漆黒の『暁』
この話に気付いてくださってありがとうございます。短編ですが、良ければお付き合い下さい。
あるところに、『死神』と呼ばれる男がいました。
黒い服、黒い髪、黒い瞳。
夜の闇に溶けるように消えてゆき、その後には、力尽きた人間の身体が横たわっているのです。
彼の名前は『暁』と言いました。
誰もかれもが、漆黒の彼には似つかわしくない名前だと言いました。
彼の姿が、これからまさに闇に溶けようとしている姿だからです。
「ねえお母さん、この、『あかつき』って人、何をしてるひとなの?」
幼いシュカは、母親の手にある、自家製の絵本を覗き込みながら、疑問をぶつけた。
「『死神』、よ」
「『しにがみ』ってなあに? 神様?」
無邪気に首をかしげるシュカの頭を、母親の手が優しく撫でた。
「それはそれは、とても恐ろしいものよ。さあ、シュカ。早く寝ないと『暁』が来て、シュカを連れて行ってしまうわ。もうお休みなさい」
「はあい。おやすみなさいお母さん」
暗くなる部屋の中、シュカはそのお気に入りの絵本を胸に抱いて、薄い布団の上に転がった。
シュカの家はとても貧しかった。
シュカは母親と二人で、貧民層の区画に借りた家に住んでいた。
シュカの持っているオモチャは、大抵母親が古くなって穴の開いた服を縫ってくれた人形や、手作りの絵本だ。
周りにいる同じ年の、裕福層の区画で暮らす子供たちはそれを気味悪がったが、シュカはとても気に入っていた。
母親が、愛情を込めて、シュカのために作ってくれたものだからだ。
寒いのに、服だって碌に買えないのに、母親は自分の服で、シュカのために人形を作ってくれた。枕元に並んだ4体の人形ひとつひとつに挨拶をして、シュカは毛布に潜り込んだ。
『しにがみ』って、何をするひとなんだろう。
そう、思いながら、目を閉じ、夢の世界に旅立って行った。
少しずつ大きくなっていくと、段々とシュカも周りのことがわかって行った。
自分たちは裕福層の区画に入ってはいけないこと。
裕福層の子供たちにたてついてはいけないこと。
お金がないと、何一つ自由にならないこと。
貧民層の区画から、出てはいけないこと。
貧民層の人間は、人間として生きてはいけないこと。
死神が本当にこの世にいること。
シュカは学校で、母親お手製の人形を、裕福層の子供たちによってばらばらにされてしまったことがあった。
腹が立ったシュカは、その裕福層の子供に思わず手を上げてしまった。
大問題になった。
母親は床に頭をこすりつけるようにして、相手の親に謝っていた。
あなたも謝りなさいと言われ、シュカが突っぱねると、その子供の親がいきなりシュカの頬を張った。
すごい力だった。
シュカは壁まで飛び、頭がグワングワンとなった。
母親は泣き崩れ、シュカを抱き締めながら、それでも謝り続けた。
理不尽だった。
お金があれば、それだけで、何でも許されるこの世界の何と理不尽なことか。
怒りのまま、シュカは学校を、母親のもとを飛び出した。
貧民層の区画と裕福層の区画の丁度中間にある学校。
こんな学校になんの意味があるのか。
シュカたち貧民層の出の子供たちは、ほとんど勉強を教えてもらえない。
机も貰えない。
でも、子供たちには平等に学ぶ機会を与えようという新しい領主の方針で、子供たちは全員、学校に通わなければいけない。
もちろんお金もかかる。
母親が、シュカがいるだけで、どれだけ負担が大きくなるのか、まだまだ幼いシュカにはわからなかったけれど、シュカは初めて、母親のもとを去ろう、と決心した。
シュカの歳はまだ10だった。
どこに行けば母親の負担にならないのだろう、とシュカは考えた。
当てもなく貧民層の街の中をさ迷い歩いているうちに、いつの間にか辺りは闇に覆われてきた。
身一つで飛び出してきたシュカは、寒さと空腹に、建物の間の路地の端に座り込んだ。
そして、そこで、ふと、『暁』という死神のことを思い出した。
でもあれは、母親が、いうことをきかない小さい子供を脅かす単なる作り話だということをすでにシュカは知っている。
貧民層の区画の夜は物騒だ。
いつでもどこかで、誰かが喧嘩をし、誰かが命を落としている。
生まれた時からずっと聞こえ続けている誰かの悲鳴に慣れ切っていたシュカは、すでに恐怖心というものは持っていなかった。
今も、すぐ近くの路地裏で、年老いただろう男の悲鳴が聞こえる。
シュカは、座り込んだまま、うごかなかった。
きっと、恐怖心があったとしても動けなかっただろう。
かじかんだ手と、空腹による飢えで。
シュカはじっと、膝を抱えてしゃがみ込んでいた。
悲鳴はすぐそこまで来ている。
「た、助け……っ、命だけは……っ!」
すぐ横の路地から、悲鳴の主が現れた。
シュカは肩をこわばらせて、その男に目を向けた。
男は、腰を抜かしたかのように地面に尻を着きながらも、這いずるように後ずさっていた。
次の瞬間、男は咳込み、その後大量に血を吐いて、その血の中に身体を横たえていった。
シュカには、目の前で起こったことが、信じられなかった。
悲鳴には慣れていたけれども、夜間の外出は絶対にいけない、と母親から言われていた通り、夜の外の景色は見たことがなかったのだ。
目の前を流れるどす黒い液体をただ震えて見つめているシュカの前に、今度こそ目を疑うような光景が飛び込んできた。
絵本で見ていた、黒い服、黒い髪、黒い瞳の男が、その路地から出てきたのだ。
シュカは、思わず上げそうになる悲鳴を、手で口を覆うことで必死で飲み込んだ。
黒髪の男『暁』は、足音も立てずにどす黒い液体の中に横たわる男に近付いていくと、端正な顔を、悲しそうに歪めた。
その顔は、今にも泣きだしそうなほど、悲しげだった。
シュカはその顔を見た瞬間、恐怖を忘れて、『暁』に見入ってしまった。
『暁』は、男に向かっておいでおいでをするように、手首を曲げた。
それは、とても不思議な光景だった。
男の身体が光ったかと思うと、そこから穏やかな顔の男が立ちあがったのだ。
足元には、先程と同じ光景が広がっている。
男は身体から脱皮するかのごとく、透明な姿になって、枷の身体を抜け出した。
とてもとても、先程の恐怖に歪んだ顔の男と同一人物には見えないほどに、男は幸福そうに微笑んでいた。
手を伸ばした『暁』の手に、男が自分の手を伸ばす。
手が繋がった瞬間、男が光となってぱあっと闇に霧散し、『暁』の瞳から、綺麗な宝石のような涙が一つ、零れた。
「……『暁』……?」
思わずシュカが『暁』を呼んだ瞬間、『暁』がシュカの方を向いた。
目が合った。
吸い込まれそうなほど、深い深い闇がそこにあった。
「あなたは、そうやって、死んだ人を送ってあげてるの?」
シュカがそう聞くと、『暁』は深く瞼を閉じて、ゆっくりと開けた。
「世間は、僕が人間を殺すと言っている」
「でも、あなたはこの人を殺してないわ」
シュカがそう否定すると、『暁』はゆっくりと首を振った。
「僕が近付く人間は、みんなすぐに死んでしまう人間ばかりだ」
「それを、送ってあげるのが、あなたの仕事なの?」
『暁』はもう一度ゆっくりと首を振った。
「違う。送ってあげるんじゃない。見届けるのが仕事なんだ」
シュカはふうん、と頷いた。
送ってあげるのと見届けるのの違いは判らなかったけれど、何となく雰囲気で、見届けるという仕事を、『暁』は好きではないんだというのはわかった。
「だから、あなたはそんなに悲しい顔をしているのね」
シュカがそういうと、『暁』が驚いたように目を開いた。
黒い黒い瞳が、少しだけ揺れたような気がした。
「悲しい顔なんてしていない」
「いいえ、しているわ」
『暁』は、考え込むように俯いて、自分の頬に手を当てた。
相変わらず『暁』の足元にはどす黒い水たまりがあり、その中で男が横たわっているけれども、シュカはもう気にならなかった。
とても綺麗な顔を自分の手で撫でる『暁』がとても無邪気に見えて、シュカは目を細めた。
そして、考えた。
『暁』と一緒に行ったら、母親を楽にしてあげることが出来るのではないか。
それに、とシュカは口元を緩めた。
『暁』が笑った顔がみたくなった。
「ねえ」
シュカが声を掛けると、『暁』は自分の顔から手を離し、シュカに視線を向けた。
「私を連れて行って」
シュカがそういうと、またも『暁』は驚いたように目を開いた。
その顔をすると、『暁』はとても人間味を帯びていた。
「ダメ。僕といると君も死んでしまうかもしれない」
「あなたは見届けるだけなんでしょう? じゃあ、死なないわ」
「でも、君のお母さんが待ってる」
「私がいると、お母さんが苦しむの。私はお金がかかるから」
その言葉に、『暁』はまたも哀しそうな顔をした。
何を思ってそんな顔をするのか、シュカにはわからなかった。
「君がいなくなると、お母さんはもっと苦しむよ」
「そんなことない」
「君は、大丈夫。ちゃんと愛されているから。愛されるということは、強い」
『暁』はそういうと、遠くの方を指差した。
シュカが視線をそっちに向けると、その方向から、母親の、シュカを呼ぶ声が聞こえてきた。
必死で自分を探している声だった。
「あなたは?」
「僕は、愛されるべき存在じゃない」
声が近くなってくる。
と同時に、『暁』との別れを意味しているのだと、シュカにはわかった。
「私があなたを愛しちゃ、ダメ?」
必死でそう訊くと、3度目の驚いた顔を、『暁』は見せてくれた。
「愛されたい。けれど、僕はそういう存在じゃない。ほら、迎えが来た。僕じゃなく、お母さんを愛してあげるといいよ」
そういうと、『暁』は、シュカの赤くなった頬に、手を伸ばした。そして踵を返し、路地の闇に消えていった。
慌ててその路地を覗き込んだけれど、既にシュカの目には、『暁』が映ることはなかった。
残されたシュカの頬に、もう朱と痛みは残っていなかった。
確かに触られたはずの頬には、『暁』の手を感じることはできなかった。
さらに月日がたち、シュカも貧しいながらも、少しずつお金を稼げるようになった。
見た目の美しさを買われ、裕福層の区画に召し上げられたのだ。
その頃には、母親は病を患い、寝たきりになっていた。
毎日家に帰ることは叶わなかったけれど、母親の薬代を稼ぐために、シュカは必死で働いた。
しかし、貰えるお金は、すぐに薬代に消えて行く。
屋敷から出される少ない自分の賄いをこっそり懐に入れて、シュカは時間がある限り母親のもとに走った。
『暁』に会ってから、シュカは人を愛することを本当に尊いことだと胸に刻んでいた。
そして、『暁』に対する愛情も、少しずつ少しずつ、育んでいた。
固くなったパンと少しのサラダを懐にしまい、シュカは貧民層の区画の自分の家へ走った。
母親に、早くこれを食べさせたかった。
息を切らし家のドアを開けると、シュカの目に漆黒の闇が飛び込んできた。
「『暁』……?」
はぁ、と息を吐きながら、母親のベッドの横を見る。
そこには、漆黒の闇をまとった、幼いころに会ったそのままの『暁』が悲しそうな顔で立っていた。
そうか、とシュカは一瞬でわかってしまった。
病床の母親は、もう。
胸が熱くなった。
母親がなくなるという悲しみでではなく、その母親を見届けてくれるのが、『暁』だということに。
知らないうちに、涙が頬を伝った。
『暁』が、シュカの頬を撫でた。
零れた滴がその手に触れ、光となって闇に霧散する。
「母を見届けてくれて、ありがとう」
シュカはその手に自分の手を重ね、そう呟いた。
『暁』の手に触れれる、ということが、シュカにはとても嬉しかった。
「愛しているわ、『暁』」
零れる涙をそのままに、シュカがそう零すと、『暁』の顔が歪んだ。
「絶対に見届けたくない、と思ったのは、初めてだ」
なんて、なんて悲しい顔をしているんだろう。
シュカは、自分もされているように、『暁』に手を伸ばした。
シュカの手にも、『暁』の綺麗な宝石のような涙が、触れた。
「僕は、愛されるべき存在じゃない……っ」
『暁』の声が震えているのを聞いたのは、初めてだった。
震える声も、鈴の鳴るような、綺麗な声だ、とシュカはうっとりと聞き入った。
「だって……っ、君を」
「連れて行って。あなたの元へ……」
「見届けるんじゃなく……連れて行けたら、どんなにいいか」
「愛してるわ、『暁』」
シュカは、溢れる想いを、ただ声に乗せた。
『暁』の瞳から零れ落ちる宝石が、シュカの囁く愛が降り積もるほどに、光を増していく。
「愛されたい」
「愛してるわ」
漆黒の闇に、シュカは抱き付いた。
冷たいと思っていたその体は、意に反して、とても暖かかった。
「私があなたに見届けてもらえる日を、心待ちにしていたわ」
漆黒の奥深くに響くように、シュカが想いを乗せて言葉を綴る。
「だって、あなたに逢えるから。ありがとう、私を、見届けに来てくれて」
笑みさえ浮かべながら、シュカが『暁』に愛を送る。
すると、上から、鈴の音のような声が、降り注いできた。
愛している。僕も
君に、愛してはダメ? と訊かれた日から
これ以上幸せなことはないわ、とシュカが目を閉じた。
「あなたの名前は、とてもよく似合っていて素敵ね。あなたに見届けてもらえる人は、長い長い夜が明けるのよ。みんな、だから幸せな顔で逝くんだわ。『暁』。ありがとう、私を見届けに来てくれて」
知っていたの。
私ももう長くないって。
母親の病気は肺の病気だった。
それが私にも感染していた。
そう言ってシュカは綺麗に笑った。
屋敷で咳込み、血を吐いた瞬間、もう、わかっていた。
自分の分の薬は、買う余裕はなかった。
でも、その日から、シュカは幸せを噛み締めて、過ごした。
もうすぐ、『暁』に逢えるから。
そして、『暁』は来てくれた。
私に、愛を囁いてくれた。
「あなたを、笑顔にしてあげられなかったのだけが、心残りよ」
そう言って、シュカは静かに息を止めた。
母親の上に折り重なるように横たわったシュカの体から、まばゆい光が浮かび上がった。
それは、いつかの男の様に、闇に消えることはなく、『暁』の体を包み込むように広がった。
いつまでも、あなたを愛して、そばにいるわ
まるで光はそう言っているようで。
暖かな光に包まれた『暁』は、自分の身体に腕を回し、光が闇に消えるのを留めるかのように、光を抱き締めた。
「そばに、いて欲しい」
そう呟くと、光がさざめいた。
もちろんよ。ずっとあなたのそばに……
光のささやきに、『暁』は、静かに口元を緩めた。
その顔には、とても満ち足りた笑みが浮かんでいた。
ここまで読んでくださってありがとうございました。