第29話 勇者として (4)
北の大地。その最果てから、更に進むと辺りの景色は一変する。
魔素。魔力の源ともされるそれは、空気すらも変質させて人の進行を阻んでいた。
ここは魔族の防衛ライン。その最前線では、血と怒号が渦巻き、そこにいる全ての人々が何かを賭けて戦っていた。
「見えましたっ!! 魔王城ですっ!!」
遠眼鏡を持った兵士が声を上げる。その響きわたる声に、アレキサンダルは前を見据えた。
目測、およそ五キロメートル。禍々しくそびえ立つ魔王城が、確かに視認できた。魔素の充満する濃霧の中、朧気に見えたその城に、アレキサンダルは戦斧を振るう。
「敵は魔王ハーデスッ!! 相手にとって不足はなしぃいいッ!!」
全長五メートルを超える戦斧。それを軽枝のように振り回し、アレキサンダルは雄叫びを上げた。一瞬のうちに彼を包囲していた十数人の魔族の身体が千切れ飛び、アレキサンダルの空けた穴に兵士たちがなだれ込む。
「うおぉおおおッ!! アレキサンダル様に続けぇええええッッ!!」
勇者ランキング83位、アレキサンダルを先頭に屈強な兵士たちは魔王城に突撃した。彼らだけではない。大小無数の軍勢が、魔王城に攻め込もうと進軍する。
「……むうッ!?」
しかし、ここは魔族の最終防衛ライン。嵐のような戦斧の中心に居たアレキサンダルの左腕が、めきめきと音を立てて捻れ飛ぶ。
『ソウ簡単ニ、行カセルト思ッテ?』
黒い長髪。まるで漆黒の固まりのような女性が、ゆらりと魔族の壁からアレキサンダルを覗き見る。
もはやそれは髪というよりは、小さな森。人と人との間を縫って、魔力を帯びた黒髪が、アレキサンダル達の身体を縛り付けていた。
「がぁああああああああッ!!!!」
彼女が指を軽く動かす。それだけでアレキサンダルの後ろの兵士の半数の四肢と首が、見るも無惨に捻れ切れた。
「お前たちッ!? ぬ、おぉおおおおおッ!!」
それを見るや、アレキサンダルの戦斧が唸りを上げる。名乗りを上げる暇はない。片手にも関わらず、先ほどよりも速度を増した斧の先端が魔族の壁をなぎ払った。
「ぐぅッ!?」
しかし、それもそこまで。アレキサンダルの動きが、びきびきと停止する。先ほどの黒髪が兵士たちに向けられたものとは比べものにならない本数で、アレキサンダルの身体を拘束していた。
『残念ネ。不男ハ嫌イナノ』
魔族七十二柱、『女髪』ヴェレニケーネは不敵に微笑む。彼女の自慢の髪が、アレキサンダルの身体を締め付け、捻りきる。
その数瞬前に、ヴェレニケーネの左胸に穴が空いた。
「すまないね。僕も、醜い者は嫌いなんだが」
ゆるゆると、髪束の力が抜けていく。
『……カハッ』
自分を守る部下の壁。その肉の盾を貫通して、自分に届いた丸穴からヴェレニケーネは確認した。
「君は魔族なのに美しい。せめて、美しい姿で送ってあげよう」
青髪の、麗しい剣士を。
『……悪クナイ』
そう呟いて、魔族の女髪は絶命した。
「ペルジェマン様ッ!?」
「無事かアレキサンダル。……あれが魔王城だな」
拘束から逃れたアレキサンダルが、現れたペルジェマンに駆け寄る。左腕を止血しながら、アレキサンダルは頷いた。
「むぅんッ!! 左様ですっ!! しかし、流石にここいらの魔族は手強く……ッッ!?」
ふむと魔王城を優雅に見据えるペルジェマンの前方の魔族を、アレキサンダルがなぎ倒す。そして、鳴り響く地響きにアレキサンダルは目を見開いた。
《ヨグモ、ヴェレを……》
どこから出現したのか、見上げるほどの巨大なオークがペルジェマン達の前に立ちはだかる。その巨体、ゆうに二十数メートル。塔のような棍棒を振りかざすオークの声に、ペルジェマンは眉をしかめた。
「ヴェレ?」
そして気がつく。先ほどの女髪が、このオークの心の先だということに。
「恋人か」
《ヂガウ。……イグゾにんげん。マゾグ七十二ヂュウ、『女髪』ヴェレニケーネの夫がアイデだ》
振り上げる。巨体に加え、振り上げられた上段。棍棒の先の高さは、三十メートルに達していた。
魔族七十二柱、『巨獣』エウゲテスはぴたりと棍棒を天高く止める。見下ろす先のペルジェマンは、その醜い顔を大きく見上げた。
「……美しい」
しゅらりと、ペルジェマンが愛剣を構える。
引かれ、正面に向けられたレイピア。戦場で初めて構えを取るペルジェマンを見下ろして、エウゲテスはその構えの美しさに息を呑んだ。
「君の美しさに敬意を表し、名乗ろう。勇者ランキングが第3位、『美しき』ペルジェマンだ。……来たまえ」
数秒の対峙。その数秒、周りの空気すらが凍り付く。
《……ヌンッ!!!!》
突如、エウゲデスが唸りを上げる。小山ほどの高さから、棍棒を最短最速で振り下ろすために、エウゲデスは持ち手を巧みに握りしめた。
術理に乗っ取った、最速の一撃。先端は音速にも届きうるその一撃は、しかし振り下ろされることなく力を無くす。
小さな穿ち。針の穴ほどの細い衝撃が、エウゲデスの身体を貫いていた。
《ヴェレ……》
最期に愛しい女の名を想い、巨獣の身体が真円状に弾け飛ぶ。
突き出された右腕。その剣の先端から放たれた衝撃が、数瞬の遅れと共に剣の正面を貫いていた。
「せめて美しく散るがいい」
無音。ペルジェマンの呟きと共に、音もなくエウゲデスの背後全てが丸い形に消失する。
その距離、五キロメートル。
まるで指し示された道のように消し飛んだ魔族は、敵の存在すら気が付くこともなく死滅した。
ぴきりと、魔王城の正面。巨大な門の鍵が、小さな円状に崩れ落ちる。
「道が……」
アルキサンダルは驚愕に目を見開いた。
話には聞く、美剣士の妙技。それは、彼の想像を遙かに超えていた。
「行くぞ。この醜い戦いを終わらせる」
ペルジェマンが開けし道。そこに、人類の軍勢がなだれ込む。
それはまるで、神話のような光景だった。
ーー ーー ーー
「ははははッ!! いいぞッ!! 魔族にこれほどの使い手がいたとはッ!!」
魔王城が一階。ここだけが唯一、剣撃の音だけが響きわたっていた。
『ぬぅうッ!! 単身この魔王城に乗り込むとは、敵ながら天晴れな娘よッ!!』
四腕。その全てに神域の宝具を握りしめたナガラジャは、目の前の少女に驚愕していた。
「ははっ。だめだ、いきそうだ。もっとだ、もっと私を熱くさせてくれ」
がちゃりと、少女の周囲に彼女の防具が散乱する。ただでさえ軽装な彼女の鎧はもはや、白く小さい下着と手足の具足しか残っていなかった。
『……自ら鎧を脱ぎ捨てるか。面白い』
「ふふ、知っているか魔の者よ。この鎧の名を」
小さく、リスティがにやりと笑う。その唇に、一瞬ナガラジャは三つの首のうちの一つの目を奪われた。
「……まいくろびきにと、言うそうだぞ」
『ぐぅッ!!』
ナガラジャは、切り落とされた首で確かに見つめる。
高揚した頬。そして、少女がとてつもなく愉しげに笑っているのを。
『……その心。最早、我らに近い。……小娘、貴様本当に人の身か』
けたけたと笑っている少女に、ナガラジャは相対する。三〇〇年連れ添った首の一つ。それを落とされてなお、ナガラジャは冷静に少女の魂を見つめた。
「んっ、ふふ。さぁな。一度墜ちた身だ。だが、おかげで掴んだぞ」
くふふと、リスティは身体をくねらす。胸と下に手をやって、片手でねちゃりと自らに触れた。
「濡れるんだ。どうしようもないほど感じる。ふふ、気をつけろ……」
その微笑みにぞっとして、ナガラジャは全ての腕と頭で少女を捉えた。
少女が腰に一振りを仕舞い、残りの一振りを両手で握る。
「今のあたしは、以前よりも大胆だぞ」
魔族四軍王が一人『剣神』ナガラジャは、そのとき悟った。
『……参る』
しかし、それでも彼は剣を握りしめる。元より、それしか知らぬ身故に。
武神同士の戦い。しかし、口上は必要ない。