罠に落ちた 猿と麒麟 蒲生氏郷 第五章
第五章:本能寺の慟哭:麒麟、孤立す
天正十年、六月二日。
京の空が、夜明け前だというのに不気味な朱色に染まった。
本能寺を焼き尽くす、怨念の炎である。
「……殿。信長公、そして信忠様もか」
安土城でその報に接した氏郷の全身を、故郷・鈴鹿の雪をも凌ぐ極寒の衝撃が突き抜けた。
天下の太陽であった信長が沈み、かつて背中を預け合った「若き番長」信忠までもが、二条御所の露と消えた。
氏郷にとって、それは単なる主君の死ではなかった。己が信じた「正義」と、魂の「居場所」が、一夜にしてこの世から無残に削り取られたことを意味していたのである。
だが、氏郷を真に戦慄させたのは、燃え盛る炎の熱さではなかった。周囲に漂う、あまりにも冷徹な「静寂」であった。
明智光秀が謀反の狼煙を上げたその瞬間、まるで引き潮のように、安土の重臣たちが動きを止めた。
いや、動かないのではない。彼らは「次に誰が勝つか」を、冷徹に算盤を弾きながら見定めていたのだ。主の死を悼むよりも先に、次なる権力の座を値踏みする音……。
そこへ、一陣の狂風が吹き抜ける。
備中から、人知を超えた速さで駆け戻る羽柴秀吉の軍勢である。
「中国大返し」――。
それは決して、天が与えた奇跡などではなかった。道中の炊き出し、替え馬の配備、そのすべてが、まるでこの日をあらかじめ予見していたかのように、完璧に整えられていた。
「明智が動いたか。……ニャ」
戦場に到着した秀吉の、その一言。
そこには悲しみなど微塵もなかった。あるのは、獲物を仕留める直前の野獣が見せる、どす黒い愉悦。秀吉は、光秀という「汚れ役」が信長を排除するのを、特等席でじっと待っていたに過ぎないのだ。
氏郷は、秀吉の背中を見つめながら、確信にも似た戦慄を覚えた。
(この男も、家康殿も、光秀も……。皆、信長公の死を望んでいたのだ)
山崎の合戦で光秀が討たれ、時代は一気に「猿」の天下へと傾き始める。
しかし、氏郷だけは違った。
彼は、勝ち馬である秀吉に媚びることも、計算高い家康と通じることも選ばなかった。
ただ一人、灰と化した信長の「遺志」と、信忠との「盟約」を深く胸に抱き、泥にまみれた権力争いの中に凛として立ち尽くしたのである。
「麒麟は、泥水は飲まぬ」
その孤高な姿勢、濁りのない正論が、天下を盗もうとする秀吉にとって、どれほど目障りな棘として響いたことか。
周囲の重臣たちが抱く羨望は、この日から、抜き差しならぬ「憎悪」へと変質していったのである。




