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上手いけど下手

※今回登場する主な人物

・湊鍵太郎…一年生。初心者。担当楽器はチューバ。

・春日美里…三年生。部長。チューバ担当。

・千渡光莉、宝木咲耶、越戸ゆかり・みのり…一年生の部員たち。

 終わった。

 真っ白に。

 初合奏を終えて、湊鍵太郎(みなとけんたろう)はイスに座ったまま燃え尽きていた。

 口から魂を出していると、隣から先輩の春日美里(かすがみさと)に声をかけられる。


「はい、湊くんおつかれさまでした。今日の失敗をバネに、またがんばりましょう」

「失敗……」


 その言葉を繰り返す。最初の曲同様、残りの三曲も似たような感じで、落ちるわカスるわ見失うわ、初めての合奏は散々な結果に終わっていた。

 無意識に力が入っていた肩が、バリバリにこっている。肩と首を回してそれをほぐそうとすると、美里が楽器を置いて、鍵太郎の肩を揉み始めた。


「あー。やっぱりガチガチですねえ。もっと力を抜くと、自然といい音が出ますよ」

「ちょ、なんで先輩が後輩の肩を揉むんですか!? 普通逆でしょう!?」

「わたしは肩こってませんのでー」

「ひょっとして先輩、俺が合奏ついていけなかったの、ちょっと怒ってます?」

「そんなことないですよー」

「そう言いつつ痛い痛い痛い!? 首の付け根がゴリゴリ言ってる!?」


 重さ十キロの楽器を扱う先輩は、腕の力も尋常ではなかった。疲れを打ち砕くような圧力を受けた肩は、じんじんと熱を持ち始める。

 それが幾分か脳のほうに回ってきて、気持ちが少しだけ前向きになった。

 今回の合奏を振り返って、反省をしてみる。


「そう、まずは……」


 真っ先に出てきた問題点は、どこを演奏しているか見失ったことだ。

 楽譜を覚えるくらいに練習しないと、ついていけない気がする。

 そして、音が出なかった。焦る気持ちが力みを呼んで、身体が動かなくなった。

 当然、金管楽器の命とも言うべき唇は震えず、それがさらなる焦りを呼んだ。その悪循環だった。

 二つに共通するのは結局――雰囲気に呑まれた、ということだった。

 同学年の宝木咲耶(たからぎさくや)や、浅沼涼子(あさぬまりょうこ)の励まし(?)はあったのだが、いざ合奏が始まってしまうと頭から吹き飛んでしまった。

 最後の最後でなんとか形にはなったものの、あれだけではさすがにどうしようもない。終わりよければ全てよしと言うが、やはり最後だけというのはあまりに情けない。

 まだまだ練習が足りないのだと――初陣で、鍵太郎は思い知ることとなった。


「はぁ……」


 ため息も出る。そんな後輩に苦笑して、美里は声をかけてきた。


「失敗したことは、あまり落ち込むことはありません。むしろ今失敗しておけば、本番ではそれを回避できるようにがんばれるわけですので、練習の失敗はどんどんしていいのですよ」


 なので、本当にわたしは怒ってないですよ? と、さきほどの強烈マッサージを気にしているのか、美里はそう付け加えてきた。


「だから、忘れないうちに今日言われたことや感じたことを、楽譜に書き込んでしまいましょう」

「え、楽譜って書き込んでいいんですか?」


 クラスメイトの千渡光莉(せんどひかり)は、指番号を書くことに対してあまりいい顔をしていなかった。なので楽譜の書き込みは、あまりしてはいけないものと思い込んでいたのだが。

 いいのだろうか。そんな鍵太郎に、先輩は言う。


「千渡さんクラスの経験者は、書かなくても失敗しそうなところはわかってますので。最低限のことしか書かないのでしょう。

 いんですよ。湊くんは湊くんのやり方で。たくさん書き込んで、それを積み重ねていけばいいんです」


 だいじょうぶですよ――と優しく言われて、最後に残っていた身体のこわばりが解けたような気がした。

 本当にこの人には敵わないなあ、と、ため息ではない呼吸をひとつ吐き出す。


「わかりました、そうします。……えーと、シャーペンシャーペン」


 鞄から筆記具を取り出そうとすると、美里が自分のものを差し出してきた。「はい、使ってください」と言われ、ピンク色のシャープペンシルを貸してもらう。

 ふと、それにホルンの先輩にハンカチを貸してもらったことを思い出した。これからは書くものも備えておかないといけないだろう。先輩のものを毎回貸してもらうわけにもいかないし、このちょっとキラキラしているピンクのシャーペンは、男子的にちょっと使うのは恥ずかしい。

 ともあれ、今回は美里の好意をありがたく受け取っておくことにする。一番最初に合奏した演歌メドレーの楽譜を出して、思い出しながら書き込みを始めた。


「ええと、最初は結構大きめでいいんですよね?」

「そうですね。前奏部分ですし、主旋律はトランペットですので、大きめに出してしまって大丈夫です」

「てことは、歌の部分になったら落としたほうがいいんですか?」

「そうなりますかね。けれどリズムは出さないといけないので、はっきりめに吹きましょう。この曲は全体的にはっきりと吹いたほうがいいですね」

「なるほど……」


 曲名の横に「はっきりと」と書き込む。他にも「ここは指揮を見る」やら、強調するところを丸で囲ったりして、あっという間に楽譜は書き込みだらけになった。


「こんなに気をつけなきゃいけないところがあったんだ……」


 落とし穴だらけの道を、なにも知らずに歩いていたようなものだった。はまって落ちるのも当たり前だ。あまりに無防備だった自分に気付いて、少し恐ろしくなる。


「そうそう。でも気をつけなくちゃいけないところは、だいぶわかりましたね。そうやって防御をしてください」

「防御……」


 まるで戦場みたいな言い方をされた。まあ確かに、罠だらけの楽譜や早いテンポで繰り出されるリズムは、剣林弾雨の戦場と言えなくもないが。

 腹式呼吸のときといい、時代遅れの根性論といい、本当吹奏楽部というのは文化部なのだろうか? と元野球部の鍵太郎は首をかしげた。

 とりあえず、今日感じたことは全部書いた。また合奏を重ねる度に、それは増えていくのかもしれない。美里にシャープペンシルを返して、譜面を片づける。

 今日の練習はこれで終わりだ。

 鍵太郎の担当するチューバという楽器は、とにかく他の楽器に比べて大きい。それをしまうケースも、もちろん大きい。

 どれくらいかというと、小柄ではあるが男子部員の鍵太郎が、身を縮めれば入ってしまいそうなくらいだ。

 未成年者誘拐ができそうなこの楽器ケースを、堂々と広げていれば邪魔なことこの上ない。なるべく端のほうで片付けをしていると、同じ一年でトランペットの千渡光莉(せんどひかり)が、音楽準備室に入っていくのが見えた。

 光莉は自分の楽器を持っているため、楽器倉庫も兼ねている準備室に用はないはずだ。

 あいつなにしてんだ? と、不思議に思う。

 今準備室にいるのは、顧問の本町瑞枝(ほんまちみずえ)ぐらいだ。

 先生に用があるのかもしれない。部員ではなく手伝いとしてここに来ている光莉は、その辺の事情で顧問になにかあるのだろう。

 そう思って片づけを再開した鍵太郎だったが、しばらくして戻ってきた光莉の顔を見て、ぎょっとした。

 彼女が今まで見たこともないほど、厳しく唇を引き結んでいたからだ。



###



「『上手いけど、つまらない』?」


 部活を終えて音楽室から出た鍵太郎は、光莉が言ったことをそのまま口にした。

 光莉は中学校のとき、県下で一、二を争うほど強豪の吹奏楽部にいたという。

 その話に違わず、彼女の腕前は三年生の先輩にも匹敵するほどのものだった。その彼女が先ほど顧問の先生に言われたのが、その言葉だそうだ。

 賛助出演ということで、みなの前で指摘するのは控えたのだろう。呼び出した本町は怒るでもなく、いつもの調子で言ったらしい。

 『おまえは吹くのは上手いが、それじゃつまらん』と。

 最初は訊いても事情を説明したがらなかった光莉だが、彼女を吹奏楽部に連れてきたのは鍵太郎だ。

 しつこく訊かれたことで折れたらしく、言葉少なげにそう説明してくれた。


「どういうことだ? それ」


 楽器を吹くのが上手いというのは、つまり上手いということで――それ以外のなにがあるというのだろう。

 つまらないとか、おもしろいとか、そういうのとは関係ない気がする。

 昇降口までの廊下をとぼとぼと歩きながら、光莉は言う。


「……あれじゃない。演歌のときも言ってたけど、『そのノリじゃない』ってやつじゃないの」


 老人ホームの慰問演奏で予定されているのは、演歌に、童謡に、時代劇の曲だ。光莉はその中で、時代劇メドレーのソロを任されていた。

 手伝いに来た一年生に対して異常な抜擢だったが、彼女の実力と、なによりトランペット三年の先輩が「光莉ちゃんもやろうよ!」と目を輝かせて言ってきたので、断りきれなかったのだという。

 演歌にしても時代劇にしても、今の女子高生があまり見るものではない。確かにそういう意味で、本来の曲調が出ないのは当たり前だろう。

 だが、それは部員全体に言えることであり、光莉だけに言えることではない。

 なのになぜ、光莉だけが呼び出されたのか。それが鍵太郎にはわからなかった。


「トランペットの1番の音っていうのはね、バンド全体に影響するのよ」


 華やかな音。全ての楽器の中の頂点に立つと言われるほどのそれはつまり、裏返せば責任重大ということでもある。

 主旋律を務めるトップ奏者は、ただ上手く吹くだけではなく、方向性を示さなければならないのだ。


「ま、初心者さんにはまだわからないことでしょうけど」

「相変わらずムカつくこと言うな、おまえ……」


 有名校にいたせいか、こうして鼻につく一言も多い光莉だ。いずれは手伝いではなく正式部員に、と密かに目論んでいる鍵太郎としては、彼女のこういうところが不安でもある。


「つまり、時代劇を見れば多少はマシってこと? 今時、時代劇なんてテレビでやってないのに」

「再放送だって、最近はやってないもんなあ……」


 古きよきものが消えていく世の中だなあ――と悲しくなる。水戸黄門が放送終了したとき、鍵太郎は愕然としたものだ。あれ以来、ほとんど年末くらいしかテレビで時代劇を見かけなくなった。


「時代劇メドレーの曲は、銭形平次と、水戸黄門と、暴れん坊将軍だったな。おじいちゃんおばあちゃんにしてみれば、テレビでやらなくなったこの曲を聞けるってだけで嬉しいんだろうけど」


 だったらもっと、ちゃんとしたものを聞かせたい。そうなんだけどなんか違う、と首を傾げられるのは嫌だ。

 入院していたときに隣のベットにいたおじいちゃんは、毎日差し入れだという時代劇のDVDを見ていた。その横顔を思い出す。

 そしてふと横を見ると、光莉が変なものを見る目つきでこちらを見ていた。


「あんた、やけに詳しいのね……」

「好きなんだよ時代劇。悪いか」


 どうも光莉相手だと、そんな突き放した言い方になってしまう。たぶんこれはこいつにも原因があるぞと思っていると、意外にも相手は食いついてきた。


「そうなんだ。じゃあ、教えてよ。水戸黄門くらいはうっすらわかるけど……他の二つはどんな話なの?」

「え?」


 まさか光莉の方から訊いてくるとは思わなかった。

 プライドの高いこいつのことだから、こちらから教えると言っても断られそうな気がしていたのだ。

 それだけ、本町に言われたことがショックだったのだろう。


「なによ。そんなびっくりすること? ……べ、別に嫌ならいいのよ? 帰って自分で調べるから」

「いや、教える、教えるから待てって!?」


 スタスタと早足で去ろうとする光莉を追いかける。やっぱり光莉は光莉だった。

 どこか素直でない。しょうがねえなあ、と思いつつも、解説を始める。もっとも時代劇なので、大体の話の流れは一緒なのだが。


「えーと、まず『銭形平次』っていうのは、そのまま平次が主人公だな。岡っ引き……まあ、今で言うおまわりさんが、色々と事件を解決する、っていうのが普通の流れ」

「銭形って苗字じゃないの?」

「あの時代、武士以外に苗字はねえよ。『銭形』っていうのは、まあ、あだ名みたいなもんかな? 悪いやつらに投げつける武器として、穴あき銭を投げるからそうなったんだと思う」

「なんでお金投げるの?」

「この作品に対して、一番突っ込んじゃいけないところを突っ込んだなおまえ!?」


 そこにつまずくと話が進まない。まあ確かに、普通はそこは疑問に思うところだろうけど。


「そこは置いといてくれ! 銭投げで柿割ったりするけどそこは創作だから! そこ突っ込んじゃだめだからぁ!」

「えー……」


 なにやら光莉は不満げだった。ぬう、こいつどうしたものかと鍵太郎が思っていると、「なにしてるの?」と後ろから話しかけられた。

 振り向くと、そこは同い年でクラリネット担当の宝木咲耶(たからぎさくや)がいる。

 彼女はいつものようにきれいな目をきょとんとさせて、首をかしげていた。「今、こいつに銭形平次の話をしてたところ」と言うと、咲耶はその瞳をさらに見開いて、言ってくる。


「私も聞きたい」

「え?」


 ここにも曲のイメージで悩んでいた部員がいたらしい。

 咲耶はトコトコと歩いて、鍵太郎の右側に移動してきた。そして左側には光莉がいる。

 二人の女子に挟まれて両手に花といえばそうなのかもしれないが――しかし話題が時代劇とは。


「で、その銭投げってどうやってやるの?」

「えーと、それは、こう……」

「よくわかんないね……」


 口で説明するのは限界がある。どうしたもんかなと思っているうちに、「なにしてるのー?」「なにやってるのー?」とさらに話しかけられた。打楽器担当の同じく一年生、越戸ゆかりと、越戸みのりの双子姉妹だ。


「湊くんが、銭形平次の話をしてくれるんだって」

「ほんと!?」

「ききたい!」


 ステレオ音声が走り寄ってきた。またかしましいのに見つかったなあ、と鍵太郎はさらに賑やかになった自分の周りを見る。なんだろうこれは。


「そうなんだけど、やっぱり言葉で説明するのには限界があってさ。どうしようかと思ってたとこで……」


 ちょっと逃げたい気持ちもあって、そんな風に言ってしまう。越戸姉妹は顔を見合わせて、落胆するかと思いきや、あっさりと言ってきた。


「そんなの簡単だよー」

「今見られるじゃん、映像ー」

「え?」


 鍵太郎と光莉、咲耶がきょとんとした。ちょっと生きている世界が違うような双子だが、なにを思いついたのだろうか?

 二人はなんでもないことのように、三人に言ってくる。携帯を出しながら。



「誰かスマホ持ってる?」

「みんなで動画見ようよー」



『――ああ』


 なんの合図もないのに、三人揃ってぽんと手を打つ。

 合奏もこのくらい揃えばいいのにな、と鍵太郎は密かに思った。

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