盗難事件
ある日の昼休み、事件は起きた。
「無い……おれの財布!」
叫び声を上げたのは、萩田だった。そこですぐさまクラスを取り仕切るのは、風紀委員長である氷室師走だ。
「各自、今すぐスクールバッグの中身を全部出せ!」
彼の指示に従い、生徒たちは次々とスクールバッグの中身を出していく。しかし、その場に萩田のものと思しき財布はない。
「どうせ相良が金を抜いたんだろ!」
「いや、尾木も怪しいぞ!」
「犯人は誰だ! 探せ!」
教室内は大騒ぎだ。少なくとも、彼らには犯人を特定したいだけの善性があるらしい。あるいは、それは歪んだ正義である可能性も高い。
この時、師走は迷っていた。宏太なら、犯人を突き止められる――彼はそう確信したのだ。同時に、彼が復讐代行部を頼ることは、この上ない屈辱でもある。さりとて、今は手段を択んでいる場合でもないだろう。
「……宏太」
「どうした、師走」
「これは、復讐代行や私刑の依頼じゃない。犯人を調べて欲しい。犯人がわかったら、ボクが責任を持って生徒指導送りにする」
もはや藁にも縋る想いだ。いつも真剣で誠実な師走が、この時はより一層深刻な表情をしていた。
「……わかった。調べを進めてこよう」
宏太はすぐに教室を去ったが、教室は依然として騒然としている。
「師走! 結局お前も、アイツらを頼らないと何もできないのか!」
「都合の良い時だけ宏太を利用するなんて、恥を知れ!」
「お前自身も動いてみたらどうなんだ! お前が無能だから、萩田が金を盗まれたんだぞ!」
「これは事件だぞ、歴とした犯罪なんだぞ!」
「おい師走! なんとか言ったらどうなんだ!」
――教室内に響き渡る怒号は、概ね師走に向けられたものだ。師走は歯を食いしばり、握り拳を震わせる。悔しさ、惨めさ、そして怒り――その全てが交じり合い、彼は苛立ち始めている。それでも理性を保つ彼の姿は、高校生にしては品行方正なものと言えるだろう。
「申し訳ない。全ては、ボクの落ち度だ」
その善性ゆえに、師走は謝った。そこで今度は、絵里が立ち上がる。
「皆、いい加減にしてよ! 師走は萩田のために、恥を忍んで宏太にお願いしたんだよ! 責任だって感じてるし、正義もある! あーしたちが本当に責めるべきなのは、師走じゃなくて犯人でしょ!」
曲がりなりにも、彼女は正義感を原動力とした女だ。今回、彼女が師走を庇ったことも、決して打算などではない。その場は数瞬ほど静まり返り、気まずい雰囲気が醸された。それからしばらくして、生徒たちは次々と謝る。
「ごめん」
「悪かったよ、師走」
「私も、ごめん」
白宮絵里というたった一人の生徒の声で、形勢は一瞬にしてひっくり返った。やはり彼女は、天性の扇動者なのだろう。
「……絵里、ありがとう」
そう呟いた師走は、少しばかり安堵を覚えていた。その光景を前に、潤也は大きな欠伸をする。
「ふああ……なんでも良いけどさ、絵里。コイツを庇う意味なんかあんのか?」
「あーしは、間違ったことを許せないだけ!」
「あのなぁ、正義とか道徳ってモンは、全部後付けなんだよ。人間は野生動物より、生活基盤が安定してるだろ? だから余計なことを考えてしまうし、全てに意味を見出さないと済まなくなるんだよ」
相変わらず、この男は正義に対する姿勢がドライであった。一方で、絵里も決して折れはしない。
「後付けだって構わない! それが道理に背くものであっても、正しさを信じる人類は美しいはずだから!」
「お前、ニーチェに冷笑されそうな女だな。弱者にとって美味な奴隷道徳を正義と断ずるのは、ルサンチマンの顕れだよ」
「笑いたければ笑えば良い。あーしは、後ろ指を指されても正義を信じるから」
結局のところ、彼女は筋金入りの正義中毒者であった。




