初デート
風が一つ麻美の麦藁帽を掻っ攫おうとして、細い左手がやんわりとそれを拒んだ。
右手はバスケットでふさがっていて、僕らは並んで歩いていた。親友以上の関係になったというのに、居心地の悪い沈黙の中をただ歩いていた。夕陽は誰彼なく、平等に辺りを真っ赤に染め上げている。もうすぐ蝉の鳴き声が鈴虫のそれに取って代わる時分だった。
バスケットでは、本来、今日のお昼となるべく彼女が用意してくれたサンドウィッチがぱさぱさと干乾びていた。
麻美はお昼から、もとい、待ち合わせていた時からツンとして、終始無言を貫き、僕が幾ら話しかけても聴く耳持たず、だった。
いや、一度だけ「今日はどうしたんだよ? 何で怒ってるんだよ?」と、訊いたら「わからないの? 一時間もあんなに私を待たせておいて、それでも何で私が怒ってるかわからないの?」云々と、会話が成立したことはあった。
確かに僕は待ち合わせの時間に遅刻したけど、それは三十分で、麻美が待ち合わせ時間の三十分前から、木陰も何も無い待ち合わせ場所で待ってるから一時間も待つことになったんだ。
初めてのデートなのに、何でこんなことになったんだろう。
ほんとは水族館とか美術館とか自然公園とか、行きたいところはたくさんあったけど、それらすべてをことごとくスルーして、ただひたすらに歩き続けていた。本音をいうとさ、もう足裏が石の様にカチカチで歩くのも難儀なんだよね。でも、ちらっと視線を落とすと、麻美はハイヒールをはいているんだ。僕なんかとは比較にならないぐらい疲れているはずだった。それでも、彼女は止まって休もうとしない。一駅行き二駅行き、街からはずれ、いつの間にか茶畑に囲まれたゆるやかな山道をのぼっていた。
一睡もしなかったってことはないけど、昨日は浮かれてよく眠れなかった。友人にデートだって自慢するメールを送って「わかった、おまえの気持ちは解ったからこれ以上メールを送るな、ツイッターじゃないんだ、そして、もう寝ろ、残暑にやられても知らんぞ」と相手を辟易させるほど僕は興奮していた。やっとのことで寝つけても、起きた時には遅刻は確定だった。そして、結果はこういうことになってしまって。
どうすればいいのか。さっきまで散々謝っては来たけど、やっぱり返事をしてはくれなかった。
ただひたすらに麻美の隣に並んで歩くほか無いのだ。
見渡す限り、どこまでも茶畑が広がっている。こんなとき、ヒマワリとか少なくとも何かの花畑だったらロマンチックな和解法も思いつたかもしれない。でも、茶葉をむしって「ごめん」と渡しても、ますます麻美を怒らせるだけだ。
隣に目を配らせる。両手でバスケットを持ち、それを蹴らないように適当な距離置きながら、麻美は次々と踏み出していく。ペースは、昼間よりも大分落ちてはいた。昼からずっと歩いているせいもあって、彼女の化粧は所どころ補修を必要としているようだったが、幸いなことなのか、近くには僕を除いて人っ子一人見受けられなかった。かく言う僕も、全身べっとり汗まみれで気持ちが悪い。きっと、顔なんて油ギッシュで、鏡なんて持ち出されていまの自分の顔を見せられたら卒倒するかもしれない。でも、それは彼女も一緒だ。
そこでふと、僕はファンデーションの禿げたのであろう目元に、黒いものを見つけた。くまの跡だ。
たぶん自分にも出来てるだろうなぁ、とか暢気な考えが浮かんだが、それと同じくして、一つのことに気がついてしまった。
僕も麻美も、恋人を持つのは初めてのことだった。すべてが初めてで、彼氏/彼女に対するある種のメソッドを持っているわけではない。どうしていいのかわからないのは、麻美も一緒のはずなのだ。
きっと、麻美も、この状況をどうやって収集していいのかわからなくて、つんとすましながらずっと歩いているのかもしれない。麻美は意外と強情だから、事態を改善したいと思っても、自分から折れるなんて事が出来ないんじゃないかと思う。
そういえば、と僕は内心つぶやいた。さっきから、謝っては来たけど、そのどれもが誠意に欠ける、まごころも何もない薄っぺらいものだったと気がついた。「ごめん」とか「すまん」とか「すみません」とか「ごめんなさい」とか、口で言うのは本当に簡単だけど、そこに心の底からの謝意を込めるのは、なかなかに難儀なことなんだと、いまこの瞬間、麻美の横顔を見て気がついた。
そう、僕達は恋人になった。だからこそ、上辺だけじゃない、お互いの本心と本心、いろいろなもので包まれたやわらかく傷つきやすい本当の心をさらけ出していかなきゃいけないだ。どんなに繕っても仕方ない。自分のすべてをさらけ出して、相手のすべてを受け止めてあげなくちゃいけない。僕らは他人ではあるけれども、一つの人となろうとしているんだから。好敵手でも親友でもない、恋人ってのはそういうのもじゃないのかな?
するとふと、ある想いが、深く淀んだ意識の底から、澱を蹴散らして浮いてくるのを感じた。それは決意のように固くて幼いほどに柔らかく眩いばかりに輝いているようだった。熱く重い。一陣のそよ風に麻美の黒髪が流れた。石鹸の香りが、甘酸っぱい匂いの中でほんの僅かに見つけられた。その瞬間、たまらなく麻美が愛おしく感じた。五年後、十年後二十年後もこうやって彼女の隣にいて、そしてずっとこの夕陽を眺めていたいと強く願うように心が沸いた。きっとそこにはすごく笑顔の麻美がいて、そしてそれをやっぱり愛おしくて仕方ないと感じてる僕がいる。
僕は「それ、重いだろ」と言って麻美のバスケットを引っ手繰った。
麻美は鳩が豆鉄砲を食らったみたいに驚いていた。そしてから「なにするのよ、返して」と手を伸ばしてきた拍子に足を踏み外して倒れ掛かってきた。僕はそれを受け止めようとして石のように固くなっている足が意思に反してバランスを崩して二人して茶畑に倒れこむ形になってしまった。吐息がかかるほどに近くに麻美の顔があった。「なに、するのよ……」弱々しく吐き出された虚勢に僕は胸の奥が締め付けられた。「ねえ、思ったんだ」「なによ」「僕はさ、本当に君の事が好きでさ」「はぁ?」麻美の頬がさらに赤らんだような気がした。僕は麻美を起こしながら起き上がり彼女の瞳を見るようにして言った。
「だからさ、なんというか……」
「なによ」
バスケットは僕の後背の堤の上に落ちている。開いた口から覗くのは、ぱさぱさに干乾びたサンドウィッチ。手作りのサンドウィッチ。
「初めてのデートがこんな感じになっちゃって、サンドウィッチまで作ってきてくれたってのに、なんか俺、ひどく舞い上がってたって言うか、いや、言い訳でしかないけどさ、麻美のこと全く見えてなくて、挙句の果てに、まあ、その、あんな永い時間待たせちゃったわけだし……」
彼女は胸の前で手を絡めて少し俯いた。
「ホント、ごめん」
僕はそこで頭を垂れた。視界にはお世辞にもいいとは言えないコンクリートと礫で舗装をされた道が入った。
「ん」
その声に顔を上げると、麻美が両手を僕の方に投げ出していた。
「ん」
もう一度、両手を僕の方に出す。何が言いたいのか分からなかった僕に、
「疲れたからおぶって」
と言った。呆気に取られた後、急に込み上げるものがあり僕は苦笑を洩らしてしまった。
「何がおかしいのよ」
「いいえ、なにも」
僕は彼女に背を向け跪いた。一人としては軽すぎる体重と十分すぎる体温を感じた。立ち上がり、僕は背負った温もりを確かめるように一度大きくおぶり直すと麻美は僕の首に手を回して来た。その手には、いつの間にかバスケットが握られていた。
「お姫様、いかがでしょうか」とわざと恭しく訊いてみた。
「うむ、苦しゅうない」
どちらともなく、今度は二人で笑いあった。本当はこういう時間を今日はたくさん過ごしたかったんだ。でも、そのためにはその分だけの努力をしないといけないんだ。そう思いながら一歩を踏み出した。小さな、人一人の一歩だった。けど、僕にとってはそれはこれから続く二人の日々への大きな一歩だった。
背中で麻美が項垂れた。バスケットはしっかり握られている。耳元で吐息に混ざって「ごめんね」と呟きが聞こえた。何か答える前に彼女は続けた。
「ありがとう」
それから二人して始終無言だったが、居心地の悪いものではなかった。