五感と記憶
八代はだるい体を起こしてキャンバスの前に座った。まだ熱も下がっていなかったし、出歩いて回る彼のせいで視界も音も混雑しすぎていた。
五感を共有できる他人が存在するというのは迷惑な話だと八代は思った。他人の考えることが分かれば楽だろうと思った覚えは人並みにあるが、八代は彼の思考までは分からなかった。ただ、彼が見るものを見て、彼が聞いたことが聞こえるだけだ。フラッシュバックに似ている。目の前で起こったことのように記憶が蘇る、当時感じたものと同じ感情を抱く、しかし、そのとき何を考えていたのかは思い出せない。あるいは何も考えてなどいなかったのかもしれない。彼が伝える五感は、八代にとってはそのフラッシュバックが常に起こっているように感じられた。脳が許容量を超えて吐き気を催すのも、仕方がないことと言えた。
時々こぼれる嗚咽をこらえ、開こうと暴れる咽喉を深呼吸で落ちつけながら、八代は着彩のバランスを考えた。美大時代にはそんな手間はかけなかった。色を置いてから、書き足して調整していたが、今となってはそんな大胆なことはできなくなった。少しでも色を間違えたくなかった。慎重に色を置いていけば、まれに桜井の色に近づけることもあったからだ。
水彩で塗るつもりだった。絵筆に水を含ませ、パレットの絵の具を撫でる。溶けだした色に動悸がした。震える息を深呼吸で宥め、ごく淡い色を染め付ける。水がキャンバスの上で震えている。詰めた息を吐いたら吹き飛んでしまいそうだ。また筆を乗せ、離し、ティッシュで水分を取る。
彼の方はもう帰宅の道に入ったようだった。公園を出てからも、いつまでも歩き回っていた。写真を撮るわけでもなくひたすら歩くのはおそらく動揺をごまかすためだろう。彼はドアノブをひねる。玄関の方からもドアが開く音がした。八代が振り返った顔と、入ってきた彼の顔とが見合わされた。どちらもひどく疲れた顔をしていた。
ふらつきながらベッドに倒れこむ彼を背に、八代は筆を運び続けた。桜井の筆遣いをなるべく鮮明に思い出し、その動きすら真似る。もはやすっかり身になじんで、容易に再現できた。しかし、いくらタッチを真似ても、あの色遣いに至ったことは一度もなかった。いつもの習慣につられて、八代は頭の隅で桜井のことを思い出そうとする。うまく思い浮かんでこなかった。ただ、ふと桜井がデートの誘いをしてきた日のことを思い出した。
串焼き、揚げ出し豆腐、ハムカツ、もつ煮込み……




