第23話 両手に女勇者 (4)
夜空に月が輝いていた。電灯がなければ、こんなにも月が明るいのかと悠斗は空を見上げる。日本にいた頃は、この輝きには気がつかなかった。
「う、うぅ。ユートぉ」
夜でも、どこか暖かい風が吹いている。右手に見える家は、靴職人のオランさんの家だ。悠斗の現在履いている革靴も、オランさんに作ってもらった。
「ねぇ。ユートってばぁ」
お城がある城下町に比べると人も少ない郊外だが、住むにはこれくらいののどかさが丁度いいと悠斗は思う。耳を澄ませてみると、草の揺れる音が聞こえてきた。
「いい天気ですね、アスカ様。あったかいですし」
そう言って、悠斗はにこりと後ろを振り返る。
「うぅ。み、見られちゃうよぉ」
もじもじと身体をよじらすアスカが、恥ずかしそうに辺りを見渡す。
立ったまま、腕で身体を必死に隠そうとするが、今のアスカの格好では焼け石に水だった。
くんくんと引っ張られる首のリードは、悠斗の右手に繋がっている。アスカは、真っ赤にした顔を下に向けて俯いていた。
「ほら。お散歩行くんでしょ」
「あっ」
ぐいっと、リードが前に引かれた。アスカは、数歩よろよろと前に進む。その際に犬の尻尾が揺れて、アスカの太股を撫でた。
「可愛いですよ」
「……うぅ。そんなふうに言うなぁ」
悠斗の笑顔に、アスカが涙目で答える。悠斗からすれば本音に近いが、アスカにとっては羞恥でしかない。
犬の格好で、見知った村を徘徊しているのだ。恥ずかしがるなというほうが無理だった。
(……こ、こんな格好で私。……だ、だめ)
はぁはぁと、アスカの息が荒くなる。大事な部分は隠れているとは言え、こんな姿を誰かに見られでもすれば終わりである。そういう意味では、裸と大差ないとアスカには思えた。
「だいぶ慣れましたかね? そろそろワンちゃんになりましょうか」
どきりと、アスカの心臓が跳ねる。悠斗の言葉に、アスカは小さく前を見つめた。
「……え?」
「犬になってくれるんでしょう?」
悠斗の顔が、楽しそうに笑う。不覚にもアスカは、その顔にぞくりと背中を震わした。
リードが、優しくアスカの首を引いていく。
ーー ーー ーー
「よーしよし。いい子いい子」
村の農道。その途中で、アスカはふるふると身体を揺らした。
手と足の肉球と毛皮。それが自分の肌を地面から守る物だったことに気がついたとき、アスカの羞恥は限界に達していた。
「……ひ、ひどい」
四つん這い。簡単に言えばアスカは、すらりとした手足でぎこちない四足歩行を余儀なくされていた。
前へ進む度にふりふりとお尻が揺れ、そのせいで尻尾も右へ左へと動く。
「ほら。行きますよ」
悠斗は、にこにこしながらアスカの散歩姿を楽しんでいた。ちゃりちゃりと、首輪のドッグタグが揺れて音が鳴る。アスカは、その音にかぁと頬を赤く染めた。
(こんな。お、お尻。……んっ。み、見えちゃってる。突き出して。い、犬みたいに)
ふーふーと息を荒くしながら、アスカは必死に前へと歩みを進めていた。見つからなければ何の問題もない。そう思って、最後の気力を振り絞る。
「あれ、ユート様。こんな時間にどうしました?」
その声に、アスカの心臓が止まった。さぁっと、アスカの顔から血の気が引く。
「ああ、オランさん。いえ、見回りもかねて散歩でもと思いまして」
いつも通りの悠斗の声。アスカは、かたかたと震えながら顔を上げた。
「おお、流石は勇者さまだ。いやぁ、本当にありがとうごぜぇます。お二人が来てくれてから、この村は安全そのものだ」
人の良さそうな顔貌。近くに住む、靴職人のオランである。
暗くてアスカに気がついていないのだろうか。アスカは、上げそうになる悲鳴をこらえて茂みに隠れようとした。
「ほら、アスカ。挨拶しなさい」
それを、悠斗が引き留める。ぐいっとリードを引かれ、アスカは無理矢理前に出させられた。
「ひ、ひぃ。だめ、ユートっ」
がばりと、アスカが身体を丸める。少しでも露出を少なくしようと、アスカは半泣きで自らを抱き抱えた。
「あらまぁ、こら」
オランの小さな驚き。アスカは、何かが崩れる音を確かに聞いた。
(み、見られたっ? うそ? い、犬の格好を? うそ、うそうそうそっ!?)
羞恥どころではない。絶望の二文字が、アスカを襲う。明日から村の人たちにどう接すれば。そんなことを、アスカは考えた。
「めんこい犬っこですなぁ。いやぁ、アスカ様の名前をとってるだけあって、毛並みがいい」
「……へ?」
しかし、アスカの心の悲鳴はオランの言葉にかき消される。アスカは、柔和な微笑みのアランを見て、ぽかんと口を開けた。
(へ? ど、どうして。……って、あっ)
アスカは、全てを理解する。がばりと、横に立つ悠斗の顔をアスカは見上げた。
(ゆ、ユートぉおおおおおっ!!)
満面の笑み。我慢できないと笑い声を堪えている悠斗に、アスカはめらめらと怒りを燃やす。
こいつに渡されたものが、ただの衣装であるはずがない。
そんなことに気がつかなかった自分を、アスカは殴り殺したくなった。
「でしょう。アスカ様に似て、赤毛の綺麗な奴でね。僕が頼んで名前を貰ったんですよ。……ほら、アスカ。賢いとこ見せてみろ」
くるりと、悠斗がアスカに振り返る。差し出された右手に、アスカは嫌な予感を感じ取った。
(ま、まさかユート……)
たらりと、アスカの額に汗が流れる。
「出来なかったら、お仕置きだからな」
悠斗の笑顔。細かく言われなくても分かる。従わなければ、悠斗はアスカをいかようにも出来るのだ。
「……わん」
アスカは、手の上に手を合わせるしか出来なかった。
(う、うぅ。み、見てるよぉ。オランさんが見てるぅ……)
ぷるぷると震えながら、アスカは必死に恥ずかしさに耐えていた。心を保つため、自分は犬だと心で念じる。
(へ、平気。大丈夫。私は犬。犬になってるんだから。人じゃなくて犬なんだから)
その思考がすでにどつぼであることに、アスカは全然気がつかない。悠斗は、そんなアスカの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「いいぞぉアスカ。いい子いい子」
「わ、わんっ」
悠斗の手のひらに、アスカは元気よく返事をした。迂闊にも嬉しいと思ってしまい、その考えにアスカはぼっと顔を染めた。
(わ、私なんてことをーッッ!!)
ふるふると顔を振るアスカに、にやりと悠斗が笑う。悠斗は、くいっとリードを上に引っ張った。
「ほら、次だ。アスカ、ちんちん」
「ち、ちんちッ!?」
悠斗の言葉に、アスカは咄嗟に叫んでしまう。しまったと、ばっと口を両手で覆った。
しかし、ちらりと見たオランは変わらずにこにことアスカを見つめている。
(そ、そう。声も、犬語に聞こえるってわけね。へ、へぇー。よく出来てるじゃない)
またを笑いを堪える悠斗に、アスカはじとりと視線を向けた。しかし、命令に背けるはずもなく、どうしようと身体を見つめる。
(ち、ちんちんって。たしか、……こう。……って、え? こ、こう?)
とくんと、アスカの胸が高鳴った。足を広げ、手を前に出した辺りで、アスカの身体が熱を帯びる。
「わ、わんっ。わんわんっ」
いつの間にか、アスカは言われてもないのに鳴き声を上げていた。しかも、やる必要もないのに犬のようにはぁはぁと舌を出す。
(い、犬。犬になってる。私、犬になっちゃたぁ)
仕方ないと、アスカは自分を騙す。これは、悠斗に命令されて仕方なくだと自分に言い聞かせた。そんなアスカを、悠斗は驚いたように見つめる。
(な、何よそんな顔して。あ、あんたがやらせてるんじゃない。こ、こんな。め、雌犬の格好させてっ)
悠斗の視線に、アスカはどうしようもなく身体が熱くなっていくのを感じた。勇者だ勇者だと言われ、張り続けていた緊張。それが解き放たれていくのをアスカは感じる。
「ほ、誉めて。ユートぉ、誉めてよぉ」
はっはっと息を荒げながら、アスカは悠斗に視線を送った。悠斗は、その鳴き声に慌てて我に返る。
「よ、よーしよし。いいぞぉ、アスカ。いい子だ」
頭を撫で、髪を梳いてやる。しかしアスカは、足りないとばかりに悠斗に鳴き声を追加した。
「くぅーん。くぅーん」
宝具の範囲外の悠斗にも聞こえる、犬の言葉。その艶めかしい鳴き声に、悠斗はどきりと胸を鳴らす。
「え、えと。じゃあ、その。ごろーんて出来るか?」
どうしよう。悠斗は一瞬迷い、アスカの前で指を回す。アスカは、それを見て地面を気にもせずに背中を着けた。
「こ、こう? ……はい」
服従のポーズ。アスカは、ごろんと地面に横になりながら腕と足を前に折り畳む。むにりと、アスカの胸と太股が強調された。
「くぅーん。ゆ、ユートぉ」
ぺろりと、アスカが唇を舐める。そして、忘れてたとばかりに舌を出した。
「わぅうん」
上目使いで悠斗を見つめるアスカに、悠斗の気持ちが決壊する。がばっと、アスカから見えないように顔を後ろに向けた。
(あ、っぶねぇえええっ!!!!)
完全に崩れてしまった笑顔の仮面を、悠斗は必死に作り直す。オランが、不思議そうに悠斗を見つめた。
「そ、そのオランさん。み、見回りの続きがあるので。僕はこれで」
「え? あ、はい。すみません、引き留めちまって。いやぁ、アスカちゃん可愛いですなぁ」
少し首を傾げたが、オランも特に不審には思わずに悠斗に頭を下げる。アスカにもにこにこと手を振って、オランは遅い帰宅に戻っていった。
「ユートぉ」
アスカが、悠斗に近づいていく。
ーー ーー ーー
「へへへっ」
にこにこと歩く隣のアスカに、悠斗はうーんと頭を抱えた。
「どうしたんです? にやにやして」
「だってぇ。……へへ」
アスカが笑っている理由が、悠斗には理解できない。自分が有利なところを見せつけようと、今回の散歩を閃いたのだ。何故か自分が押されている今の状況が、悠斗には納得できなかった。
(はじめは恥ずかしくてたまらなかったけど。……なんかすっきりしたなぁ)
アスカ自身も、自分がこんなに笑っている理由がよく分かっていない。ただ、なんとなく肩が軽くなった気がして、それが気持ちも上げていた。
勇者としての重圧。その大きさに、アスカはまだ自分でも気がついていない。
「よーし、明日も頑張るぞっ!!」
気合いを入れるアスカに、悠斗は腕を組んでアスカとの今後を考えるのだった。