を付けてきたキャンバスに顔を戻す。やはり桜井のものとは全く異なった。狂おしいほどの平穏と渇望が、この絵にはなかった。頭を掻きむしりたい衝動に駆られて、八代は荒い溜息を吐きだすと立ち上がった。ベッドに潜り込もうとしたが、彼がいるのを見て思いとどまる。椅子の背もたれにかけていたブランケットを布団代わりに、ソファに横になった。吐き気がしていた。おそらく、熱もあるのだろう。寝返りの隙に漏れたうめき声はどちらのものだったか。八代は夢うつつの思考で結論付ける。どちらのものでもよいだろう。頭痛もだるさも、おそらく共有しているのだから、と。
ピザとポテチとビールで映画キメたい。




